ぶらり京都-52 [養源院の俵屋 宗達]
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でも、その伝記には不明な点が多く、作品点数はもとより生没年さえわからず、おおよそ1570年(永禄13年・元亀元年)より少し前あたりに生まれ、1642年(寛永19年)の少し前で、おそらく70歳余で亡くなっていると推定されている・・・
そして、その絵が少しまとまって残っているのが「養源院」で、1621年(元和7年)頃に描かれた、
着色杉戸絵(表.獅子・裏.波に麒麟図、表.獅子・裏.白象図)4枚(8面)
金地着色松図(襖8面、戸襖4面)12面
(裏.白象図の表.獅子は現在展示していない)
そしておそらく誰もが知っている、50才頃に描かれただろうと推定されている、1624年の元和末期頃の代表作、建仁寺蔵の「風神雷神図」(現在は京都国立博物館に寄託)を残し、煙のように時代を通りすぎた、画人「俵屋 宗達」を「養源院」に訪ねた・・・
養源院|Googleマップ(2013年11月20日撮影)
「養源院」(ようげんいん)
1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が1573年(天正元年)信長に謀反をおこし小谷城で自刃した父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建。その後1619年(元和5年)火災により焼失。1621年(元和7年)淀殿の妹である徳川秀忠の正室・お江:崇源院により再興され、本堂は1619年(元和5年)に関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し自刃した廊下の板の間を血痕が残る血天井として移築し供養、左甚五郎の鶯張廊下や庭園は小堀遠州の作庭・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/養源院
俵屋 宗達 画/1621年(元和7年)/着色杉戸絵/養源院蔵 (上の写真は画面をクリックすると800×590ピクセルに拡大します) 俵屋 宗達 画/1621年(元和7年)/着色杉戸絵/養源院蔵 (上の写真は画面をクリックすると800×560ピクセルに拡大します) 俵屋 宗達 画/1621年(元和7年)/着色杉戸絵/養源院蔵 (上の写真は画面をクリックすると800×590ピクセルに拡大します) |
本堂内部の杉戸絵「白象図」の全体写真・・・注(院内は写真撮影は禁止でネットから総て抜粋)
俵屋 宗達 画/1621年(元和7年)/4面襖絵/養源院蔵 (上の写真は画面をクリックすると1200×390ピクセルに拡大します) 俵屋 宗達 画/1621年(元和7年)/4面襖絵・部分拡大/養源院蔵 Yōgen-in Temple, Higashiyama Ward, Kyoto,Japan |
時代は室町から戦国時代へ桃山時代から江戸時代へと激しく動いていた・・・
俵屋 宗達が生まれた頃の1568年(永禄11年)に、信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を第15代将軍に擁立後の、1579年(天正7年)安土城を完成後、まもなくの1582年(天正10年)本能寺の変で時を終える。1597年(慶長2年)の第2次朝鮮出兵の慶長の役の翌年に豊臣秀吉は死去。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い。そして1603年(慶長8年)征夷大将軍の家康が江戸幕府を開府し、1605年(慶長10年)に徳川秀忠が第2代将軍に就任し、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、夏の陣で大坂城は落城し豊臣家は滅亡。江戸時代が始まり1621年(元和7年)に養源院のこれらの絵が描かれ、その後鎖国を迎えて、俵屋 宗達が亡くなる頃の1634年(寛永11年)には平戸商館を長崎出島に移している・・・
「美」の時代も・・・
きらびやかな桃山文化を金碧障壁画に託した、狩野 永徳が1590年(天正18年)に47歳の若さで過労死し、ライバル長谷川 等伯も江戸に下向する旅中で発病、江戸到着後2日目の1610年(慶長15年)72歳で病死する。そして、数々の合作を生みながら、師とあおぐ本阿弥 光悦も書家、陶芸家、芸術家として1637年(寛永14年)に79年の生涯を終えている・・・
俵屋 宗達(おそらく?1570年前後/永禄13年〜1642年前後/寛永19年)もそんな時代を生きた・・・
そして俵屋 宗達が描いた絵とは・・・
時代も戦国時代の終わりを告げ、京・大阪の上方から江戸を中心とした、江戸幕府の新たな時代を生み始めていた。養源院も当初の淀君による創建も火災により焼失し豊臣時代は終焉し、徳川時代を迎えて、淀君の妹、崇源院(お江)によって再興され、当代一流の俵屋 宗達・小堀遠州・左甚五郎などを集め、その当時の一流どころの、ぴかぴかに輝く時代の断片のように見え、それは明らかに徳川時代の幕開けを、京の街や上方の人々、いや全国に大々的に宣伝する為のもの様にも映る・・・
そして、俵屋 宗達は師と仰ぐ本阿弥 光悦と共に、激動の時代をくぐり抜け、互いの美の時代を築き上げ、時を終えた・・・
その後「絵」たちも養源院の板戸から抜け出し、彼ら二人が創り上げた王朝時代の古典の神髄と、明快で装飾的な意匠感覚は、ほとんど100年近く経った江戸中期に、尾形光琳(1658年:万治元年〜1716年:享保元年)に引きつがれ「琳派」と呼ばれ、その後はるか海を渡り世界へと羽ばたいていった・・・
(以下・参考サイト)
俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳 - 慶長から寛永年間に活動)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」ほか・・・
宗達は尾形光琳と並び称せられる、近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、その伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。おそらく、親交のあった角倉素庵や烏丸光広と同年代、1570年代かその少し前の生まれと推定される ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/俵屋宗達
仁王門のある頂妙寺
頂妙寺のお墓には、風神雷神図屏風で知られる俵屋宗達(たわらや そうたつ)も眠っています。宗達の墓は石川県にも残されていて、実は晩年も出自も詳しくは分かっていない人物です。しかし、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれるほどの才能持った芸術家、本阿弥光悦に見出され、その個性あふれる作風は当時から高い評価を得ていました。頂妙寺には「牛図」が伝わり、京都国立博物館に寄託されています。
http://kyoto-tabiya.com/blog_higashiyama/仁王門のある頂妙寺/
俵屋宗達 Tawaraya Sotatsu
江戸時代前期 | 日本 | 琳派・絵師
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sotatsu.html
俵屋 宗達(たわらや そうたつ)の代表作品・経歴・解説
http://lempicka7art.blog.fc2.com/blog-entry-149.html
養源院 金地着色松図(養源院 白象図 唐獅子図杉戸絵)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000108
養源院(桃山御殿 血天井、宗達筆襖、杉戸絵)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000229
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
(部分)
俵屋宗達 画
本阿弥光悦書
京都国立博物館蔵
重要文化財
本阿弥 光悦
ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年〜寛永14年2月3日:1637年2月27日)
江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/本阿弥光悦
本阿弥光悦書・俵屋宗達画/畠山記念館蔵/重要文化財
「養源院:ようげんいん」
は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。もと天台宗・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/養源院
京都「養源院」で俵屋宗達の絵を見る
http://blogs.yahoo.co.jp/genkikidx/22408872.html
数奇な運命をたどった、浅井、豊臣、徳川が眠る寺
http://kyoto-higashiyama.jp/shrinestemples/yogenin/
養源院
http://www.doco-ico.net/kyoto/sightseeing/detail/yougennin/
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/yougen-in.htm
京都散歩ナビ|養源院
http://kyoto-sampo.jp/kanko/yogenin.html
http://kyoto.wakasa.jp/detail/25/861/
http://kofuntonekosukoshi.blogspot.jp/2013/05/blog-post_14.html
養源院|庭園|池泉回遊式
小堀遠州の作庭で東山連峰の阿弥陀ケ峯を遠景とし、水が北の池より南の池へ
注ぐ風景を造作したもので、築山部分の涸れ滝石組みがすばらしい。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inosan/yougenin.html
美術雑誌『聚美』の公式サイト|俵屋宗達
http://www.seigetsusha.co.jp/shubi/archives/pg36.html
←唐獅子図杉戸|白象図杉戸|京都・養源院
http://www.seigetsusha.co.jp/
shubi/_src/sc372/shubi07_P024-25.jpg
桃山-江戸時代・17世紀頃|各155.5×170cm | 2曲1双・紙本金地著色 | 醍醐寺蔵
(奈良時代あたりにアジア大陸諸国から伝来した舞と音楽の融合芸能文化で、公家や神道寺院とも縁の深い「舞楽」で、右隻が「採桑老」「納曽利」、左隻が「羅陵王」「還白楽」「崑崙八仙」の五種類の有名な舞楽演目を描いた作品)
http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/daigoji-temple/04daigoji-3.html#.VRdU2CgubCo
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sotatsu.html
(上の写真は画面をクリックすると1000×448ピクセルに拡大します)
宗達障屏画作品における金地構成|by 岡本明子 - 2006
宗達総金地作品の最初期のものと考えられる養源院 「松図襖」 の制. 作年代は、 養源院の ... 野探幽が一一条城一一の丸御殿大広間の三の間に総金地の 「松に孔雀. 図」 を描いたのは ... しくは全面に金箔を貼付した所謂金地着色画」 を指耀。 金箔を大画・・・
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/27630/1/055.pdf
慶長(けいちょう)は、日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。
http://ja.wikipedia.org/wiki/慶長
寛永(かんえい)は、日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。
http://ja.wikipedia.org/wiki/寛永
http://kotobank.jp/word/永禄
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