ぶらり京都-21 [銀閣寺]
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「京都で土地の境界の依頼で〜ネ」婆さんが云うには「あの戦争で廻りみんな焼けてしもて、隣がうちとの間に塀を建てた時、うちとこの土地へ一尺ほど、ですぎてて、今だにそのままなんやけど、何とかしておくれやす!そら〜も〜あれ以来、ず〜と知らん顔ですねん」「戦争?京都で戦争で焼けた〜?太平洋戦争でもないし、蛤御門の変か?いや・・京都が戦争で焼けた?そんなんあったかなあ〜?」「しらしませんのかいな?あの戦争どすがな〜、あれ以来、モ〜、隣がわてとこの土地を占領してしもて」で、はたと、そう云えば昔々にあったあった「応仁の乱?え〜500年も前の話やろ!・・・しぶといな〜京都の人は」・・・
室町幕府8代将軍・足利義政と、正室・日野富子の夫婦喧嘩?の様なもめ事は、長年、男子を産めなかった富子が、寛正6年(1465年)に待望の義尚を出産してから夫婦喧嘩を飛び越えて、将軍擁立への激しい権力闘争へと発展し、京都を主戦場としてこの街の大半を焼失させ、応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)の11年間にわたって、全国の守護大名を巻き込み、婆さんの云う「応仁の乱」がおこる・・・
結果、義政と富子の間は冷却化し、富子は果敢に権力闘争を続けるが、嫁に敗北?した義政は完全に政治への興味を失い、文明5年(1473年)嗣子・義尚が将軍に就任してから、東山の月待山麓に山荘・東山殿(ひがしやまでん)の造営を始め、工事開始の翌年、文明14年(1482年)ここに移り住み、死の直前の8年間にわたって造営を続けながら、書画や茶の湯に親しみ隠遁か蟄居か風流?に近い生活を送る。その山荘が慈照寺(じしょうじ)で、通称「銀閣寺」と云われてるが、義政は現存する観音殿(銀閣)と東求堂(とうぐどう)などを完成をさせ、延徳2年(1490年)に54歳でこの世を去る・・・
義政が残したものは、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術を開花させ、幽玄、わび・さびに通じる美意識を確立し、簡潔さと公家文化の伝統美を融合し、新しい武家文化を開化させた。それは、祖父・足利義満が建てた金閣寺に代表される貴族的・華麗な「北山文化」に対して「東山文化」とよばれている・・・
そして、義政の感性は当時でもやり過ぎと思える程で、石庭などを見れば、今の我々の目を通しても少し理解出来ない程、現代でも遥かに前衛的と云える・・・
この国が輸入文化から日本的なものを求め出したのは、鎌倉時代の武家屋敷頃から始まり、室町時代初期に能が「幽玄」の世界を創り上げ、室町時代中期の京都六角堂の池のほとりに居住していた僧侶「池坊」の華道や、西国の巨匠・雪舟が中国画の直模から脱した日本独自の水墨画を確立する・・・
そして金閣寺(応永4年:1397年)の寝殿造りから75年ほど後、義政が銀閣寺に着手する頃には、流れは大きくなり、日本美と云う文字が浮かび上がる。義政によって建てられた東求堂(とうぐどう)の北面東側の四畳半は同仁斎(どうじんさい)とよばれ、畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間など、今日の生活空間さながらであり、それは東山文化の源流となり「書院造り」と呼ばれ、日本文化はここに完成する・・・
時代は江戸中期、文人画の池大雅の「琴棋書画図」と与謝蕪村の「棕櫚に叭叭鳥図」「飲中八仙図」「山水人物図」が方丈(本堂)の襖絵に、書院襖絵は大正時代の南宋画派・富岡鉄斎が「大江捕魚図」を、増築された弄清亭(ろうせいてい)の襖絵は昭和の奥田元宋の「流水無限」が描かれているが、通常公開はされていない、外からの撮影分やカタログ、ネットから下記に添付する・・・
(与謝蕪村の「棕櫚に叭叭鳥図:しゅろにははちょうず」がなかなかで、現代でも見事に生きてます・・・)
(以下・参考サイト)
世界遺産「銀閣寺」正式名称・東山慈照寺(じしょうじ)
室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始め、足利義政が鹿苑寺の金閣舎利殿を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/慈照寺
銀閣
http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/
http://www.pref.kyoto.jp/isan/jishouji.html
銀閣寺は京都を代表する楼閣建築物の一つです。歴史的には金閣寺を造営した足利義満の孫である足利義政が造営した東山山荘を彼の死後、菩提を弔うために慈照寺という寺に改めたものです・・・
http://kyoto.gp1st.com/350/ent158.html
銀閣寺>今日の銀閣・Webカメラよりの画像です。毎日拝観時間内1分毎に撮影しています・・・
http://www.shokoku-ji.or.jp/ginkakuji/webcam/index.html
銀閣寺 の画像検索
http://www.google.co.jp/images?client=safari&rls=en&q=銀閣寺&oe=UTF-8&redir_esc=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=AGIATf-ZDciHrAfvx42RDw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=5&ved=0CEkQsAQwBA&biw=905&bih=912
銀閣寺&金閣寺
http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/ginkaku.htm
慈照寺(銀閣寺)
http://everkyoto.web.fc2.com/report103.html
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/48780736.html
http://blog.nh1016807.jp/201006/article_1.html
http://everkyoto.web.fc2.com/report103.html
慈照寺銀閣の雪景色
http://blog.goo.ne.jp/kodama0015/e/1a579118a700e486945664bd7d7b3f93
足利 義政(あしかが よしまさ)永享8年(1436年)〜延徳(1490年)
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年- 1473年)早世した7代将軍、足利義勝の同母弟にあたる・・・
自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義政
日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代の人物。室町幕府8代将軍足利義政の正室・・・
応仁の乱
富子は1462年(寛正3年)と1463年(寛正4年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。1464年(寛正5年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。しかし翌寛正6年(1465年)に富子は足利義尚を出産する・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/日野富子
日本の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/室町時代
京都 - Wikipedia
京都は歴史が古く、第二次世界大戦で大きな戦災に見舞われなかったこともあって、京都人が「この間の戦争」などと言う場合、500 年以上前の1467年に起こった応仁の乱を指す場合がある・・・
応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの11年間にわたって継続した内乱。8代将軍・足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/応仁の乱
応仁の乱 原因
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった・・・
http://okwave.jp/qa/q151681.html
応仁の乱・タイムライン
http://www.google.co.jp/search?q=応仁の乱&hl=ja&client=safari&sa=X&rls=en&tbs=tl:1,tl_num:20&prmd=iv&ei=Lm8ATcrhC9H4cZL4vc0E&ved=0CK0BEMsBKAI
応仁の乱画蔵検索
http://www.google.co.jp/images?q=応仁の乱&hl=ja&client=safari&rls=en&tbs=isch:1&prmd=iv&source=lnms&ei=cG8ATbX1NMKdceLkvM0E&sa=X&oi=mode_link&ct=mode&ved=0CBoQ_AU&biw=905&bih=912
応仁記の主な登場人物
http://homepage1.nifty.com/sira/ouninki/characters.html
東求堂 同仁斎
おのずと意識される「日本」・京都の慈照寺、いわゆる銀閣の東求堂にある同仁斎という書院です。足利義政が応仁の乱のあとに東山につくり、ここに隠遁するというか、将軍職を退いたあとに生活する場所をつくったんですけれど・・・
http://www.muji.net/lab/report/100203-01.html
建築余話-11和室について・慈照寺 東求堂 同仁斎(1486[室町時代後期]/京都市)・・・
http://itan-no-saidoku.at.webry.info/200906/article_6.html
AYA設計 AYAmamのDiary
http://plaza.rakuten.co.jp/ayasekkei/3020
方丈(本堂)には俳人・与謝野蕪村と画家池大雅による襖絵が飾られている。
http://homepage3.nifty.com/chata270714sh/ryokou/tabi13.htm
襖絵保存修理・銀閣寺(京都)
http://www.koetsuan.com/history/ginkaku.html
東求堂 同仁斎 画蔵検索
http://www.google.co.jp/images?client=safari&rls=en&q=東求堂%E3%80%80同仁斎&oe=UTF-8&redir_esc=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=b9UCTcKbKdCrrAem44SRDw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=2&ved=0CCkQsAQwAQ&biw=893&bih=893
東山文化
応仁の乱(1467年)以降、戦乱に明け暮れる世の中になったが、一方では能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた時代で、それらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本的な文化を数多く生み出した。また、京都が戦火に見舞われたことで多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ身を寄せたため、文化の地方伝播が進行した。貴族的・華麗な足利義満の北山文化に対して、幽玄、わび・さびに通じる美意識に支えられていると評され、東山文化期に和室(畳、障子、襖、床の間)や枯山水が様式化された・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/東山文化
北山文化(きたやまぶんか)
室町時代初期の文化で、三代将軍足利義満(1358年〜1408年)の北山山荘に代表され、今日の歴史学では東山 文化と合わせて「室町文化」と呼ぶのが一般的だという・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/北山文化
足利 義満:あしかが よしみつ 正平13年/延文3年(1358年)〜応永15年(1408年)
室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺を建立して北山文化を開花させた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/足利義満
金閣寺・鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。寺名は足利義満の法名に因む・・・
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/鹿苑寺
室町文化(むろまちぶんか)とは足利氏によって京都に室町幕府が開かれた時代の日本の文化・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/室町文化
書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代中期以降に成立した住宅の様式である。その後の和風住宅は、広い意味で書院造の強い影響を受けている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/書院造
数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つであり、数寄屋(茶室)風を取り入れた住宅の様式とされる。語源の「数寄」(数奇)とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり(数寄者:すきもの参照)「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/数寄屋造り
雪舟(せっしゅう、1420年(応永27年) - 1506年(永正3年))は室町時代(15世紀後半)に活動した水墨画家・禅僧・・・中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/雪舟
華道の確立は室町時代中期、京都六角堂の僧侶によるものとされる。僧侶は代々池のほとりに居住していたことから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれていた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/華道
室町初期
能(のう)は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本の舞台芸術の一種
世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており[5]、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。
日本建築史(にほんけんちくし)では、日本における建築の歴史を記述する・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本建築史
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の住宅
日本の文化
本項では日本の文化全般について、幅広く過去から現在への事象を取り上げ、概要の説明やリンクを示す。
分類については、まだ発展・整理の途上であり、正式なものではない。日本発祥のもの以外でも、日本に深く根付いているものはこの記事に含まれる・・・
東山文化の時代を中心にして、猿楽(能)、茶の湯、書院(書院造)などが発展し、今日「日本的」といわれる文化の多くがこの時代につくられた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の文化#.E7.94.9F.E6.B4.BB
文人画(ぶんじんが)とは、中国において職業画家の画(院体画)に対し、文人が余技として描いた絵画のことをいう。江戸時代の文人画の代表者には、池大雅、与謝蕪村、谷文晁、渡辺崋山など・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/文人画
与謝 蕪村 よさの ぶそん、享保元年(1716年)〜天明3年(1784年)江戸時代中期の日本の俳人、画家・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/与謝蕪村
松尾芭蕉が亡くなったのは1694年(元禄7年)だった。その後、俳句は大衆化の時代を迎えた。芭蕉没後の低迷した状況の中に出てきたのが与謝蕪村だった・・・
http://plaza.rakuten.co.jp/pess5547/diary/201005260013/
蕪村の俳句集
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/buson.htm
「春の海ひねもすのたりのたりかな」
「菜の花や月は東に日は西に」
「五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒」
美の巨人たち・与謝蕪村作「夜色楼台図」
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/onair/index.html
池 大雅 いけの たいが 享保8年(1723年)〜安永5年(1776年)日本の江戸時代の文人画家、書家・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/池大雅
世界遺産・銀閣慈照寺方丈・襖絵・壁画 48面(京都市指定重要文化財)
文人画家「与謝蕪村と池大雅」の巨匠コラボのデジタル再製画「伝匠美」
世界遺産銀閣慈照寺方丈(本堂)にある、江戸時代の文人画家与謝蕪村(1716〜83)筆の「飲中八仙図」「山水人物図」「棕櫚に叭叭鳥図」の3作品36面と池大雅(1723〜6)筆の「琴棋書画図」の12面、計48面の紙本墨画淡彩の「襖絵と壁画」をデジタル再製画「伝匠美」で再現しました・・・
http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/g01.html
http://www.imadegawa.info/ginkakuji/index.html
http://kazuuun.blog79.fc2.com/blog-entry-979.html
銀閣寺襖絵をデジタル複製 与謝蕪村、池大雅の水墨画
http://www.47news.jp/CN/200706/CN2007061201000534.html
松尾 芭蕉 まつお ばしょう 寛永21年(1644年)〜元禄7年(1694年)現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/松尾芭蕉
http://ja.wikipedia.org/wiki/富岡鉄斎
http://ja.wikipedia.org/wiki/奥田元宋
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