稀代のパトロン「バロン薩摩」
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西暦一九二四年春「利根川に近き田舍の小都市にて」で詠んだ、
「旅上」
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに
その頃のパリに、1920年(大正9年)に19歳で渡欧し、イギリスのオクスフォード大学に留学、「アラビアのロレンス」として知られたトーマス・エドワード・ロレンスやイギリス人との混血でテノールの日本人オペラ歌手・藤原義江などと親交を結び、21歳の1922年(大正11年)にパリに居を移し、月に一万円、当時で約一億円近い莫大なお金を使い、パリの社交界で「バロン薩摩」と呼ばれた日本人がいた・・・
「バロン薩摩」とは・・・
本名、薩摩 治郎八(さつま じろはち)1901年(明治34年)〜1976年(昭和51年)。
東京は日本橋、明治の実業界で毛織物工業の創始者であった母方の祖父と、一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた父方の祖父の薩摩治兵衛の孫として生まれ、パリで実家からの莫大な資金を元に、パリ16区の高級住宅街に豪奢な住居を構え、カンヌやドーヴィルなどのリゾート地を行き来する生活を送り、その一方でイサドラ・ダンカンやジャン・コクトーなどとの親交を深め、当時のヨーロッパの社交界にその名を轟かせ、その華麗で洒落た浪費ぶりはフランスでの30年間で約600億円使ったと云われ、爵位がなかったのにもかかわらず「バロン薩摩(薩摩男爵)」と呼ばれていた。
そして、当時モンパルナスを拠点に活動を行っていた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男などの日本人芸術家を支援し、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じ、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市に建設するように呼び掛けた時、日本は「資金不足」を理由に出資しなかったが、元老の西園寺公望の要請を受けて、当時の350万フラン・現在の価格で約42億円ぐらいを、全額出資して1929年(昭和4年)に「日本館:Maison du Japon (Paris, Cidade Universitária)」は藤田嗣治が描いた壁画のある、通称「薩摩館」として完成し、現在も現役で多くの日本人留学生が利用している・・・
日本館(Maison du Japon)|Googleマップ
この国が明治に西洋化の道を歩み出し、萩原 朔太郎が詠んだ「あまりに遠し」フランスの西欧文化の拠点パリは、1800年代の終わりから第一次世界大戦勃発(1914年:大正3年)まで、ベル・エポック(Belle Époque・良き時代) と呼ばれ、繁栄と華やかな時代を迎える。そして世界の憧れの街として世界中の人々を魅了し、多くの日本人もそのパリを訪れ、幾多の足跡を残している・・・
それは・・・
明治になって世も落ち着き始めた1884年(明治17年)に黒田 清輝が、1900年(明治33年)に浅井 忠、同じ年に夏目漱石はロンドン留学の途上にパリ万博に訪れている・・・
そして、当時27歳の文豪・永井荷風は4年間滞在したアメリカから、1907年(明治40年)〜1908年(明治41年)にパリを訪れ、9, rue Toullier 75005 Parisのホテル・スフロに滞在し、帰国後の1909年(明治42年)「荷風パリ地図」を出版し、同年の1907年に安井曾太郎や、ロダンに傾倒する高村光太郎も1908年(明治41年)に、1年前に渡仏していた先輩の畑正吉(彫刻家)の下宿に身を寄せたのち、カンパーニュ=プルミエール通り(Rue Campagne-Première)17番地のアトリエに住んでいる。
その後、ルノワールの指導を受ける梅原龍三郎や、画家の藤田 嗣治も1913年(大正2年)パリのモンパルナスに居を構え、1922年(大正11年)には「寝室の裸婦キキ」をサロンドートンヌに出展し、パリ画壇にセンセーションを巻き起し、島崎藤村も姪との関係を絶つため神戸港から船でマルセーユを経由し、1913年(大正2年)留学という名目で3年間パリで過ごし、河上肇(マルクス経済学者)は1914年(大正3年)、パリでの下宿先を探し、同時期のパリに下宿していた島崎藤村の世話で、グランド・オテル・ド・ポール=ロワイヤル(Boulevard de Port-Royal)117番地に滞在し、道路を挟んだ反対側には島崎の滞在先があり、河上の部屋からはその部屋の明かりが確認できたという。同じようにパリに来ていた洋画家・川島理一郎や、 詩人・金子光晴など、今で云う所の日本人村?の様な当時のコミュニティー?が出来上がっていた様だ・・・
そして、1918年(大正7年)の第一次世界大戦終結後、芸術の拠点は高級化したモンマルトル(Montmartre)から安価なモンパルナス(Montparnasse)へと移り、そこには劇場やミュージックホールが多数ひしめき、毎晩、華やかな祝祭と酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返され「狂乱の時代:レ・ザネ・フォル Les Années Folles」と呼ばれるボヘミアン的で神話化された芸術の聖地として世界中の人々を引き寄せていた・・・
少し遅れて・・・
佐伯祐三が1924年(大正13年)〜1926年まで約2年滞在後、再び1927年10月から翌年4月末にかけて、モンパルナス大通り(Boulevard Montparnasse) 162番地のアトリエに住み、その後、持病の結核が悪化し日本の地を踏むこと無く30歳の若さでパリの空でなくなり、同じく後輩の荻須 高徳が1927年(昭和2年)に現・東京藝術大学を卒業後の9月に渡仏し、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあい、1928年(昭和3年)にサロン・ドートンヌに入選し、小説家の林芙美子も1931年(昭和6年)にダンフェール=ロシュロー広場の近くの、ブーラール通り(Rue Boulard)10番地のオテル・デュ・リオン・ベルフォール (Hôtel du Lion Belfort )に宿泊し、1936年(昭和11年)には横光利一が「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」の特派員としてベルリン・オリンピックの取材に向かう途中、ラスパイユ大通り(259, bd Raspail 75014 Paris)のセレクト・ラスパイユ・ホテル(Select Raspail Hotel )に滞在し、 ヨーロッパ滞在経験を基に、東洋の「精神文化」と西洋の「物質文化」論争を交えながら執筆した小説「旅愁」を残している・・・
国際都市と化したパリにおいて「バロン薩摩」は、エコール・ド・パリの代表的な画家としてサロン・ドートンヌの審査員でもあった15歳年上の藤田 嗣治を中心に、日本人はもとより、パリに住む上層部のフランス人や外国人との横のつながりが出来上がり、当時パリに居た堀口大学が云う「なんとなく金を使ったところが偉い」と、そして外交官に「柳沢さん、僕も10年位経ったら親爺から財産が貰えるかと思う。そうしたら国際文化基金を作って、その仕事をあなたにおまかせするつもりだ」と述べる様に、同時代の松方幸次郎の松方コレクション(現・国立西洋美術館/東京国立博物館)や大原 孫三郎の大原美術館の様な美術の蒐集家ではなく、文化的な演奏会や講演会などに惜しみなくお金を使い「私が大学都市の薩摩である」と自ら述べる様に、世界の人々との交流や文化後援を通して、人と人の人脈にべらぼうにお金を使うパトロンであり、当然パリでの幅の広い国際人でもあった・・・
しかし、1929年(昭和4年)のニューヨーク証券取引所で株価大暴落の世界金融恐慌をきっかけに、大不況は世界中を席巻し、第二次世界戦争の暗い影を落とし始める。藤田 嗣治の父は森鴎外あとの最高位・陸軍軍医総監。兄の義父は、陸軍大将・児玉源太郎であり、1927年(昭和2年)にパリを訪れていた情報・謀略工作の陸軍大尉の甘粕正彦(後の満映・理事長)と、機密情報を通し、日本においては戦争画の製作を手がけ、国際人「バロン薩摩」のパリでの動きをお互い敵国どうしが監視し始めながら・・・
1939年(昭和14年)9月ついに第二次世界大戦が勃発、1940年(昭和15年)にはドイツ軍がパリを占領し、そして、パリは世界の文化人を魅了した「狂乱の時代:レ・ザネ・フォル Les Années Folles」の幕をおろす・・・
敵国人「バロン薩摩」は戦前よりフランスの上流階級との関係を持ち、更に政治的な行動を行わなかったこともあり、迫害を受けることはなく、1944年(昭和19年)に連合国軍がシャルル・ド・ゴール将軍とともにパリを解放し1945年(昭和20年)第二次世界大戦が終結した後に、フランス国内で拘留された日本人の解放に国際映画俳優・早川雪洲らとともに尽力し、フランスに取り残された多くの日本人を帰国させるために活動し、そして大戦後の1956年(昭和31年)に日本に帰国する。しかし、敗戦後に連合国軍により行われた農地改革などにより薩摩家は没落し、土地や財産はすべて人手に渡り無一文の状態で、文豪・永井荷風が愛した浅草に住み、ロック座の人気踊り子であった30歳年下の利子と出会い再婚する。利子夫人の実家の徳島で、阿波踊りを見物中に脳卒中で倒れ、療養をしながら1976年(昭和51年)徳島で、「バロン薩摩」と呼ばれ、パリの社交界にその名を轟かせた75年の華麗なる人生の幕を閉じた・・・
当時のパリは世界の文化的拠点として多くの日本人がパリを訪れ、文化は融合し今日を生んだ。その接点に文化交流協会?的に「バロン薩摩」と云う稀代まれなる人物が浮かび上がる、が、それらの接点の物語は「ふらんすへ行きたしと思へども」とパリに憧れ、西洋文化を求めた日本人たちがこの国に持ち帰り融合し、近代日本の新たな文化を世に羽ばたかせた物語の始まりであり、そして「バロン薩摩」は、当時のパリに憧れ西洋文化を求めた「ふらんすはあまりに遠し」の、その物語の事実上のパトロンだったのかも知れない・・・
(以下・参考サイト)
萩原朔太郎 純情小曲集
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1788_18740.html
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日〜1942年(昭和17年)5 月11日)は、日本の詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/萩原朔太郎
先人に学ぶ。フランスに生きた日本人|西洋と東洋をつないだ男たち
19世紀末から20世紀前半にかけて、フランスに生きた日本人の目には、何が映ったのだろうか。厳しい時代を生き抜いた彼らの行動は、世紀を越えた今でも、フランスの 地を知る者に勇気を与える。西洋と東洋の架け橋となった男、正反対な感情を持ちフランスに滞在した作家、そして日本を動かす原動力を学んだ軍人と政治家などのフランス滞在を追う。(Texte : Kei Okishima)
http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/3939-japanese-who-lived-in-france-1.html
http://www.newsdigest.fr/newsfr/features/4286-japanese-who-lived-in-france-2.html
開高健とパリ|開高健記念館:開高健とパリ展【タケシのパリ】
戦後のドサクサで生活苦にあえいでいた開高青年は、ひたすら海外逃亡の執念を胸に抱く。フランス語の習得に励み、その成果を試すために名画劇場の2本立てに通いつめた・・・
http://kaiko.jp/kinenkan/exh2010-paris/
『タケシのパリ』
ノートル・ダムの正面の広場のまんなかに小さな真ちゅうの円板が石にハメこまれてある。いいつたえがあって、その円板を踏んだ人は、ふたたびパリへもどってくるという・・・〝 では、また。タケシ 〟
セーヌが育てた街|タケシの解説付地図
http://kaiko.jp/kinenkan/exh2010-paris/03.html
薩摩 治郎八(さつま じろはち、1901年(明治34年)4月13日 - 1976年(昭和51年)2月22 日)は、日本の実業家、作家で大富豪として知られた。その華麗で洒落た浪費ぶり( フランスにて、10年間で約600億円使ったという)から、「バロン薩摩」と呼ばれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩治郎八
http://www.weblio.jp/content/薩摩治郎八
Maison du Japon (Paris, Cidade Universitária)
7 C Boulevard Jourdan, 75014 Paris, フランス
+33 1 44 16 12 12
日本館(Maison du Japon)の正式名称は「パリ国際大学都市日本館ー薩摩財団」といいます。この名称は 1920 年代後半に当時駐日フランス大使だった詩人・劇作家のポール・クローデルによる日本館建設提唱にたいして、日本人実業家の薩摩治郎八氏が 350 万フラン (当時) の私財を投じてこれを建築し、大学都市に寄贈したことに由来しています。なお日本館は日本政府の予算によって二度にわたって全面的な改修工事を行ない、内装・外装ともに面目を一新しました。
http://maisondujapon.org/
http://maisondujapon.org/foujita.html
国際大学都市のスイス館の向かいに日本館がある。二つののフランス館の後にようやくアトリエのある日本館の1人部屋に移ることができた。最上階のとても小さな部屋だったが、明るいアトリエがあるのがうれしい。
http://kazanuto.blog59.fc2.com/category2-37.html
展覧会になりにくいパトロン《薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち》……村田 真
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/topics/9903/murata/murata.html
フランスのパリ国際大学都市にある日本館
http://shikisaikan.info/inoue/2012/04/post-274.html
藤田嗣治・Léonard Foujitaの作品との出会い(1)
藤田嗣治「L'Arrivée des Occidentaux au Japon」1929年|Maison du Japon, Paris, 2010
http://www.art-it.asia/u/sfztpm/8OU2sIfqyaXdG5Sk1pAl
パリ国際大学都市
ここが面白いのは、各国にちなんだ建物があること。もちろん日本の建物もあって、Maison du Japon(メゾン・ドゥ・ジャポン=日本館)と呼ばれています。
日本館には大サロンと呼ばれるちょっとしたイベント用のスペースがあり、そこには何と藤田嗣治画伯の絵がどどーんと飾ってありました!
http://www2.dandl.co.jp/paris/blog/index.php?pp=39
http://du-chocolat-dans-lazur.blogspot.jp/2011/10/maison-du-japon.html
Maison du Japon(日本館)/薩摩治郎八によって寄贈された)
日本館の入り口、藤田嗣治・作、軍
http://ishikaraishie.sakura.ne.jp/shoko1/at_random3.html
バロン薩摩自伝「せ・し・ぼん -わが半生の夢-」
平成3年3月1日 著者:薩摩治郎八
定価1,500円(本体1,456円)改訂新版印刷発行
発行者:太 田 道 之 発行所:山 文 社
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-17.html
「バロン・サツマ」と呼ばれた男 村上 紀史郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代-村上-紀史郎/dp/4894346729/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1346374125&sr=1-1
蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 (新潮選書) [単行本] 鹿島 茂 (著)
http://www.amazon.co.jp/蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝-新潮選書-鹿島-茂/dp/4106036932/ref=pd_bxgy_b_img_b
「パリ日本館こそわがいのち」小林 茂 著|評論・評伝 > ミネルヴァ日本評伝選
稀代の蕩児か、平和の使徒か「バロン薩摩」の二つの真実
大富豪・薩摩家に生まれ、ロンドン、パリに渡る。欧州社交界の華として「バロン・サツマ」「稀代の蕩児」と呼ばれ、快男児伝説を残す。しかし、その私生活には依然謎が多い。治郎八が目指したものとは何か。その知られざる真実に迫る。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b75807.html
ゆきてかえらぬ (文春文庫 116-9) [文庫] 瀬戸内 晴美 (著)
http://www.amazon.co.jp/ゆきてかえらぬ-文春文庫-116-9-瀬戸内-晴美/dp/416711609X
但馬太郎治伝 (講談社文芸文庫) [文庫] 獅子 文六 (著)
http://www.amazon.co.jp/但馬太郎治伝-講談社文芸文庫-獅子-文六/dp/4061982397
『わが半生の夢』 薩摩次郎八
「治郎チャン、君は何になる、大きな商船掻き集め・・・」
<以下、一部引用紹介|詳しくは下記サイトをご覧下さい>
私の幼年時代、母方杉村家の大庭園の大池でボートを漕ぎながら、当時、高商の学生だった叔父が勇壮な声で唄ったのをいまだに憶えている。隅田川と神田川の交流点にある、1万数千坪の旧大名屋敷のこの大池には、東京湾の満潮に乗って無数の魚が流れこんで来たが、私はこの水のうえで、幼い子供心に大海に浮んだ大汽船を夢想し、想いを世界にはせたものである。というのも日頃、明治実業界毛織物工業の創始者であった母方の祖父と綿業王と称された父方の祖父の英姿に親しんでいた私にとって、この世界はあらゆる冒険と英雄的行為に満ちた楽土であったからである・・・
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-17.html
世界を変える100人の日本人!JAPAN★ALLSTARS <認定者リスト> : テレビ東京
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/1002.html
『バロン・サツマ』
600億円を遣った芸術のパトロン・・薩摩治郎八
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/21.pdf
横浜開港150周年だが、開港と時同じくして、祖父薩摩治兵衛は20年余りの丁稚奉公を経て、金巾(かねきん)と呼ばれる綿織物を商う店を開いた・・・
http://www.rakuraku-soft.com/koda/index.php?id=442
奥さんの残っている画像も美しい。これは、結婚当初は典型的な日本女性であったのを、バロン薩摩自身の美意識でプロデュースされたらしいです。これなら、パリの社交界で通用しそうですね。
http://d.hatena.ne.jp/ArappoCaro/20100311/1268320607
600億円を遣った芸術のパトロン・・薩摩治郎八
前前坂 俊之〔静岡県立大学国際関係学部教授〕
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/21.pdf
パトロン[パリ社交界の風雲児|バロン薩摩]
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/1002.html
600億円を遣った芸術のパトロン・・薩摩治郎八
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/21.pdf
展覧会になりにくいパトロン《薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち》
.jp/museum/nmp/artscape/topics/9903/murata/murata.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/薩摩治郎八
メドレー日記|by 笠羽 晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです
「蕩尽王、パリをゆく 薩摩治郎八伝」
http://medley.blog.ocn.ne.jp/diary/2012/03/post_1d4c.html
http://medley.blog.ocn.ne.jp/diary/cat4374780/
テーラー 六義/TAILOR CLASSIC
薩摩家は、大正の成金時代を代表する家です・・・
http://tailorr.exblog.jp/10088434/
http://www.shigaplaza.or.jp/sanpou/akindo/AKINDO/04/13/13-2.htm
http://maechan.sakura.ne.jp/japanese_r/data/21.pdf
http://progmasa.web.fc2.com/astrt/chapter6.html
http://blogs.yahoo.co.jp/konyou123/551446.html
うるわしのブルターニュ バロン薩摩の眠る徳島
http://blogs.dion.ne.jp/duke/archives/431579.html
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-17.html
自伝の「せ・し・ぼん」には、フランス文学で知られる堀口大学の序文がある。この序文も良く判らない。薩摩治郎八がなんとなく金を使ったところが偉いと褒めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/堀口大學
http://ja.wikipedia.org/wiki/荻須高徳
http://ja.wikipedia.org/wiki/金子光晴
http://ja.wikipedia.org/wiki/川島理一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/高崎剛
http://ja.wikipedia.org/wiki/高野三三男
http://ja.wikipedia.org/wiki/早川雪洲
畑正吉 はた-しょうきち 1882-1966 明治-昭和時代の彫刻家。 明治15年2月12日生まれ。40-43年農商務省海外練習生としてヨーロッパに留学。44年文展に初入選。母校東京美術学校(現東京芸大)や東京高等工芸(現千葉大)の教授をつとめ,造幣局,賞勲局の嘱託として記念メダルやレリーフなどを制作。昭和41年6月24日死去。84歳。富山県出身。
http://kotobank.jp/word/畑正吉
http://www.city.matsudo.chiba.jp/index/kurashi/kyouiku_sports/dezitarubizyutu_top/digital-bijutsukan_search/digital-bijutsukan_search_HA/ha002.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/松方幸次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/松方コレクション
http://ja.wikipedia.org/wiki/大原孫三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/大原美術館
http://ja.wikipedia.org/wiki/世界恐慌
http://ja.wikipedia.org/wiki/甘粕正彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/満洲映画協会
パトロン(patron,ペイトゥロン)とは、保護者、後援者のことである。 ラテン語のパテル(pater、父)から派生した同じくラテン語のパトロヌス (patronus) に由来 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/パトロン
スポンサー(Sponsor)とは、団体、個人、スポーツのチーム、イベント、施設、番組などに対し、広告やPRを目的に金銭を支出する団体或いは個人、即ち広告主である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スポンサー
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