ぶらり京都-24 [伏見桃山城]
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最初の城は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設を始めた指月山伏見城で、築城開始から4年後の1596年(慶長元年)に完成するが、その直後に慶長伏見大地震によって倒壊する。
このため、指月山から北東約1kmの木幡山に再築、翌1597年(慶長2年)に木幡山伏見城として完成する。しかし、秀吉はその2年後の1598年(慶長3年)に城内で62年(享年63歳)の生涯を終える。
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとり、関ヶ原の戦いの際に、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失する。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建されたが、後の1619年(元和5年)に廃城となり城跡一帯は、元禄時代頃に桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになる。
その後、伏見城跡は1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が鉄筋コンクリート構造で造られ、2003年に同遊園地は経営母体である近鉄のリストラの一環で閉園し、模擬天守は無償で京都市に贈与され、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備され、模擬天守については内部非公開となっているらしい・・・
伏見桃山城|Googleマップ
秀吉の朝鮮出兵は・・・
日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開した、16世紀の東アジア最大の国際戦争とされる文禄・慶長の役は、1592年(文禄元年)に始まり翌1593年(文禄2年)に休戦後、1597年(慶長2年)の講和交渉決裂によって再び始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死で、日本軍の撤退をもって終結する・・・
1488年=バルトロメウ・ディアス: Bartolomeu Diasの喜望峰の発見。
1492年=クリストファー・コロンブス:Cristoforo Colomboアメリカ大陸の発見。
1497年=ヴァスコ・ダ・ガマ:Vasco da Gamaインド航路の開拓。
1522年=フェルディナンド・マゼラン:Ferdinand Magellan史上初の世界一周。
と、大航海時代の西欧諸国の熾烈な競争の中で、この辺境の地、日本の信長、秀吉の時代には・・・
1549年(天文18年)のフランシスコ・ザビエルの来日から、信長の時代においては、もはや近隣諸国の中国や朝鮮などの極東の小さな世界以上に、西欧社会は世界地図の中に日本を組み込んでいた・・・
そして、1582年(天正10年)に日本を出航した信長の天正遣欧少年使節団は8年余の旅を終え、本能寺の変(天正10年・1582年)の信長死後、秀吉の朝鮮出兵前の1590年(天正18年)長崎に帰港し、翌1591年(天正19年) 聚楽第において秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏し、昔の様にシルクロードを経由せず、国として海を渡り、直接西洋と国際交易が始まっている・・・
右は→天正遣欧少年使節団
それは、日本と西欧の距離は短くなり、秀吉と同年代頃の、リスボン生まれのイエズス会宣教師ルイス・フロイスは1563年(永禄6年)、31歳で現在の長崎県西海市北部の港(横瀬浦)に上陸し、1565年(永禄7年)に京都入り、1569年(永禄12年)織田信長と二条城の建築現場で初めて対面し、畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い、多くの信徒を得て、1583年(天正11年)からイエズス会の活動の記録を書き記した「フロイス日本史:Historia de Iapam」を表し、東西の人と人のつながりも密になり、秀吉について「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」などと記し、その時代の貴重な記録を残し、秀吉と前後して、1597年(慶長2年)長崎で65年の生涯を終えている。
左は←フロイス日本史:Historia de Iapam
そんな世界的な流れの中で、当然時代を彩った桃山文化も、都市部において豪商と呼ばれる新興商人が成長し、その富を背景にしたダイナミックな豪華で大掛かりな文化は、仏教より人間の現世的な作風が中心であり、しかも直接的に西欧的な南蛮文化の影響が色濃く出ていて、前期の室町時代に比べ、遥かに西洋化しているのがわかる。そして、時代のムードも西欧文化に強く憧れていたようにも思える。しかも昔の様に、印度、中国や朝鮮半島の「大陸のフイルター」を通さず、大航海時代の海洋貿易で以前より早く大量に、直接西欧文化を取り入れていた時代だったようだ・・・
右は→日本を訪れた南蛮船・狩野内膳画「南蛮屏風」
(以下・参考サイト)
伏見は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/伏見城
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、明および朝鮮:万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦争とされる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/文禄・慶長の役
安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/安土桃山時代
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/天正遣欧少年使節
http://www.yunioshi.com/tenshoshisetsu.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/聚楽第
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェルディナンド・マゼラン
http://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/バルトロメウ・ディアス
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス
ルイス・フロイス(葡: Luís Fróis [luˈiʃ frɔjʃ] 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会員として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・フロイス
http://ja.wikipedia.org/wiki/フロイス日本史
(以下・参考サイト)