時と空間 [人類わずか2,000年]
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尼崎市農業公園や園田競馬場、伊丹の飛行場の辺りは「田能」と呼ばれ、川西や池田方面から大阪湾に注ぐ猪名川の中州が広がり、藻川などの分流が流れ、おそらく昔はのどかな田園風景が広がっていたと思う・・・
(2013年6月11日撮影)
史跡|田能遺跡:たのいせき|尼崎市田能6丁目5-1|Googleマップ
で、昔も昔の、集落跡からは、弥生時代の墓、木棺墓、土壙墓、壺・甕棺墓など17基が発見され、木棺墓の中から装飾品や銅剣の一部や土器や石器の他、銅鏃・ガラス玉・加工痕の残る碧玉原石・ヒスイの勾玉、木製品、植物製品、獣骨・貝殻などの自然遺物などたくさんの遺物が発見された。その後、住居や高床倉庫などを復元し、出土した資料は資料館で公開されている。
古代エジプトでは、プトレマイオス朝最後のファラオ「クレオパトラ」が王位に就き、その後ローマ軍に滅ぼされ、ローマ帝国が地中海を席巻する。ペルシアもササン朝を迎えはじめ、中国においては、後漢王朝の初代皇帝の光武帝あたりで、インドではクシャーナ朝のカニシカ1世へとつながる頃・・・
遠く隔たった「田能」の地に、当然、国家や言語も無い集落が存在していた・・・
それは当時の地球上の文明格差が如何ほどであったか伺い知れる。その後、春夏秋冬を2,000回繰り返した人類の叡智は進化し、時は同期し地球の空間は増々狭く短く距離感を無くし、世界中が或る程度の格差を生みながらも、総てが同軸に進行し、且つ情報がこの地球上のあらゆる所にすみやかに行き渡り、如何なる「民」も総てが等分の価値を得る、まさに「地球規模社会」の時代だろうか?
それは「人類はや2,000年」なのか、やはりまだまだ「人類わずか2,000年」なのか?・・・
さて、失礼して家の中へ・・・
外に出れば、屋根瓦にサッシのドアーに太陽光発電に自動車か????
春夏秋冬を2,000回繰り返した人類の叡智。
人類はすごいわ~・・・と思う!! が、
では、人類はこれから何をどうするのだろうか?・・・
(以下・参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/1世紀
https://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代エジプト
http://ja.wikipedia.org/wiki/エジプト
クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前70年12月/紀元前69年1月 - 紀元前30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオである。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(英語版)(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。現在、一般に「クレオパトラ」として浸透しているのは、このクレオパトラ7世の事である。「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/クレオパトラ7世
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代エジプト
https://ja.wikipedia.org/wiki/インド
http://ja.wikipedia.org/wiki/クシャーナ朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/エリュトゥラー海案内記
http://ja.wikipedia.org/wiki/中国の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/後漢
http://ja.wikipedia.org/wiki/光武帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/イランの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/古代イラン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヘレニズム
http://ja.wikipedia.org/wiki/ペルシア
田能遺跡(たのういせき)は、兵庫県尼崎市田能から伊丹市岩屋にまたがる弥生時代の遺跡。国の史跡。1965年(昭和40年)に、尼崎・伊丹・西宮三市共同による工業用水園田配水場の建設工事中に大量の弥生土器が発見されたことから、この場所に大規模な弥生時代の遺跡があることが判明、調査が開始された。特に注目されたのが、木棺の発見である、木は腐りやすいため、それまでは推測でしかなかった弥生時代の木棺埋葬の風習が、初めて具体的な形で証明された。
当初は調査後、計画通り配水場建設を進めて遺跡を破壊する予定だったが、保存運動が高まり、その結果、遺跡の重要な部分を保存することが決定、1969年(昭和44年)6月30日には国の史跡に指定され、 翌1970年(昭和45年7月25日)には尼崎市立田能資料館として開館した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/田能遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代の遺跡一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/近畿の史跡一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/ひょうごっ子ココロンカード
田能遺跡は、弥生時代の全期間にわたる集落跡です。住居のほかそれまで不明であった近畿地方弥生時代の墓制を明らかにした木棺墓、土壙墓、壺・甕棺墓などの墓が発見されました。木棺墓の中には碧玉製管玉の首飾りや白銅製の腕輪を身につけた特別な扱いをうけていたと思われる人物の墓がありました。発掘された遺構は地下に保存された後、全面に土盛りし植栽を施し、屋外には住居や高床倉庫などを復元し、出土した資料は資料館で公開しています。また弥生時代の暮らしを体験する各種の体験学習会も開催されています。
http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/tano_iseki/tano_iseki.html
指 定 国指定史跡
種 別 史跡
所在地 尼崎市田能6-5-1
所有者 尼崎市
指定日 昭和44年6月30日
田能遺跡は尼崎市の北東端、猪名川左岸に接する標高約6mの沖積平野にあります。昭和40年9月尼崎・西宮・伊丹三市共同の工業用水配水場の工事現場で大量の土器が発見されたことがきっかけとなり、その後1年間にわたり発掘調査が行われました。
調査の結果、遺跡は弥生時代全期間にわたる集落跡であり、東西110m、南北120mの範囲内に拡がり、住居跡・土坑・溝・柱穴のほか無数の小さな穴が発掘されました。さらに木棺墓・木蓋土坑墓・土坑墓・壷棺墓・甕棺墓などの墓が17基発見され、それまで不明であった弥生時代近畿地方の墓制を明らかにする手がかりを与えてくれました。
17基の墓のうち、第16号墓では632個以上の碧玉製管玉が胸部付近から、第17号墓では左腕に白銅製の腕輪を身に着けた状態で発見され、丁寧に作られた墓に埋葬されていたことなどと併せこの2基の墓の被葬者が特別な扱いを受けていたことが分かります。
また弥生時代中期前半の土器片と一緒に不整形の穴の中から銅剣の鋳型が発見されました。それまで瀬戸内・九州など西方で使用されていた銅剣はその地域で製作されていたとされてきましたが、田能遺跡での銅剣鋳型の発見によって、銅剣の一部が近畿地方でも作られていたことが明らかになりました。大量の土器や石器の他、銅鏃・ガラス玉・加工痕の残る碧玉原石・ヒスイの勾玉、木製品、植物製品、獣骨・貝殻などの自然遺物などたくさんの遺物が発見され弥生時代近畿地方を解明するにあたって学術上価値の高い遺跡として国の史跡に指定されました。
遺構の上に約3mの土盛りを行って遺跡を保護し、植栽を施した後、倉庫や住居を復元し、一隅には出土資料を収蔵・展示する田能資料館を建設しました。弥生時代をテーマにした各種の体験学習会を催すなど今日では沢山の見学者を迎えています。
http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/sitei/tanoiseki/tanoiseki.html
藻川(もがわ)は、淀川水系猪名川の分流で兵庫県伊丹市および尼崎市を流れる一級河川。 ... 藻川と猪名川に囲まれた東園田地区は、かつて夏は蛍が飛び交い、カジカの音色が聞こえ、秋はマツムシやスズムシの音が聞こえる、のどかな田園であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/藻川
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