ココ・シャネルの C'est la vie:これが人生
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「人生がわかるのは逆境のときよ」と豪語する彼女の人生とは・・・
本名:ガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)は、1883年フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。
12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育ち、18歳で孤児院を出た後、田舎町ムーランで1901年に仕立屋、1903年に下着屋でお針子として働き始め当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見て、お針子仕事の傍ら、歌手を志してキャバレーで「Ko Ko Ri Ko/コケコッコウ」などを歌い「Qui qu'a vu Coco dans le Trocadero/トロカデロでココを見たのはだれ」などの歌の題名の(Coco)から、ココ・シャネルの愛称は生まれた・・・
オーディションを受けるも落選ばかりで、歌手への道はあきらめ、その後、交際していた将校であるエチエンヌ・バルサンの社交場となったパリ郊外の牧場で過ごし始め、邸宅を訪れる人々や、特にエティエンヌから上流階級の上質な文化や紳士や貴婦人との立ち居振る舞いを、そして生まれながら美貌と才能を持ちながら教養らしいものを何一つ待たなかったココ・シャネルにとって、邸宅で出会い、後に恋人となるイギリス人、カペルからは音楽、詩や哲学など多くの教養を身につける。
でも「シャネルは何ものか」と問われれば、愛人以外の何ものでもないと、自らにそれを問いながら、エティエンヌから離れ、仕事をもち、自立することを決意する。
ではどうしたら女が働きやすく、生き生きと暮らせるか、しかも女性として美しくなければならない。
真の女性の美しさはそこから生れ出るものあり「綺麗に見られたい」からではなく意志の表現をもつ女性として、お洒落以上に経済的にも精神的にも「自立した理想の近代女性像」をココ・シャネルはパリの街に描きだす・・・
時代も・・・
1889年万国博覧会にエッフェル塔が完成し産業革命が社会に浸透する。
1900年にもパリ万博が開かれ、当時のパリは世界一の近代産業と市民生活の成熟した都市へと発展し、ベル・エポック(Belle Époque・良き時代)と呼ばれるパリが一番華やかだった時代を迎えていた・・・
当時、ココ・シャネルがバルサンの社交場で創っていた自作の帽子が評判となり、1909年に彼の援助により、マルゼルブ大通り160番地に帽子のアトリエを開業する。店の帽子は人気を呼び、バルサンの援助から自立することを決意し翌年の1910年、バルサンの社交場で教養を学んだ、恋人で愛人でもあったイギリス軍大尉アーサー・エドワード・"ボーイ"・カペルの出資で、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という本格的な帽子屋をオープンする。ココ・シャネル27歳・・・
王侯貴族が着飾る時代の終わりは、1789年のフランス革命後の人権問題は男性を飛び越え、女性の権利を求める「女性の解放運動」へとつながり、一般庶民の装うファッションに影響を与え、ココ・シャネルもそれらと符合しながらパリの街にも新たな女性像が生まれ始める・・・
それは、当時の上流階級の貴婦人たちの生き方の、男への媚びと隷属の人生への決別であり、自分で舵を取る自分の人生であり、男性社会に同等に参加し身軽に自由に動ける様に、コルセットを取り除き、ショルダーバッグを肩から掛け、リップスティックの口紅に身だしなみのアクセサリーと、女がより動きやすく生き生きと暮らせる方法、ファッションより女性のスタイル、女性の生き方。ココ・シャネルが求めた当時では革新的な女性宣言だった。
「私は流行をつくっているのではない。スタイルをつくっているの」・・・
それらを素に帽子屋をオープン後、婦人服のデザインも始め、恋人で共同出資のカペルから、イギリスのスポーツのユニホームの素材のジャージーを入手し、その動き易いジャージー素材を取り入れたドレスで成功し、1914年に帽子店をメゾン「シャネル」としてリニューアルオープンする。1915年には「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、翌年コレクションを発表。
その後、スカートの短かい男っぽい服のギャルソンヌ・ルックや1916年のジャージーのシュミーズドレスを発表、スペイン国境のリゾート地ビアリッツに本格的なクチュール店をオープンし、共同出資のカペルとココ・シャネルは順風満帆の時を迎えた。
しかし1914年、サラエボ事件を契機に第一次世界大戦が勃発、足かけ5年にわたった戦争も連合国が勝利した、1918年に戦争は終決し、新たな発展を見せ始めた時・・・
そのカペルは、翌年の1919年シャネルに会う途中で自動車事故により死亡する。ココ・シャネル36歳・・・
助言者でもあり、恋人でもあったカペルを亡くし、失意のなかの深い闇を彷徨いながら、ココ・シャネルが傷ついた心を癒すため2ヶ月近く立ち寄った、イタリアのヴェネチア「ホテル・ダニエリ:Hotel Danieli」・・・
当時のことを彼女はこう述べている、
「夜の風、水の音、空と月、それが私の心を癒してくれた」・・・と、
そして、魔法のようなヴェネツィアの夜に人生の深い何物か、真に生きることの意味をつかみ取る。
「人生がわかるのは逆境のときよ」・・・
ココ・シャネルが帰国した1920年代のパリは、モンパルナスを中心に劇場やミュージックホールが多数ひしめき、毎晩、華やかな祝祭と酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返される「狂乱の時代: Les Années Folles」と呼ばれる時を迎えていた・・・
1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「CHANEL N°5」を、翌年「CHANEL N°22」発表する。そして、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、サロンの様々な人物と交際、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に熱狂し恋に落ち、その後、1924年にイギリスのウェストミンスター公爵と出会い、彼からもらった宝石類から着想を得て、模造宝石のジュエリーを発表し、愛人であったウェストミンスター公爵のイギリスの紳士服の仕立てや素材を女性服に応用し、スポーティでシンプルなデザインの「シャネル・スーツ」を生み出す。金属ボタンやサングラス、黒の底寸のシャネル・パンプス、鎖と革のストラップで知られるキルティングのシャネル・バッグ、など100を超えるシャネル・スタイルの原型を生み出していった。そしてこの時代のパリの街が、ココ・シャネルを大きく育て上げ、パリのエレガンスを創らせる。
ココ・シャネルは云う・・・
「私が着たいものを作って着たら、
時代があとからついてきたの」・・・
しかし、1929年のニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した世界金融恐慌をきっかけに、大不況は世界中を席巻し、ついに1939年から1945年にかけて第二次世界大戦へと突入し、1939年、当時4,000人を抱える大企業として成長したシャネルは苛烈な労働条件に、労働者のストライキがおこり一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖し一時引退する。
そして1940年パリは、ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、モンパルナスの灯は完全に消え、狂乱と祝祭の時代:Les Années Folles は幕を閉じた・・・
パリ市民のレジスタンス運動のなか、ココ・シャネルはドイツの国家保安本部SD局長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将との愛人関係を持ち、1944年のシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍と連合国軍によるフランス解放後に逮捕され「対独協力者」「売国奴」としてフランス中からの非難を浴びた。その後、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの計らいで釈放され、戦後スイスのローザンヌで亡命生活を送り、ココ・シャネルの名はフランスのファッション界はもとより、パリの街からさえも消えていった・・・
時代は・・・
第二次世界大戦後間もなく、1947年クリスチャン・ディオールの「コロール・ライン」が、そして復古調の「ニュールック」が登場し、1948年にアメリカ、ニューヨークの靴下会社プレスティージ社と契約し、ここにブランドによる初のライセンス生産が開始され、80年代後半までに、200を超すライセンス契約が結ばれ、そのライセンスという新しい販売方法は、ピエール・カルダンやイヴ・サンローランなどに引き継がれ、パリのファッションはより輝きを増して世界を席巻する・・・
1954年、15年間の長い沈黙からパリに戻ったココ・シャネルは、ヴァンドーム広場を望むホテル・リッツに住まいを構え、ファッション界へカムバックする。 ココ・シャネル70歳・・・
「人生がわかるのは逆境のときよ」・・・
翌年の1955年ココ・シャネルは、デスクワークのどんな立ち居振る舞いにも適する様に、上着とスカートのツー・ピースの機能的なツイード・スーツ「シャネル・スーツ」を発表。アメリカで人気が爆発し世界的な大流行となった。
そして、20世紀最大の女流服飾デザイナーは・・・
1971年、住居としていたパリのホテル・リッツで、コレクションの準備中に87歳の生涯を終えた。
亡骸は第二次世界大戦中のドイツへの協力とフランスへの裏切り行為により、パリの高級墓地への埋葬を拒否され、スイス・ローザンヌの墓地に埋葬され、彼女が愛した白い花が今も咲き乱れている・・・
「本物のエレガンスは、自分で創り出す存在の美しさである・・・」
(ココ・シャネル:Coco Chanel /1883~1971:Gabrielle Bonheur Chane)
その過酷な人生は、きっと生み出すだろうと神が予測し与えた、真の女性の新たな時代を創る密度の高い日々だったのかも知れない・・・
ラ・ペ通り:Rue de la Paix「平和通り」の意で、今も宝飾や高級ブランド店が並ぶ・・・
(2009年5月撮影)
(以下・参考サイト)
ココ・シャネル(Coco Chanel、本名はGabrielle Bonheur Chanel:ガブリエル・ボヌール・シャネル、1883年8月19日 - 1971年1月10日)は、フランスの女性ファッションデザイナー。
フランス南西部オーヴェルニュ地方ソミュールの救済病院で生まれる。12歳の誕生日を迎える前に母ジャンヌが病死、行商人の父アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育つ。田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと夢見るようになる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ココ・シャネル
1920年代のココ・シャネル(英語)
http://www.1920s-fashion-and-music.com/Coco-Chanel.html
ソミュール (Saumur)は、フランス、メーヌ=エ=ロワール県の都市。ロワール河岸にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ソミュール
アーサー・エドワード・"ボーイ"・カペル(Arthur Edward 'Boy' Capel、 - 1919年12月21日)はイギリス軍大尉、ポロ選手。ココ・シャネルとの関係や、彼女のファッション・スタイルへの多大なる影響で知られている。シャネルの第一号店に資金援助した。 愛するシャネルに教養を身につけさせるために、オススメの詩や哲学などを自ら書いたノートを贈る。 白い花を好み、シャネルに贈っていた。1919年12月21日、シャネルとの密会に向かう途中で自動車事故により死亡。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・カペル
ワーナー・オンデマンド配信中 「ココ・アヴァン・シャネル」 予告編/オドレイ・トトゥ主演 田舎のナイトクラブからパリへ、そして世界へ── コネクションも財産も教育もない孤児院育ちの少女が、世界のシャネルになるまでの物語。 固い意志を秘めた孤児だった彼女は、並みの人間には想像できないような体験を重ねながら、やがて伝説のファッション・デザイナーとなる。その姿はまさに現代女性そのものであり、成功、自由、そしてスタイルの、時代を超えた象徴であった。 http://wod.jp/program/92/ |
シャネルの公式チャンネル
ユーザー名: CHANELチャンネル登録者 95,573 人 220 本の動画CHANEL 2013-14 クルーズ コレクション。最新ムービー公開中。
https://www.youtube.com/channel/UCclHSnngVTZK7LEOQAzcg1w
「ココ・シャネル」 8月8日公開の映画 「ココ・シャネル」の予告編 シャーリー・マクレーン主演 ココ・シャネル(Coco Chanel、本名はGabrielle Bonheur Chanel:ガブリエル・ボヌール・シャネル、1883年8月19日 - 1971年1月10日)は、フランスの女性ファッションデザイナー。であり、彼女の生涯を描いた映画作品。 http://coco-chanel-movie.jp/index.html |
1889年第4回パリ万博|フランス革命100周年
エッフェル塔(La Tour Eiffel)は1889年第4回パリ万博の最大のモニュメントとなった建築物である・・・
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1889-1.html
http://www.ndl.go.jp/exposition/data/T/T019.html
1900年第5回パリ万博|19世紀最大の万博
1900年の万博は、19世紀を締めくくり、20世紀への展望を示す、パリ万博史上最大の規模の博覧会となった・・・
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1900.html
http://www.ndl.go.jp/exposition/data/T/T023.html
オテル・リッツ ( Hôtel Ritz )は、パリの中心部、1区にある壮麗な宮殿ホテルである。 ヴァンドーム広場の15番地に位置し、八角形の広場を見渡すことができる。世界で最も豪華で評判の良いホテルの1つに数えられており、ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールドに加盟している。現在159室を有している ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/オテル・リッツ・パリ
ヴァンドーム広場(仏: Place Vendôme)とはパリの1区にある四角い広場で、テュイルリー宮殿の北、マドレーヌ寺院の東に位置する。ヴァンドーム広場はラ・ペ通り(Rue de la Paix、「平和通り」の意。高級ブランド店が並ぶことで有名)の始点でもある。ジュール・アルドゥアン=マンサールによる規則的な建築と、角のところで斜めになっているペディメントの仕切りとで、長方形のヴァンドーム広場は八角形に見えるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァンドーム広場
イタリア・ヴェネチア/ホテル・ダニエリの窓から「E'la vita それが人生」
http://www.bs4.jp/hotelnomadokara/onair/08.html
ホテル・ダニエリ Hotel Danieli
http://www.danielihotelvenice.com/it
特集:ココ・シャネルとローザンヌ | スイス政府観光局
http://www.myswiss.jp/jp.cfm/chanel_lausanne/
ホテル「ボーリヴァージュ・パレス」 Beau-Rivage Palace
シャネルがローザンヌでの住まいとしたお気に入りのホテルで、スイスに移住前の1938年から、よく訪れていました。
http://www.myswiss.jp/jp.cfm/accommodation/hotel/luxury/offer-Hotels-Luxury_Hotels-38117.html
ココ・シャネル|スイス・ローザンヌの墓地「ボア・デュ・ヴォー」(セクション9・No.130)
http://ameblo.jp/maikoicon/entry-10795948682.html
http://ameblo.jp/petite-suisse/entry-11447962167.html
ガブリエル・シャネル:Gabrielle Chanel
シャネルの歴史やデザイナー、商品情報などをご紹介しています・・・
http://www.mode21.com/brand/gabriellechanel.html
ココ・シャネルの顔
http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-526.html
「男がほんとうに女に贈り物をしたいと思ったら結婚するものだ」ーココ・シャネルー
http://sanmarie.me/coco-chanel
ココ・シャネルの恋愛と仕事
http://www.excite.co.jp/News/laurier/love/E1296008032157.html?_p=all
ココ・シャネルのプロフィール
http://earth-words.org/archives/4205
ココ シャネル – CHANEL NEWS - シャネルニュース 日本語
http://chanel-news.chanel.com/ja_JP/home.html?cat=coco
女性の憧れシャネルの創設者、ココ・シャネルの名言集
http://777news.biz/n/2012/11/25/17765
ココ・シャネルの伝記 『スリーピング・ウィズ・ジ・エネミー』
http://www.apalog.com/kurita/archive/1564
ココ・シャネルという生き方 (新人物文庫) [文庫]|山口 路子 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4404037392/ma046-22
シャネル―人生を語る (中公文庫) [文庫]|ポール モラン (著)
http://www.amazon.co.jp/シャネル―人生を語る-中公文庫-ポール-モラン/dp/4122049172/ref=pd_sim_b_3
ココ・シャネル 女を磨く言葉 (PHP文庫) [文庫]|野 てるみ (著)
http://www.amazon.co.jp/ココ・シャネル-女を磨く言葉-PHP文庫-髙野-てるみ/dp/4569677746/ref=pd_bxgy_b_img_y
Misia Sert:ミシア・セール(1872年3月30日 - 1950年10月15日)は、パリで芸術的なサロンを主催したポーランド人のピアニストであった(Maria Zofia Olga Zenajda Godebska)。 彼女は定期的にポーズをとった数多くのアーティストの後援者...21歳でSertは、ポーランド人のイメグレーである20歳のいとこ、ThadéeNatansonと結婚しました。 ナタンソンは、パリの芸術界や知的なサークルが好んでいた場所を頻繁に訪れました。 彼は政治的な原因に関与し、社会主義の理想を擁護し、彼は彼の友人レオン・ブルームと共有し、ドレイファーザーであった。 マルケ・プルースト、クロード・モネ、ピエールオーギュスト・ルノワール、オディロン・レドン、ポール・シニャック、クロード・ドビュッシー、ステファン・マラルメ、アンドレ・ギデのような文化的な舞台で、サン・フィレンツェ通りのナタンソン家に集まりました...(直訳)
←“Misia” by Henri de Toulouse-Lautrec, 1897年
https://en.wikipedia.org/wiki/Misia_Sert
シャネル その生き方 Part1 ・・・・・K.mitiko
http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part2/newpage1.html
シャネル その生き方 Part2・・・・・K.mitiko
http://hmpiano.net/koharu/friend/michiko/year2006/part3/newpage1.html
ストラヴィンスキー「春の祭典」
http://ja.wikipedia.org/wiki/春の祭典
イゴール・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)によるバレエ音楽「春の祭典」。クラシックなんてほとんど聴かない僕でも知っていたくらい有名な曲。プログレ愛好者にも人気が高いというのは後で知った・・・
http://www.geocities.jp/proglink/artists/harusai.htm
< 春の祭典 >伝説の初演の再現映像
http://www.youtube.com/watch?v=je2Et0XVChs
シャネル&ストラヴィンスキー [DVD]
「N°5」と「春の祭典」―
情熱と官能の愛に燃えるふたつの才能、狂おしい恋が音楽に、行き場のない情熱が香りになった。
http://www.amazon.co.jp/シャネル-ストラヴィンスキー-DVD-ヤン・クーネン/dp/B003GQSZ7A
フェミニズムの起源は18世紀のフランスに遡る。1789年にフランス革命により人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が採決されたが、その権利を男性にのみ与えていることを問題視した女性が抗議運動を行い、欧州各地で女性の権利を求める運動が ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェミニズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/人間と市民の権利の宣言
ファッションブランド一覧
http://www.fashion-press.net/brands/
現代ファッションの100年 : ファッション史年表
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http://www.costumemuseum.jp/history/100/scroll/ie.html
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