アルフォンス・ミュシャの「我が祖国」
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1860年、当時の旧オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェ: Ivančice, Moravia (現在のチェコ共和国モラヴィア州イヴァンチツェ) に裁判所の官史をしていた父オンドジェイ・ミュシャと家庭教師であった母アマリエ・マラーの間に生まれた・・・
チェコ共和国|モラヴィア州イヴァンチツェ|Ivančice, Moravia|Googleマップ
ミュシャは中学校を中退後、19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通い、25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、1888年の28歳のときパリに出てボナールやドニなど、後のナビ派と呼ばれる画家たちが学んだアカデミー・ジュリアンに通う・・・
パリでは挿絵の仕事などで生計を立て、グランド・ショミエール通りにある若い画家たちのたまり場だったマダム・シャルロットの簡易食堂2階のアトリエ兼、下宿部屋で暮らし、ポスト印象派の画家ポール・ゴーギャンと出会っている・・・
1894年のクリスマスの翌日、ミュシャは、友人の休暇のかわりに印刷所でバイト中、当時の著名な舞台女優サラ・ベルナールが主演する正月公演の戯曲「ジスモンダ」のポスターをその印刷所が年内に作ることを依頼され、年の瀬で主だった画家がクリスマス休暇をとっていたため、急遽バイトのミュシャが制作する事になり、大晦日に高さ2m13cm×横75cmの二枚張り合わせ版下のポスターは刷り上がり、年明けの1895年、ポスターは一斉にパリの広告塔に飾られ、パリ中一大センセーションを巻き起こし、当時流行していた、シェレ、ロートレック、グラッセなどと並ぶアール・ヌーヴォーの象徴として一躍時代の寵児に踊りでる・・・ミュシャ34歳
Poster for ’Gismonda’
December 26, 1894年
213×75cm | リトグラフ
時代は・・・
普仏戦争(1870〜1871年)後からヨーロッパ全土にまたがる第一次世界大戦(1914〜1918年)まで、フランスはナポレオン3世の第二帝政から第三共和政へと移行。産業革命が進み近代産業国家へと発展し、ブローニュのロンシャン競馬場やモンマルトルのムーラン・ド・ラ・ギャレットや、シャ・ノワールにムーラン・ルージュなどの娯楽場が相次いでオープンし、街にはガス灯やカフェ、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになる。
女性たちはファッションに興味を持ち、サイクリングやレジャーが普及し、鉄道の発達は国内外の旅行を容易にし、自由に人間として生きる事の喜びを高らかに謳歌し、1874年には「第一回印象派展」が産声をあげ、1878年のパリ博覧会ではジャポニスムが沸き起こり、自然回帰とも云える「アール・ヌーボー(新しい芸術):Art Nouveau」が登場し、1889年のパリ万国博覧会に時代の象徴とも云えるエッフェル塔が建設され、パリが最も繁栄した華やかな時代・・ベル・エポック(Belle Époque)を迎えていた・・・
ミュシャも翌1895年、フランス演劇界の女王となったサラ・ベルナールと六年間の契約を結び経済的困窮から脱し、「椿姫/メディア/ラ・プリュム/トスカ」などのポスターを制作していく・・・
(宝石商・ジョルジュ・フーケのインテリアデザイン)↓
↑(サロン・デ・サン:SALON DES CENT:1897年)
「アール・ヌーヴォー様式」は、1894年にベルギーの雑誌L'Art moderneに端を発してパリに伝わり、プロヴァンス通り22番地の美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー: Maison de l'Art Nouveau」の看板にその名前が登場し、エクトール・ギマールの建築、宝飾工でガラス職人であったルネ・ラリック、ナンシー派のエミール・ガレのガラス工芸、陶器、家具など、パリであふれんばかりの華を咲かせ、1900年のパリ万国博覧会で絶頂期を向え、ヨーロッパ各地に波及する・・・
そのパリは、商業広告が発展し、ロートレックの有名なポスターやスタンランのキャバレー・黒猫:Le Chat Noir のポスターやイラストレーターのビアズリーなど、本の表紙から雑誌の挿絵まで、宣伝ポスターや装飾パネル、新聞のタイポグラフィから絵はがきと、ありとあらゆるところにアール・ヌーヴォーはその足跡を残した・・・
←(ウェバリーの自転車 : Waverly Cycles)
しかし、その「アール・ヌーヴォー様式」も装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになり、第一次世界大戦(1914年〜1918年)を境に衰退し、1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会では「アール・デコ:Art Déco」へと時代は移り、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上ほとんど顧みられなくなっていった・・・
↓(四季:Les Saisons/1897年カレンダー)
そして、1908年にボストン交響楽団による同胞のスラブ人であるスメタナの組曲「わが祖国」を聴き、強い衝撃と深い感銘を受け、スラブ民族の文化の伝承に尽力することを決意する・・・
パリで商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは50歳の1910年「アール・ヌーヴォー様式」の衰退とともに、妻のマルシュカ・ヒティロヴァーと二人の子供(娘:ヤロスラヴァ/息子:ジリ)と共に故国であるチェコ(当時のオーストリア=ハンガリー帝国領)に帰国し、国家行事のポスターや紙幣や切手、国章などのデザインを無報酬で請け負い、スラブ民族の歴史を描いた20点から成る絵画の連作「スラヴ叙事詩」を、完成まで20年の歳月を要しながら制作を始める・・・
1914年、ヨーロッパが2つの陣営に分かれ第一次世界大戦が勃発し、その足かけ5年にわたった戦争も1918年に終る間際にロシア革命がおこり、300年続いたロシアのロマノフ王朝は幕を閉じ、同じ様に第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊する。そして「ミュシャの祖国」は、チェコスロヴァキア共和国(1918年〜1992年)として独立が宣言された・・・
写真出典:http://doudou.gheerbrant.com/?cat=17 →
http://cz-ru.livejournal.com/555972.html ↓
しかし1929年のニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した世界金融恐慌をきっかけに、
大不況は世界中を席巻し、ついに1939年から1945年にかけて第二次世界大戦へと、
緊迫する大戦の1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まり、
1938年にズデーテン地方がドイツに割譲・・・
反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となり、
チェコスロバキアは地図から姿を消していった・・・
"Slovaně v pravlasti" 油彩・テンペラ・画布/610×810cm/1912年 "Slavnost Svantovitova na Rujaně" 油彩・テンペラ・画布/610×810cm/1912年 "Apoteoza Slovanstvo pro lidstvo!" 油彩・テンペラ・画布/480×405cm/1926年 ミュシャのスラヴ民族の想いに込められた集大成、最後の一枚 モラフスキー・クロムロフ城蔵:Moravský Krumlov アルフォンス・マリア・ミュシャ:Alfons Maria Mucha |
「わが祖国」"Má Vlast"-Die Moldau - ベドルジハ・スメタナ:Bedřich Smetana [ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana] カレル・アンチェル&チェコ・フィル:Karel Ančerl&CZECH PHILHARMONIC ORCHESTRA http://www.youtube.com/watch?v=M3SmylXuTUc |
スメタナの「わが祖国」は、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。
「ヴィシェフラド」「モルダウ」「シャールカ」「ボヘミアの森と草原から」
「ターボル」「ブラニーク」の6曲が作曲された・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/わが祖国_(スメタナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベドルジハ・スメタナ
プラハから日本へ|カレル大学日本研究学科学生の日本語ブログ
ミュシャには、6m×8m もの大作20点からなるスラヴ叙事詩を制作するいくつかの要因と理由が・・・
http://pragueforjapan.wordpress.com/category/アルフォンス・ミュシャ「スラブ叙事詩」に挑む/
ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展|「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展」公式サイト
http://www.ntv.co.jp/mucha/exhibition/topics.html
http://www.ntv.co.jp/mucha/exhibition/profile.html
ミュシャを楽しむために|スラヴ叙事詩|ミュシャ略年譜
http://www.mucha.jp/index.html
スラヴ叙事詩はミュシャにとって生涯 三度目の歴史画シリーズにあたります ...
http://www.mucha.jp/slavepopej.html
アール・ヌーヴォー(フランス語: Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アール・ヌーヴォー
エクトール・ギマール
Hector Guimard
(1867年〜1942年)
フランスの画家・リトグラフ家・イラストレーター。ポスターの大家となり、この分野では大変な人気作家となった。アール・ヌーヴォーの先駆者の一人とされる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/エクトール・ギマール
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック
Henri de Toulouse-Lautrec
(1836年〜1932年)
19世紀のフランスの画家。日本では慣習的に「 ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」でひとつの姓である 南仏のアルビで生まれる。トゥールーズ=ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ジュール・シェレ
Jules Chéret
(1836年〜1932年)
フランスの画家・リトグラフ家・イラストレーター、ポスターの大家となり、この分野では大変な人気作家となった。アール・ヌーヴォーの先駆者の一人とされる。
シェレのポスターには陽気で、優雅で、常に動きのある女性が多く登場する。一目でそれと分かるこの女性はシェレのスタイルの特徴となっており、「シェレット」(Cherette)と呼ばれる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュール・シェレ
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
Théophile Alexandre Steinlen
(1859年〜1923年)
スイス生まれのフランスのアール・ヌーヴォーの画家、版画家。
パリ、モンマルトルの芸術家コミュニティに移った。そこでスタンランはアドルフ・ウィレットの世話になった。ウィレットはスタンランをキャバレー黒猫(ル・シャ・ノワール、en:Le Chat Noir)の芸術家の集まりに誘った・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
ウジェーヌ・グラッセ
Eugène Grasset
(1845年〜1917年)
スイスの装飾芸術家。ベル・エポックの期間、フランスのパリで、さまざまなデザイン分野で活躍した。彼はアール・ヌーヴォーの先駆者と考えられている。スイスのローザンヌで生まれた。父親が飾り棚のデザイナー・制作者、彫刻家だったので、美術的な環境で育った・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・グラッセ
オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
Aubrey Vincent Beardsley
(1872年〜 1898年)
イギリスのイラストレーター、詩人、小説家。ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱ゆえに25歳の若さで夭折した・・・
イングランド南部のブライトンに生まれる。父ヴィンセント・ポール・ビアズリーは金銀細工師の息子・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/オーブリー・ビアズリー
ルネ・ラリック René Lalique
(1860年〜1945年)
19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家、宝飾(ジュエリー)デザイナー。アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ラリック
シャルル・マルタン・エミール・ガレ
Charles Martin Émile Gallé
(1846年〜1904年)
アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アートディレクター、企業経営者.1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した'月光色'ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞・・・
1903年、パリのルーブル宮マルサン館で開催されたナンシー派展に出品。1904年9月23日、白血病により死去、58歳
http://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・ガレ
アントワープのアールヌーボーの町並みを歩く・・・<1〜3>
http://blogs.yahoo.co.jp/brusselhaiitokoro/folder/1778572.html?m=lc&p=1
アール・デコ(仏:Art Déco)とは、一般にアール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国(ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アール・デコ
ムハ(ミュシャ)のスラヴ叙事詩
http://blog.livedoor.jp/andromedayaki/archives/22269102.html
2012年プラハ旅行記・その2
http://4travel.jp/travelogue/10777689
プラハから3時間ぐらいかかる片田舎のモラフスキー・クルムロフ城
Moravský Krumlov, Česká republika
http://goo.gl/maps/tB3nA
今回の渡航の主目的、ムハの晩年の作品群「スラブ叙事詩」鑑賞へ。
http://4travel.jp/travelogue/10191679
■旅の起点となる都市ブルノ Brno
http://www.brno.cz/index.php?lan=en
■モラフスキー・クルムロフ Moravsky Krumlov
http://www.mkrumlov.cz/index1.php
「スラブ叙事詩」を訪ねて|モラフスキー・クルムロフ:Moravsky Krumlov
http://4travel.jp/travelogue/10191679
Alfons MUCHA: Slovanska epopej (A.ムハ:スラブ叙事詩)プラハ市立ギャラリーの展示会
http://d.hatena.ne.jp/Picmoch/20120621/1340293506
The Slav Epic in Moravský Krumlov
http://www.radio.cz/en/static/mucha-alfons/epic-krumlov
http://esoserver.narod.ru/Pagan/slav_epop.htm
http://rostovdon.livejournal.com/1021929.html
The Slav Epic in Moravský Krumlov
http://www.radio.cz/en/static/mucha-alfons/epic-krumlov
Mucha family voices concerns as Slav Epic goes on display in Prague
http://www.radio.cz/en/section/curraffrs/mucha-family-voices-concerns-as-slav-epic-goes-on-display-in-prague
「スラブ叙事詩」生んだ城…アルフォンス・ミュシャ|チェコ・ズビロフ
愛国心を鼓舞する大作を制作したのは、首都プラハ西方ズビロフの城だった。人口2500人余の街、ズビロフ町の丘にあるズビロフ城の現城主で実業家のヤロスラフ・パハさん(54)が解説してくれた・・・
http://www.yomiuri.co.jp/otona/trip/earth/20121116-OYT8T00885.htm
堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館|オフィシャルサイト
http://mucha.sakai-bunshin.com/
ドイツ・チェコの旅 ~38~
http://gankooyaji.eshizuoka.jp/d2013-09.html
アルフォンス・ミュシャのアール・ヌーヴォー・インテリア
http://www.history.arch.t.u-tokyo.ac.jp/kato/life_in_paris/B184137126/C820387835/E1554664208/index.html
ミュシャ宝石商ジョルジュ・フーケ
http://blogs.yahoo.co.jp/vogue3618/28850402.html
カルナヴァレ美術館 (Musee Carnavalet)
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0807/museum.html
FK’s Blog|カルナヴァレ博館
http://bonzoblog.exblog.jp/11474917/
パリ16区のアールヌーボー建築巡り
http://aaafj240309.blog16.fc2.com/blog-entry-585.html
アール・ヌーヴォー、エクトール・ギマールHector Guimardの建築めぐり
http://4travel.jp/travelogue/10428391
ギマール設計のアパルトマン訪問
http://inabagneux.blogspot.jp/2012/04/blog-post_12.html
ギマールのアールヌーボー通りを行く
http://4travel.jp/travelogue/10096454
パリ <アールヌーボー建築>
http://ouchiyama.exblog.jp/5260639/
ミュシャ「ジスモンダ」 - KIRIN~美の巨人たち~
今日の一枚は、アルフォンス・ミュシャ作『ジスモンダ』。アール・ヌーヴォーの旗手といわれる画家の出世作です。横75センチ、縦は2メートル以上の石版画です。『ジスモンダ 』とは、古代アテネを舞台にした恋愛劇のタイトルです。画面に描かれて ...
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/100206/
アルフォンス・ミュシャ-主要作品の解説と画像・壁紙-
http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/mucha.html
アルフォンス・ミュシャ 作品の紹介・画像 - ヴァーチャル絵画館
http://art.pro.tok2.com/M/Mucha/mucha.htm ミュシャの愛した二人の女性|あーとめぐり
http://yaplog.jp/etoile_etoile/archive/158
サラ・ベルナール(本名アンリエット・ロジーヌ・ベルナール、Henriette Rosine Bernard) はパリで生まれた。母はユール(Youle)の名で知られたユダヤ系オランダ人売春婦ユディト・ファン・ハルト(Judith van Hard)で、彼女は生き残った私生児の中では最年長で ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/サラ・ベルナール
チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika 英: Czech Republic)、通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はプラハ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/チェコ
http://ja.wikipedia.org/wiki/プラハの春
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