北斎とシーボルト [後編] - 国境なき旅人 -
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「美」は有史以前より国境なきボーダレスな世界を形成している・・・
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図が医学の道を切り開いた以上に西洋諸国に写実画としての正確なデッサンとして浸透したり、江戸の浮世絵が日本の焼き物の包み紙などでヨーロッパに伝わり、フランスの印象派に影響を与えた様に、江戸幕府の長い鎖国政策においても、抜け荷や御禁制の品や書物など、思いもよらない物を通し、感性はいろんな国を経て輸出入を繰り返し、国境なき旅をしている・・・
前編の北斎工房に見られるような、西洋的な技法で描かれた絵は、北斎以前の安永3年(1774年)ドイツ人医師クルムスの医学書"Anatomische Tabellen"のオランダ語訳「ターヘル・アナトミア」を杉田玄白が翻訳した書「解体新書」あたりの、人体デッサンや詳細な細密画などからまぎれ込んできたと云われている・・・
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「ターヘル・アナトミア」はドイツ人医師クルムスの解剖学書のオランダ語訳書。「解体新書」の最も重要な底本である・・・wiki
『解体新書』の翻訳作業が行われ、図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、小田野 直武(おだの なおたけ)がその作業を行う・・・wiki
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それはまさに、時代は科学と云う正確さを必要とし・・・
科学はガリレオやニュートン、アルキメデスなどによる正確な数式による物理学を生み出し、この国も蘭学を通り人体をくぐり抜け、風景も立体的で分量や質に正確な物の位置関係を必要とし、西洋かぶれで蘭学者の洋風画家・司馬 江漢(しば こうかん:1747〜1818年)が描いた静岡県立美術館蔵の(銭湯などに描かれた様な富士山の絵)「駿州薩陀山富士遠望図」などや、亜欧堂 田善(あおうどう でんぜん:1748〜1822年)や、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した小田野 直武(おだの なおたけ:1750〜1780年)などのに見られる様に油彩画や銅版画の科学的な質量やしくみ、或いは遠近法などによる正確な絵が蘭学者たちによって姿を表す・・・
1804年(文化元年) |絹本油彩 額装|78.5×146.5cm |静岡県立美術館蔵 天明3年(1783年)|紙本銅版筆彩|24.9×38.7cm| 池長孟コレクション|神戸市立博物館蔵 司馬 江漢(しば こうかん(延享4年:1747年〜文政元年:1818年) 江戸時代の絵師で蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。 本名は安藤峻・・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/司馬江漢 西洋遠近法を用いて銅版風景画や洋風画を制作・・・ 亜欧堂 田善:あおうどう でんぜん(寛延元年:1748年〜文政5年:1822年) https://ja.wikipedia.org/wiki/亜欧堂田善 1770年代(明和7年)|秋田市立千秋美術館所蔵 平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した・・・ 小田野 直武:おだの なおたけ(寛延2年:1750年〜 安永9年:1780年) https://ja.wikipedia.org/wiki/小田野直武 |
そしてその科学と云う正確さは、この時期一般の知識人やプロの絵師に浸透し、北斎も13歳ほど年上の師と仰ぐ司馬 江漢から洋風絵画を盗み取るように描かれた「ひらがな落款洋風画」と呼ばれている、石垣模様の額縁風の枠をもった一群の洋風画を意識し、絵の説明文字を西欧風の横文字にした「おしをくりはとうつうせんのず」「たかはしのふじ」「くだんうしがふち」など、パリが単純さと情緒性の浮世絵を求めたのとは真逆の作品を残している・・・
浮世絵技法で洋風風景画を試みた北斎の執念 「ひらがな落款洋風画」 葛飾北斎|文化初期(1804〜1807年)頃|横中判|紙本版多色刷 葛飾北斎|文化初期(1804〜1807年)頃|横中判|紙本版多色刷 葛飾北斎|文化初期(1804〜1807年)頃|横中判|紙本版多色刷 葛飾 北斎(かつしか ほくさい):Katsushika Hokusai(宝暦10年:1760年?〜 嘉永2年:1849年) https://ja.wikipedia.org/wiki/葛飾北斎 |
時代も国の仕組みの精度を上げていく・・・
老中・松平定信による寛政の改革(1787〜1793年)が始まり、経済不安から犯罪も増加し凶悪化して、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が火付盗賊改方の長官となったのは1787年(天明7年)〜1795年(寛政7年)、浮世絵も歌麿は奉行所の摘発を受け手鎖50日の出所後、1806年(文化3年)に54歳で亡くなり、版元の蔦谷重三郎も財産を半分没収・・・
←(高橋景保|新訂万国全図 文化7年:1810年)
文政11年(1828年) 8月にオランダ船ハウプトマン号が嵐に遭って座礁し、その荷箱の中から御禁制の品が続々と発見された。幕府隠密だった千島樺太探検家・間宮林蔵は職務にしたがって、シーボルト達が日本地図を海外へ持ち出した件について幕府に密告。十数名が処分されシーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分となり、世に云うシーボルト事件が起こる。偶然にも北斎の絵はシーボルト事件前にバタビア(現・インドネシアのジャカルタ)経由で、オランダ本国に運び込まれていたため、北斎はあわよく難を逃れている・・・
お互い「科学」と云う時代の流れを泳いでいたのかも知れない・・・
シーボルト事件後、摘発されそうになった北斎から西洋かぶれ的な絵は消え、1831年(天保2年)頃にベロ藍(ベロリン藍とも呼ばれ、当時西洋から伝えられた新しい鮮やかな色彩の青色顔料:プルシャン・ブルー)を使い「冨嶽三十六景」を刊行し爆発的なヒットをとばす。しかしそれも目立ち過ぎと悟り、1834年(天保5年)〜1835年(天保6年)にかけ、縁戚の者の墓がある西浦賀に身を潜め幕府役人から身を隠している・・・
北斎が江戸へ戻った頃、老中・水野忠邦の天保の改革(1830〜1843年)で、厳しい奢侈禁令と風俗取締令が掲げられ、浮世絵は美人画はもちろん、役者絵、風俗画を描いたり刊行したりすることが厳しく禁じられ、風景画や花鳥風月へと題材を変え、歌川 広重は天保4年(1833年)「東海道五十三次」を発表。今も世界の人達を魅了する、鮮やかな青の藍色(インディゴ)の「ヒロシゲブルー」で北斎と対抗しながらも、華やかだった時代の寵児・浮世絵は時の流れに埋没して行き、時代も混沌としながら、慶応3年(1867年)大政奉還で江戸幕府も終焉する。しかし、北斎、広重や歌麿、写楽などの浮世絵たちは、その後も国境なき旅をして、パリの印象派に多大な影響を与える事になる・・・
↑(晩年のシーボルト)
江戸時代の文化文政(化政文化)を駆け抜けた画狂人・葛飾 北斎は、門人の数は孫弟子も含めて200人を抱え、全15編の「北斎漫画」図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)を残し、改号すること30回、転居すること93回、森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を残し・・・
「人魂で 行く気散(きさんじ)や 夏野原」
(人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか)
と、辞世の句を残し、嘉永2年(1849年)90歳の生涯を終えた・・・
そしてシーボルトは、「江戸の友人?(北斎)」の死後10年をへて、1859年(安政6年)息子アレクサンダー・フォン・シーボルト(12才)と共に再び来日し、1862年(文久2年)に帰国後の1866年(慶応元年)ミュンヘンで70歳の生涯を終える・・・
私的な推測では・・・
おそらく、北斎は長崎屋か北斎工房で、何度かシーボルトとじかに会い、シーボルトの似顔絵らしき絵を何枚か描いていたのではないかと思う、そして、シーボルト事件で北斎は証拠隠滅の為に総てを破棄し、しかも、シーボルトがヨーロッパから持ってきた西洋画を何枚か所持していたのではないか?と・・・
(以下・参考サイト)
江戸東京博物館「北斎・ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」
第1部 北斎とシーボルト
第2部 多彩な北斎の芸術世界
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2007/1204/200712.html
北斎とシーボルトの交流、そして新発見の屏風・名古屋市美術館 学芸課長 神谷浩氏
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071217/143204/
第17回 シーボルト事件に脅えた北斎
用意周到な計画で北斎の絵などがオランダやパリへ運ばれる
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071211/142933/
第16回 江戸参府したシーボルトの狙いは何か
絵図や地図をはじめ、木版画などの美術品を精力的に収集する
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071122/141371/
第15回 浦賀に潜居した北斎
伊八の力強い彫刻「黄石公と張良」に出合う
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071109/140220/
第9回 待ちに待っての“シャッターチャンス”
見る者が大自然に抱かれているような、悠々たる富士を描く
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070808/132002/
第8回 ベロ藍を手に入れた北斎
透き通るような明るい青で波頭を鮮やかに描く
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070725/130675/
(以下・カオスを描いた北斎の謎)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070316/121233/
http://business.nikkeibp.co.jp/bns/bnclm.jsp?TOPID=121233&OFFSET=20
【洋風画への関心 ひらがな落款洋風画】
http://kodamaforest.blog112.fc2.com/blog-entry-80.html
出島年表・出島を中心とした年表
http://www.geocities.jp/voc1641/decima/tdj110.htm
ブロンホフはネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)・アムステルダムに生まれた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤン・コック・ブロンホフ
KULMUS, Johann Adam Anatomische Tabellen Augsburg, 1764
クルムス「解剖学図表」
ヨーハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus, 1687–1745)はドイツの医学者、解剖学者。ブレスラウ(現在のポーランド、ブロツワフ)で生まれ・・・
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/german0506/german19.htm
解体新書
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/igaku/exhibitions/1998/index10.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/杉田玄白
http://ja.wikipedia.org/wiki/蘭学事始
http://ja.wikipedia.org/wiki/解体新書
司馬江漢 しば こうかん 延享4年(1747年)〜文政元年(1818年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬江漢
美術館 collection
http://art.xtone.jp/museum/
美術館 collection・静岡県立美術館(Shizuoka Prefectural Museum of Art)
http://art.xtone.jp/museum/archives/shizuoka-ken.html
静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:司馬 江漢】
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/J_93_497_J.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/亜欧堂田善
http://ja.wikipedia.org/wiki/小田野直武
http://ja.wikipedia.org/wiki/浮世絵師一覧
飾北斎の多様な作品の一部を年代順にご紹介するウェブギャラリー
http://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/KatusikaHokusai.html
シーボルトの眼 出島絵師 川原慶賀
http://gk.q-q-q-q.com/?p=205
長崎の町絵師・川原慶賀
http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0611/index2.html
北斎の《長崎屋》は以前にも見ているが、オランダ商館長の江戸参府の際の定宿である・・・
http://cardiac.exblog.jp/13280389/
シーボルト注文の「北斎画」
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/33.html
火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け( 放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/火付盗賊改方
http://ja.wikipedia.org/wiki/鬼平犯科帳
大御所時代(おおごしょじだい)は江戸時代、寛政の改革と天保の改革の間の期間で、第11代将軍徳川家斉の治世・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/大御所時代
【文化文政時代】
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3233256.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/文政
文化文政のタイムライン表示
http://www.google.co.jp/search?q=.+文化文政&hl=ja&client=safari&rls=en&prmd=ivns&tbs=tl:1&tbo=u&ei=ueIzTZ6PAoS4vwOAiOGuCw&sa=X&oi=timeline_result&ct=title&resnum=11&ved=0CFAQ5wIwCg
ベロ藍(ベロリン藍)とも呼ばれる、 当時、西洋からの輸入され流行となっていたベルリアン・ブルーの鮮やかな色彩は絵師の・・・
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hokusai_breeze.html
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/gallery/ukiyoe/ukiyoe_1_06.html
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる・・・
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/歌川広重
『北斎 決定版』天才浮世絵師の偉大なる画業の世界が怒涛のごとく、ここに甦る!
北斎生誕250年記念・別冊太陽 『北斎 決定版』をご紹介します・・・
北斎の絵手本・北斎漫画
http://heibonshatoday.blogspot.com/2010/11/blog-post_02.html
北斎とシーボルトが実際に会って、金額のやり取りがあったこと・・・
http://gray.ap.teacup.com/hibizakkan/917.html
『北斎漫画』のうちの一冊が、当時の陶磁器の詰め物としてフランスに渡りフェリクス・ブラックモンという銅板画家の目にとまります。その人が吹聴して、日本趣味っていうのは興ってきたって言われてるんですね。これはジャポニズム印象派運動と呼ばれます・・・
http://www.1101.com/hokusai/2005-10-26.html
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/binofuukei/bino1.html
アレキサンダー・ゲオルグ・グスタフ・フォン・シーボルト Alexander George Gustav von Siebold(1846年〜1911年)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、1862年に英国公使館特別通訳官として雇用された。このときまだ15歳の少年であった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンダー・フォン・シーボルト
夢の北斎 傑作10選|日曜美術館 - NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0425/index.html
NHKワールド プレミアム > 北斎 幻の海?パリで発見!“千絵の海”完全復刻
1月3日(月)23:10〜23:58ー1月9日(日)5:00〜5:48 北斎の創造の秘密に迫る・・・
http://nhkworldpremium.com/program/detail.aspx?d=20110103231000&ssl=false&c=26
http://cgi4.nhk.or.jp/feature/index.cgi?p=kzaanRuI&c=1
葛飾北斎の墓・誓教寺・東京都台東、墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じゃ夏の原」が刻まれている・・・
辞世の句は・・・人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原
「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」・・・http://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/bochi/hokusai/
http://www.we-blog.jp/wind/suzukiyu/a0000184916.php
人間最後の言葉・・・
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/198806.html
「北斎漫画」(ほくさいまんが)は、葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/北斎漫画
絵手本・北斎漫画
北斎漫画は1814年55歳のとき初編を出版、以降五年間に二編づつ十編まで出版。その後、間歇的に十四編までが出版され、没後1878年(明治11年)15編が出版された・・・
http://www.muian.com/muian08/08taito.html
葛飾北斎 北斎漫画 十五編
http://www.hum.pref.yamaguchi.jp/ehon/manga15.htm
葛飾北斎の富士山・富嶽三十六景
http://www.rakuten.ne.jp/gold/adachi-hanga/series/fugaku36.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景
http://www.geocities.jp/zdh/fuji36.htm
http://www.tomoiki.tv/fugaku36/
富嶽三十六景の画像検
http://www.google.co.jp/images?client=safari&rls=en&q=富嶽三十六景&oe=UTF-8&redir_esc=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=JorGTOzVKcOpcaOBiecN&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCoQsAQwAA&biw=903&bih=869
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