ぶらり京都-53 [秋の高瀬川]
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京都は、川沿いに桜が植えられ、桜の名所で有名な「高瀬川」があり、辺り一帯が歓楽街になっている。その三条通りから四条通りまで「秋の高瀬川」をぶらりと通り抜ける・・・
高瀬川沿い|三条から四条通りの地図|Googleマップ(2013年11月20日撮影)
高瀬川の今,昔
江戸時代の高瀬川/1787年(天明7年)刊→
「拾遺都名所図会」(京都4市歴史資料館蔵)
明治末期頃の高瀬川、高瀬船で伏見から京へ荷物を運ぶ七条小橋の風景・・・↓
高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。
↓(七条と五条の間の正面通あたり)
現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。 京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、また桜の名所ともなっている。慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った・・・
その後慶長19年(1614年)に、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が開鑿された。これが高瀬川である。水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡指定されている「一之船入」を除き、すべて埋め立てられている)・・・
七条には「内浜」(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(場所は現在の七条河原町を中心とした七条通の北側である)。内浜の設置は、慶安元年(1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更とともに行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。 川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた。江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。 明治時代に入り、明治27年(1894年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少し、大正9年(1920年)に水運は廃止されることになった。 また、この頃に高瀬川を暗渠化し、路面電車の木屋町線を拡幅する都市計画道路が検討されたが、地元住民の反対により、河原町通に変更された。
←(七条小橋の風景)
http://ja.wikipedia.org/wiki/高瀬川_(京都府)
(文章はwiki/写真は以下サイトです)↓
老人が子等に語る「伏見風土記」
明治末期頃の高瀬川
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/
fushimi.pages/takasegawa3.html
(以下・参考サイト)
都市史22 高瀬川
角倉了以(すみのくらりょうい,1554~1614)とその子素庵(そあん,1571~1632)の協力により,慶長19(1614)年に開かれた運河。高瀬川という名前は,輸送に高瀬舟とよばれる平底の舟が用いられたために付けられた名で,角倉川ともいわれています。
角倉了以は,文禄元(1592)年豊臣秀吉の許可を受け,安南国(ベトナム)に貿易船を派遣するなど貿易商として活躍。また国内の河川開発に従事し,大堰川(おおいがわ)や富士川などの舟運を開いた人物です。
江戸時代はじめの高瀬川は,二条大橋西畔から鴨川の水が引き入れられ,鴨川西岸を南流し,四条橋の下流で鴨川と合流,五条大橋の南で分岐し九条まで流れ,東九条で鴨川と交叉し伏見に至り,宇治川へ注ぐ,延長約10キロメートルの運河でした。17世紀末には鴨川と完全に分離されました。
高瀬川は京都市中と伏見間の物資輸送に利用されました。それまでは,大坂方面からの物資は淀川を舟で運ばれ,鳥羽で陸あげされ,陸路を京都市中へ運ばれたのですが,高瀬川の完成により,市内中心部へ運ぶことが便利になったのです。
現在の高瀬川は,昭和7(1932)年の改修工事により鴨川からの取り入れ口が暗渠(あんきょ)となっています。十条より南,竹田に至るまでの延長2.8キロメートルは,新高瀬川と称されており,旧時の流れと異なっています・・・
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html
京都観光Navi:高瀬川
中京区木屋町通二条下ル付近から鴨川を分流し、鴨川と平行に南流、中京・下京・南区陶化橋付近で鴨川に注ぎ、東山区福稲から再び分水を経て伏見区へ貫流し宇治川に入る人工川。全長10キロ、幅7メートル。角倉了以が1611年(慶長16)開削。京都―伏見間の物資を輸送する舟運を盛んにした。森鴎外の『高瀬舟』の舞台。舟の荷物揚げおろしをする船溜(船入り)が9ヵ所あり川の起点の木屋町二条を「一之舩入」といい、石碑がある。国の史跡。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000044
京都観光Navi:高瀬川一之船入
川の西方の堀割を一之船入という。高瀬川は慶長16年(1611)頃角倉了以(すみのくらりょうい)が開いた運河で、ここを運行する高瀬舟の荷物のあげおろしをする船溜所(ふなどまりしょ)を船入といった。高瀬舟が盛時には百数十艘が上下し、大坂などの物資を運び入れた。船入はこの一之船入をはじめ数カ所に設けられた。明治以後、高瀬川は舟運の目的を失ったが、両岸に柳を植えた景観は京都の情緒の大きな要素となっている。一之船入は江戸時代の交通運輸の貴重な遺跡として史跡に指定されている。
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000092
都名所図会(みやこめいしょずえ)は、江戸時代後期に刊行された京都に関する地誌。「都名所」と称しているものの、その記述内容は洛中・洛外に限らず広く山城国全域に及んでいる。文章は秋里籬島・挿絵は竹原春朝斎。全6巻11冊。
1780年(安永9年)に刊行され、好評を博したために1787年(天明7年)になって続編である『拾遺都名所図会』が出された。実地踏査に基づいて、代表的な名所だけではなく、隠れた名所や伝説・名物などについても詳細な解説を施し、更に豊富な鳥瞰図や風俗図などの挿絵が広い支持を受け、各種名所図会刊行のきっかけとなった。収録地域は、巻1から3では主として京都市中を、巻4と5では京都郊外の山城各地域(宇治・八幡など)を取り上げている。これはこの著に先行する「京童」「京雀」などに倣ったものであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/都名所図会
『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。なお、本データベースに用いた『拾遺都名所図会』は大坂の ...
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/c-pg2.html
天明7年(1787)刊『拾遺都名所図会』(京都市歴史資料館蔵)には、高瀬船が人に引かれて高瀬川をさかのぼる様子が描かれている。図版は、臨川書店刊『新修京都叢書』より転載
http://www.bunet.jp/world/html/12_4/12_4tansa/12_4image16.html
老人が子等に語る「伏見風土記」第2集|明治末期頃の高瀬川
明治末期頃の高瀬川、 高瀬船で伏見から京へ荷物を運ぶ風景です・・・
「川が川を渡る」 ☆高瀬川の残骸☆
高瀬川運河は慶長18年から大正9年の長きにわたって、角倉家の経営のもとで京都の経済ルートの中心的役割を果たした。 この中で、「川が川を渡る」すなわち、高瀬川が現在の陶化橋の北側のところで鴨川を横切っていたことが、全く忘れ去られている。 竹田の某氏に蔵せられている図によれば、鴨川の中に等間隔で杭を打ち並べ、高瀬舟5隻を1隻づつ一列に並べて、その杭に舟腹をそわせながら引っぱり渡したようである・・・
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/fushimi.pages/takasegawa3.html
まちず -京都のまちのアーカイブと今
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