オルセーのパトロンたち [Legs Caillebotte Gustave,1894]
|
Musée d'Orsay
https://ja.wikipedia.org/wiki/オルセー美術館
当時パリのシャルル・グレール(Charles Gleyre)の画塾は、ルノワール、モネやシスレーにバジールらが学び、画家の画材道具も改良され、1840年に発明されたチューブ入り絵具によって、野外に持ち出せる道具になり、時に彼らは写生に出かけ、後の世の人々を魅了し続けた光のマチエールを創り上げ、絵画史上に燦然と輝く印象派がこの画塾から産声を上げる・・・
フレデリック・バジール・・・
Frédéric Bazille(1841~1870年)
.............................................................................
フランス南部の都市モンペリエでワイン製造を営む裕福な名家の子として生まれ、医者になる為に1862年パリにやって来るが、医学試験に失敗、絵画に専念する決意・・・
↑「バジールのアトリエ」モネ、ルノワールが同居
バジール作|1870年|油彩キャンバス|98 × 128 cm|オルセー美術館蔵
..............................................................................................
1865年サン・ジェルマン・デ・プレ教会近くのフュルスタンベール通りにアトリエを借り、モネと共同生活し「草上の昼食」にモデルとして登場、1867年にはルノワールが同居し、実家からの仕送りをもとに、パトロンの様に貧乏画学生を援助し、新たな絵画の時代を夢見ながらも、1870年の普仏戦争に志願、ビュルギュンディ地方ボーヌ・ラ・ロランドで29歳で戦場の露と消えた・・・
この時代・・・
パリでは帝政と共和政が行きつ戻りつ、時代の力点は、旧体制の帝政と新体制の資本市民の駆け引きが続き、1870年のフランスとプロイセン王国の普仏戦争は、ドイツ諸邦・ビスマルクをも巻き込み、プロイセン側の圧倒的勝利に終わり、開戦からわずか1ヵ月半で、フランスのナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となり、1871年首都パリは占領される。パリの住民が組織した抗戦団体・パリ・コミューンも鎮圧され、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿で盛大な戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立し、フランスは、第二帝政が終焉し、第三共和政に移行する・・・
そして、当時のサロン(官展)は写実を旨とし、格調高く、丹念に描き込む、アングルの新古典主義とドラクロワのロマン主義の後、写実主義や自然主義、或は象徴主義が台頭し、この時代、肖像画を描くことが一つのステイタスであり、特に中産階級がのぞむ肖像画が絵画市場の産業として確立し、画家の収入源となっていた。しかしそれは、商売に徹し、見せかけの絵となり、又、絵具を作成する技術が画家の個性の一つであった時代から、誰でもチューブ絵具で、きれいな色を表現できるようになり、よりいっそう画家の没個性化が進んだ。しかも、その肖像画市場に写真が登場し、写真家ナダールの様に肖像写真家が生まれる。写真の歴史は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男:Un cheval et son conducteur」から始まり、当時には格段の技術進化をとげ、中産階級がのぞむ肖像画の需要をのみ込み、当時の画家から、肖像画市場を奪い取って行った。
時に、ジャポニスム: Japonisme、がヨーロッパを包み込み、1878年パリ万博にはヨーロッパ中を巻き込みながら、大きな美の潮流を創り出し「浮世絵」の自由な空間表現が、生れ出ようとする印象派に多大な影響を与えた。それは、当時の絵画の写実的でなければならないとする制約を取り除き、写実は写真に任せ、人の手で描かなければあり得ない「美の表現」へと移行し、絵画と写真の棲み分けが生まれだす。そして、普仏戦争で帝政が崩壊し、第三共和政が成立し、自由主義的改革の進展で、個性を重要視する「個」が目覚め「美」の意味も大きく変わり出した・・・
写真家ナダール:Nadar・・・
本名ガスパール=フェリックス・トゥールナション
Gaspard-Felix Tournachon(1820年〜1910年)
................................................................................
ナダールは、パリの書店主・出版業者の子として生まれ、1837年に父の死後、生活は極めて厳しく、小説や戯画家として活動し1851年〜1854年に完成した、当時の重要人物300人以上を描いた風刺肖像画シリーズ「パンテオン・ナダール」で名声を高める。その後、新技術である写真による肖像の探求に打ち込みサン・ラザール街の建物に移転する。1858年に気球で世界初の空中撮影を行い、真上からのパリ市街の写真に人々は非常に驚き、いまだかつて見た事も無い空中のアングルが絵画にも大きな影響を与える。1860年にスタジオをキャプシーヌ大通りに移し、シャルル・ボードレール、サラ・ベルナール、フランツ・リスト、ジョルジュ・サンドなど第二帝政期の文化人、政治家、軍人、君主などを撮影し、肖像写真家として一世を風靡する・・・
そして1874年、キャプシーヌ大通りの写真スタジオを、サロンに落選組のモネ、ドガ、ルノワールらの画家たちに展覧会の会場として貸し、シャリヴァリ誌の批評家ルイ・ルロワが酷評した、モネの「印象・日の出」の作品の「印象派:Impressionnistes」と呼ばれた「印象派」(Première exposition de l'Impressionnisme)が産声をあげ、皮肉にも写真家のスタジオで、写真と絵画の棲み分けが始まる・・・
その展示会を訪れたギュスターヴ・カイユボットは全く新しい世界を目にし深く感動し、大赤字の第2回印象派展に手を差しのべ、開催の費用を提供、自らも第2回と3、4、5、7回に自作を出品し、売れない絵を買い取り彼らの生活を事実上支援する。特に貧乏であったルノワールとは親交が深く「ムーランドゥ・ラ・ギャレット」を買い取り、自画像の中にそれを描き「船遊びの人々の昼食」では、右手前の帽子をかぶった男性で登場している・・・
"Le déjeuner des canotiers " セーヌ川沿いのメゾン・フォルネーズのバルコニーでくつろぐルノワールの友人たちが描かれ、 左手前には、後にルノワールの妻となるアリーヌ・シャリゴが前面で子犬と戯れ、 背後にはレストランの店主の息子アルフォンスが手すりに寄りかかり、 銀行家兼批評家のシャルル・エフリュッシと言葉を交わし、 画面右側手前には、画家カイユボットが椅子に座りながら女優エレン・アンドレと談笑している・・・ 1876年|129.9 × 172.7 cm | 油彩 キャンバス|フィリップス・コレクション|ワシントンD.C. ピエール=オーギュスト・ルノワール:Pierre-Auguste Renoi(1841年〜1919年) |
ギュスターヴ・カイユボット・・・
Gustave Caillebotte(1848年〜1894年)
............................................................................................
富裕な衣料製造業者の子として、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通り(Rue du Faubourg-Saint-Denis)に生まれ、のち8区のマルゼルブ大通りのパリきっての高級住宅街に移り住む。1870年に法律学校を卒業して法律免許を得、レオン・ボナの画塾に通い、1873年パリ国立美術学校に入学し1874年にはドガ、モネ、ルノワールらを知る。1875年の官展に「床削りの人々」を持ち込んだが、拒否され、1878年(30歳)に分割相続した家産により画業に専念。モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買うなどして、画家たちを経済的に助け、33歳の1881年、パリ西北郊セーヌ川畔のプティ・ジュヌヴィリエ(Petit-Gennevilliers)に敷地を求め、1888年に永住・・・
↑「自画像」(1892年頃) オルセー美術館蔵
"Raboteurs de parquet" 1875年|102×146.5cm | 油彩 キャンバス|オルセー美術館蔵|Musée d'Orsay ギュスターヴ・カイユボット:Gustave Caillebotte(1848年〜1894年) |
園芸やヨット作り、切手収集などに凝り、ルノワールが繁く訪れ、
ジヴェルニーの温室で、モネと蘭を育てたが、1894年、園芸作業中に肺鬱血により没し、
45歳の若さでパリのペール・ラシェーズ墓地に眠る・・・
"Les Périssoires" 1878年|155 × 108 cm | 油彩 キャンバス|レンヌ美術館蔵|Musée des beaux-arts de Rennes ギュスターヴ・カイユボット:Gustave Caillebotte(1848年〜1894年) |
カイユボットは生前、印象派を支えるために、多くの印象派絵画を買い支え、そのコレクションを、遺言により国家に遺贈する。彼の遺言状には、作品は「リュクサンブール(当時の近代美術館) 」へ収めるようにと明記されていた。ルノワールと弟のマルシアル・カイユボットが遺言執行人とし、国との交渉が行われ、新聞にも大々的に賛否両論が書き立てられ、パリ市民に大きな波紋を投げかけ、コレクションの買い取りを求める運動が起きる・・・
" Legs Caillebotte Gustave,1894 "
http://caillebotte.net/collection/
そして、2年間の折衝の後、ついに国家が全面的に受け入れて、1896年にカイユボットの68点のコレクションのうち38点が選ばれて、リュクサンブール美術館で公開された。以後フランス政府は、このカイユボット・コレクションを種に、散逸しかけていた印象派絵画の収集に徐々に乗り出し、市民コレクターたちの大小様々な遺贈のコーナーが出来、印象派を中心とした、現在のオルセー美術館の膨大なコレクションのもととなった・・・
「名画」とは、技術の進化に異文化の融合、街やそこに住む人々・・・
そして時代が創り上げた「美」の遺産とすれば、
それを時代の「風」に見事にキャンバスに定着させた人を「画家」と呼ぶのかもしれない、
しかしそれらを援助し保存した人々によって「今」が存在する・・・
オルセー美術館では、彼に深い敬意を表し、作品のプレートの一番下に ・・・
" Legs Caillebotte Gustave, 1894 "
(カイユボットによる遺贈)
と銘記されている・・・
(以下・参考サイト)
オルセー美術館 (Musée d'Orsay) は、フランスのパリにある、19世紀美術専門の美術館である。印象派の画家の作品が数多く収蔵されていることで有名・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/オルセー美術館
オルセー美術館の歩み
http://www.museesdefrance.org/museum/special/backnumber/0612/special01.html
オルセー美術館秘話
http://www.ezoushi.com/orsay/tokyo01_01.html
オルセー美術館の魅力
http://www.museum-cafe.com/special/2539.html
「オルセー美術館展-19世紀 芸術家たちの楽園」展
http://www.museesdefrance.org/event/now_program/report20061115/index.html
印象派(いんしょうは、仏:Impressionnistes)または印象主義(いんしょうしゅぎ、仏:Impressionnisme)は、19世紀後半のフランスに発し、ヨーロッパやアメリカのみならず日本にまで波及した美術及び芸術の一大運動である。1874年にパリで行われたグループ展を契機に、多くの画家がこれに賛同して広まった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/印象派
ジャン・フレデリック・バジール (Jean Frédéric Bazille, 1841年12月6日 – 1870年11月28日)は、フランスの印象派の画家・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/フレデリック・バジール
フレデリック・バジール Frédéric Bazille 1841-1870 | フランス | 印象派
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/bazille.html
http://magnummasse.blogtribe.org/entry-faa458a4f693eb80ef8eda83ea2fc2db.html
シャルル・グレール
http://www.allposters.co.jp/-st/Charles-Gleyre-Posters_c64847_.htm
ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848年8月19日 - 1894年2月21日)は、フランスの画家で、印象派絵画の収集家。印象派の画家たちの経済的支援者であった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・カイユボット
ギュスターヴ カイユボットカテゴリの商品数:93
http://www.allposters.co.jp/-st/Gustave-Caillebotte-Posters_c23062_.htm
印象派を支え続けた、もうひとりの印象派
http://caillebotte.net/blog/
オルセー美術館といえば、たくさんの印象派の作品があって
その中の一角を担うのがカイユボットの遺贈した作品です。
カイユボットコレクションには作品のそばにあるプレートの一番下に「Legs Caillebotte Gustave, 1894」という風に書いてあります。
http://caillebotte.net/blog/collection/page/4/
ギュスターヴ・カイユボット:GustaveCaillebotte<雨中の川岸>1875年
http://rirari-exhibition.at.webry.info/200708/article_8.html
http://caillebotte.net/character/
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/58/kita1/kita1.htm
「ムーランドゥ・ラ・ギャレット」がお気に入りで自画像の中にそれを描き・・・
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en%7Cja&u=http://www.npr.org/2011/06/03/136592986/gustave-caillebotte-impressions-of-a-changing-paris
カイユボットがモデルになったルノワールの作品|CAILLEBOTTE IN THE WORK OF RENOIR
http://caillebotte.net/blog/about-him/?p=40
19世紀後半、多くの印象派の画家たちがしばしばジュヌヴィリエに滞在した、ポール・セザンヌ、クロード・モネ、ベルト・モリゾ、オーギュスト・ルノワール・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュヌヴィリエ
ジヴェルニー(Giverny)はセーヌ川の右岸に位置し、パリから西方約80キロ地点にある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジヴェルニー
ペール・ラシェーズ墓地(Cimetière du Père-Lachaise) は、フランスのパリ東部にある墓地。エディット・ピアフ、ショパン、ビゼー、プルースト、マリア・カラス、モディリアーニ等の世界的な著名人の墓が多くあることで知られている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペール・ラシェーズ墓地
ナダール(Nadar、本名ガスパール=フェリックス・トゥールナション Gaspard-Felix Tournachon、1820年4月6日 - 1910年3月21日)はフランスの写真家。数多くの文化人や重要人物を撮影し肖像写真家として名を馳せたほか、風刺画家、ジャーナリス・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナダール
ナダールの写真スタジオ、1860年にキャプシーヌ大通りに移転してからのもの・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Atelier_Nadar_35BoulevardDesCapucines_1860_Nadar.jpg
気球に乗ったナダール。オノレ・ドーミエによる「写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Daumier-nadar.jpg
ナダールの息子と日本の第2回遣欧使節団、1863年
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:JapaneseMissionAndNadarSon.JPG
フェルディナン・ ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ
Ferdinand Victor Eugène Delacroix ( 1798 〜1863年 )
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・ドラクロワ
http://ja.wikipedia.org/wiki/クロード・モネ
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレッド・シスレー
http://ja.wikipedia.org/wiki/ピエール=オーギュスト・ルノワール
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を引き継ぎ、古典主義的な絵画の牙城を守った・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドミニク・アングル
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・クールベ
http://ja.wikipedia.org/wiki/レオン・ボナ
ブルボン朝第5代・フランス王ルイ16世(在位:1774年 〜1792年)王妃マリー・アントワネット
フランス革命(1789年7月14日〜1794年7月27日:革命暦2年テルミドール9日)
フランス第一帝政(1804年 〜1814年、1815年)皇帝ナポレオン1世
ブルボン第二復古王政 (1815〜1830)ルイ18世の復位からシャルル10世退位まで
七月王政 (1830〜1848)オルレアン家のルイ・フィリップを国王とした立憲君主制の王政
第二共和政 (1848〜1852)ブルジョワと社会主義者の理想主義的な協調を目指す
第二帝政 (1852〜1870)ナポレオン・ボナパルトの甥のナポレオン3世の君主政
フランス第三共和政(普仏戦争中の1870年に成立し、1940年のナチス・ドイツにパリを占領されるまで、フランスに存続した共和政体である。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス第三共和政
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランスの歴史
油絵具(あぶらえのぐ)は油彩に用いられる絵具。顔料を乾性油で練り上げたものは既に油絵具で・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/油絵具
19世紀後半、フランスの印象派の画家たちは絵画史に大きな革新をもたらした。彼らは、戸外で自然の印象を直接画面に写生しようとした・・・
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1784167.html
油絵の具は15世紀にバン・エイグ兄弟(油彩技法の大成者)により、水彩絵の具より前に完成しています・・・
http://www.stationery-hatena.com/history/draw_materials.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/普仏戦争
オルセーに行ったなら。
http://caillebotte.net/blog/collection/page/4/
https://fr.wikipedia.org/wiki/Gustave_Caillebotte
http://lunettesrouges.blog.lemonde.fr/2007/05/13/le-legs-caillebotte/
http://inatimy.blog.so-net.ne.jp/2011-04-26
Copyright © 2011 guchini.exblog All Rights Reserved.