The「鳴尾物語」Vol.2
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時代の追い風をうけて鳴尾は、1914年(大正3年)に鳴尾競馬場駈歩コース跡に、6ホールの海浜コースのゴルフ場「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」が、1917年(大正6年)には鳴尾競馬場のトラック内を利用して、後に甲子園球場となる「鳴尾球場」を造り、豊中グランドから第3回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を誘致開催、鳴尾はその歓楽街の全貌を見せ始める・・・
第1回全国中等学校優勝野球大会は、大阪朝日新聞主催で1915年(大正4年)8月18日〜23日までの6日間にわたって大阪府の豊中グラウンドで行われ、参加校数73校、出場校10校で戦われ、京都二中が優勝している。しかし、グランドの規模の小ささや、会期を短縮して出場校の費用を軽減することなどが課題となり、鳴尾競馬の場内に野球用グラウンドを2面設置し「鳴尾球場」として、1917年(大正6年)の第3回大会から会場が移される。その後、人気になるにつれ観客が増加し、1923年(大正12年)の第9回大会では溢れた観客がグラウンドになだれ込む事件が発生し、本格的な野球場の建設が急がれた・・・
そこで、鳴尾村に流れていた武庫川の支流、申川(さるがわ)と枝川を武庫川の上流でせき止め廃川とし、その枝分かれしている分岐点に、野球場を建設する計画を立て、1924年(大正13年/干支:甲子)3月11日に起工式が行われ、同年8月1日に竣工する。この年が十干十二支の甲子年(きのえねのとし)から甲子の園(その)「甲子園球場」と命名された・・・
(右上がせき止められた廃川、左下が申川、右下が枝川)↓
同年第10回大会から使用を開始し、開設当時はまだ外野も土のままであり、スタンドは公称「5万人収容」で、グラウンドの内野にあたる部分のみが鉄筋コンクリート製(50段・高さ14.3m)で、アルプススタンド、外野スタンドは土盛りの上に20段の木造スタンドだった・・・
その後改装を重ね、三塁側アルプススタンド下の温水プール、室内練習場が完成。
1964年には球場名を甲子園球場から現在の「阪神甲子園球場」に変更。春/夏の高校野球は会を重ね、球史に残る名勝負を幾度も生み出し「高校野球の聖地」として、又、プロ野球の阪神タイガースのホームグランドとして今日に至っている・・・
↑(甲子園ホテル|竣工当時の絵はがきから出典)
http://ameblo.jp/arairyokan/entry-10947112540.html
そして球場完成後は、阪神電鉄によって周辺の開発が進められ、遊園地、動物園、水族館(この3つは甲子園娯楽場として後の阪神パーク)、総合競技場(甲子園南運動場)、テニスコート(甲子園庭球場、甲子園国際庭球場)、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられる。そして、鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部(現在の鳴尾GCコース)を含めた一帯は「阪神間モダニズム」を代表する一大レジャーゾーンとなっていく・・・
鳴尾ゴルフ倶楽部
日本最初のゴルフ場は1903年(明治36年)5月24日にイギリス人貿易商A.H. グルーム(Arthur Hesketh Groom)によって神戸市の六甲山上に造られ、当初は4ホールから、その後18ホール、パー61の「神戸ゴルフ倶楽部」の日本最古のゴルフ場で、それは六甲山の海抜850mにあり、当時は11月中旬から4月中旬は雪のためクローズする。その為グルームと親交のあった貿易商のウイリアム・J・ロビンソン(William John Robinson・右の写真)によって、1904年(明治37年)に神戸から東、大阪よりの魚崎町横屋に冬でもプレー出来る6ホールの、日本で2番目のゴルフ場「横屋ゴルフ・アソシエーション」が造られる。1914年(大正2年)には、それを大きくする為に、鳴尾競馬場駈歩コース跡を鈴木商店より借り、6ホールの日本最初の海浜コース「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」が出来上がる・・・
1920年(大正9年)鳴尾アソシエーションは解散し、その跡地に鈴木商店の社員ら有志38人と同社の英人A・E・クレーンらを中心に、新しい「鳴尾ゴルフ倶楽部」が結成され、1924年(大正13年)には18ホール、5,080ヤード、パー68、鳴尾のシーサイドとも云える日本初の本格ゴルフコースが完成する・・・
↑(当時のゴルフ風景:鳴尾ゴルフ倶楽部より出典)http://www.naruogc.or.jp/
1930年(昭和5年)には兵庫県川辺郡東谷村大字畦野(現在の川西市畦野)に「猪名川コース」が開場し、第二次世界大戦まじかの1939年(昭和14年)に鳴尾浜にあったシーサイド・コースは軍に接収され、1500坪余の高麗芝が「猪名川コース」に移植され鳴尾のシーサイドは閉場する。現在は猪名川に「社団法人 鳴尾ゴルフ倶楽部」として日本ゴルフの黎明期を今に伝えている・・・
阪神間モダニズム
1900年代から1930年代にかけての「阪神間モダニズム」は、日本の近代化で起こった阪神間の文化現象として、今は無き西本願寺二十二世門主・大谷光瑞が1908年(明治42年)岡本の山に総額16万円とも21万円(当時価格)とも云われる、山と水を愛でる「二楽荘」を頂点に・・・(二楽荘の写真)↓ →
旧山邑邸/滴翠美術館/白鶴美術館 /香雪美術館/甲南漬資料館/旧辰馬喜十郎邸 /旧住友家住吉本邸(住友財閥)/旧野村家住吉本邸(野村財閥)/旧伊藤邸(伊藤忠財閥)/甲子園ホテル/六甲山ホテルなどと、錚々たる邸宅や娯楽施設の西宮七園やホテル、公共施設の学校、病院など、現在も多数現存し、今日の芸術や文化、教育、娯楽、生活に多大な影響を与えた・・・
そしてその「阪神間モダニズム」が華ひらいた時代は・・・
世界では、パリのベル・エポック(Belle Époque:良き時代)から始まり第一次世界大戦終決後、1920年代のパリのモンパルナスを中心に毎晩、華やかな祝祭と酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返される「狂乱の時代/レ・ザネ・フォル: Les Années Folles」や、アメリカ合衆国の「狂騒の20年代:Roaring Twenties」とか「ジャズ・エイジ:Jazz Age」とも呼ばれ、日本ではそれらが混ざりあいながら、しかも少しずれて遅れながら、世界の特権的な列強先進国の共通の流れの中で生まれた。それはアール・ヌーヴォーに始まりアール・デコが頂点を迎え、1929年のウォール街の株暴落の世界恐慌でこの時代の終わりを告げる・・・
日本では、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)の第一次世界大戦を頂点として、戦争特需で日本中が好景気に沸き立ち国威の発揚に沸いた時代を迎えていた・・・
工業化が進み、鉄道網や汽船による海運が発達し、町や都市の基盤が形成され、マスメディアの発展は文化・情報の伝達を促進し、大衆向け書籍・雑誌の普及やカメラに録音や活動写真(映画)が出現する。
個人商店から会社制度へと、そして世界に向けて大規模化し「財閥」が出来、立身出世の野望や投機が進み「成金」と呼ばれる突然の富裕層が生まれ、「大正デモクラシー:民本主義」が台頭、近代化の流れの中で新しい時代の萌芽のモダニズムが生まれ、日本の近代グラフィック・デザインの草分け的な数多くの美人画を残している竹久夢二に代表される「大正浪漫」が出来上がり、西欧の「ロマン主義」の影響を受けながら、パリと同じ様に、あのロートレックやミュシャの、絵画かポスターかを行き来する様な文化媒体として、特に日本ではどこかけったるく、暗く、退廃的で虚無的な時代の様にも映る・・・
(竹久夢二 作「黒船屋」1919年)→
そしてより大衆化へ・・・
1917年(大正6年)雑誌「思潮」「主婦の友」創刊、1920年(大正9年)活動写真会社「松竹」「帝国キネマ」設立、1922年(大正11年)「週刊朝日」「サンデー毎日」「小学五年生・六年生:小学館」創刊、翌年の1923年(大正12年)「文藝春秋」創刊、大佛次郎「鞍馬天狗」の連載、1925年(大正14年)ラジオ放送開始・・・
そして鳴尾も・・・
1924年(大正13年)日本蓄音器商会(後の日本コロムビア)のディレクターだった森垣二郎が、ライジングサン石油の兵庫県総代理店として財を成した、義弟の松田文蔵に話を持ち掛け、合資会社内外蓄音器商会を兵庫県西宮市今津に設立しレコード試作に着手し、1925年(大正14年)に ナイガイレコードレーベルで新譜第一弾を発売。間もなく電気吹き込みにも対応し、歌謡曲・演芸中心の大衆迎合的なラインナップによって、関西有数のレコード会社へと急成長。1930年(昭和5年) 太平蓄音器として株式会社化、貝星印のタイヘイレコードのレーベルを用い、その後は日本マーキュリー レコードと名を変えて行く・・・
(内外蓄音器|太平蓄音器から出典)↑ →
http://zariganisan.web.fc2.com/spp/spp5.htm
大正の終わり頃に甲陽園に東亜キネマが出来たり、小説家・佐藤愛子が母親を題材にした「女優万里子」で、鳴尾西畑に住んでいた頃の三階建ての家の事を書いたり、そして酒屋の娘と番頭との悲恋物語を映画にした、林長二郎、今の長谷川一夫が酒屋の娘役の若水絹子と少し神戸よりの大関酒造辺りで京の太秦から撮影隊がやって来て撮影し、前進座の河原崎長十郎や中村翫右衛門、山田五十鈴に、昭和になると高峰三枝子、共演者は佐分利信と老舗の酒屋や酒蔵をロケーションに選び、戦後それらは宝塚映画へと受け継がれて行った・・・
米騒動・昭和金融恐慌
しかし一方では、別の大きな潮流が渦巻き暗い影を落とし始める・・・
1918年(大正7年)各地で高騰する米に、大阪朝日新聞は神戸の「鈴木商店」は米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃、俗に云う「米騒動」で、これにより鈴木商店は同年8月12日に焼き打ちされ「鈴木商店焼打ち事件」が起こる・・・
当時の鈴木商店は・・・
1874年(明治7年)に兵庫の弁天浜で鈴木岩治郎によって開業し、岩治郎の死去後、夫人の鈴木よねが、番頭のいつも鼠黒の服を着てネズミの様に走り回る、金子直吉が切り盛りしていた商店から、1914年(大正3年)の第一次世界大戦で物価は高騰するとよみ、世界中で投機的な買い付けを行い「この戦乱を利用して大儲けをなし、三井、三菱を圧倒するか、あるいはその二つと並んで天下を三分する」と述べ、日本最大の総合商社に発展する ・・・
← ↓(当時の鈴木商店本社・下は焼打ち後)
そして当時の財閥は、戦後のGHQによる財閥解体指令で十五大財閥と云われる中央財閥以外に、大阪・神戸周辺には中堅・零細の財閥が多数集中し阪神財閥と総称されるものがあり、その中でも中央財閥を圧倒する程に、全盛期の鈴木商店の売上げは16億円(日本の当時のGNPの約一割)で、その額は三井物産や三菱商事を遥かに上回っていた。しかし、第一次世界大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃がのきなみ下落し、借入金は膨らみ、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災と、その震災手形が膨大な不良債権となり、1927年(昭和2年)3月14日の衆議院予算委員会で片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化、中小銀行を中心として銀行の取り付け騒ぎが発生し、昭和金融恐慌が日本を襲う・・・
財閥の三井が三井銀行であり三菱が三菱銀行である様に台湾銀行=鈴木商店と云う図式の中で、台湾銀行と切っても切れない関係であって、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであり、台湾銀行も第二次世界大戦後に清算される程、機能不全に至っていて、当然融資は拒絶され、同年4月2日ついに鈴木商店は倒産する・・・
第一次整理案からは、全株式を所有していた分身会社は49社、過半数所有は16社、過半数以下は5社、その他関係会社12社。これら関係事業の総投資額は、約10億円。当時の日銀券発行額に匹敵していた・・・
よくご存知の会社は、日商岩井:現・双日、帝人、神戸製鋼、豊年精油、石川島播磨重工、日本製粉、アサヒビールなど、その後存続した関西系大手の多くがその配下に属していた・・・
この神戸の鈴木商店の倒産を境に大阪・神戸の阪神間にも暗い影を落とし始め、2年後の1929年にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落して始まった世界大恐慌で「阪神間モダニズム」と云われる華々しい文化は終焉し、その後、第一次世界大戦特需で膨れ上がった造船産業の軍艦などの戦争産業への転化、不況や倒産による余剰人数の軍隊への大量以降へと、国は大きく舵を切り、時代は日本の歴史的時代を表象する国号「大日本帝国」を生み、ついに戦争へ突入する・・・
そして鳴尾も戦争と云う時代にとっぷり浸かり、
鳴尾競馬場及び鳴尾ゴルフ倶楽部は軍に接収され、戦争と云う「十字路の滑走路」が出来上がる・・・
↓(以下、鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部にX型に造られた滑走路。前方は大阪湾の海、手前に甲子園球場が見える)
Naruo (Japanese NAVY) Airport, Nisinomiya City, Hyogo Prefecture
http://dansa.minim.ne.jp/a5611-1-NaruoNavyAP.htm
(以下・参考サイト)
甲子園大運動場、起工式は1924年3月11日/干支:甲子/大正13年
http://ja.wikipedia.org/wiki/阪神甲子園球場
http://hanshintigers.jp/game/koshien/
鳴尾運動場
阪神電鉄が休止中の鳴尾競馬場に運動場を作ったのは大正5(1916)年3月のことでした。翌6(1917)年より第3回全国中等学校野球大会(以後甲子園へ舞台が移る大正12〔1923〕年迄毎年)が開催されました・・・
http://info.leaf.or.jp/information/history_culture/item12.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/第1回全国中等学校優勝野球大会
大正生まれのスポーツイベント
高校野球第1回大会の始球式(「大阪朝日新聞」12054号 大正4年8月19日朝刊 【YB-3】)
http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu143.php
消えた球場(18)鳴尾
http://labola.jp/diary/9255426
http://ja.wikipedia.org/wiki/野球
http://ja.wikipedia.org/wiki/高校野球
http://ja.wikipedia.org/wiki/全国高等学校野球選手権大会
高校野球:朝日新聞デジタル|朝日新聞社の高校野球情報サイト
http://www.asahi.com/koshien/
甲子園 過去の戦績
http://www.asahi.com/koshien/stats/
http://ja.wikipedia.org/wiki/甲子
二楽荘
西本願寺二十二世門主・大谷光瑞が1908年(明治42年)に兵庫県武庫郡本山村(現・神戸市東灘区)の村有であった通称「岡本山」に「二楽」の山と水「山水を楽しみ、育英を楽しむ」として建設され、建築、地所、美術品一切を含んで総額16万円とも21万円(当時価格)とも云われ、1914年(大正3年)に閉鎖、1932年(昭和7年)不審火によって焼失する・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/二楽荘
甲子園ホテル/甲子園会館
兵庫県西宮市にある近代建築。フランク・ロイド・ライトの愛弟子遠藤新の設計により、1930年に甲子園ホテルとして竣工した。しかし太平洋戦争の激化によりホテルとして営業したのはわずか14年である。戦前は「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称される超一流ホテルだった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/甲子園会館
http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/
阪神間モダニズム
六甲山麓に花開いた文化、明治末期‐昭和15年の軌跡 [大型本]
大型本: 243ページ
出版社: 淡交社 (1997/10)
阪急沿線都市研究会編「ライフスタイルと都市文化:阪神間モダニズムの光と影」(1994年)や「阪神間モダニズム」展(1997年、兵庫県立近代美術館・西宮市大谷記念美術館・芦屋市立美術博物館・芦屋市谷崎潤一郎記念館の同時開催)などを機に使われるようになった地域文化史の概念である。明治維新から第二次世界大戦終結までの77年間に、近代化(戦前)過程で起こった、黎明期の文化現象が対象となる。なお、通常、戦後復興期や高度経済成長やバブル景気など(戦後)は除外される・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/阪神間モダニズム
鼠(ねずみ)鈴木商店焼打ち事件
城山 三郎 (著) 1975年
城山ノンフィクション文学の傑作
大正時代、大財閥と並ぶ栄華を誇った鈴木商店は、なぜ焼打ちされたのか? 流星のように現れ、昭和の恐慌に消えていった商社の盛衰・・・
大正年間、大財閥と並び称された鈴木商店は、米価急騰の黒幕とされ米騒動の焼打ちにあった。だが本当に鈴木は買占めを行ったのか? 丁寧な取材を経て浮かび上がる、一代で成長を遂げつつも、近代的ビジネスとの間で揺れながら世界恐慌の荒波に消えた企業の姿・・・
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167139322
http://www.amazon.co.jp/鼠(ねずみ)鈴木商店焼打ち事件-文春文庫-2-1-城山-三郎-ebook/dp/B009DECTF8/ref=kinw_dp_ke
タイヘイレコード(1924〜60年) 後の日本マーキュリー レコード
1924年(大正13年)8月10日 - 日本蓄音器商会(後の日本コロムビア)のディレクターだった森垣二郎が、ライジングサン石油の兵庫県総代理店として財を成した義弟の松田文藏に持ち掛け、合資會社内外蓄音器商會を兵庫県西宮市今津に設立し、レコード試作に着手・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/タイヘイレコード
日本マーキュリー今津山中町にあったレコード会社
http://nishinomiya.areablog.jp/blog/1000061451/p10738704c.html
日本で最初に発売された、チャーリー・パーカーの SP盤・・・
http://bird.parkerslegacy.com/j29/j29.html
http://zariganisan.web.fc2.com/spp/spp5.htm
内外蓄音器|太平蓄音器|幻のレコード (1993)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/record.html
http://mercuryjapan-public.sharepoint.com/会社紹介
鳴尾の歴史|社団法人 鳴尾ゴルフ倶楽部|オフィシャルサイト
http://www.naruogc.or.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/鳴尾ゴルフ倶楽部
鳴尾ゴルフ倶楽部
http://yoppadon.umu.cc/golfseiha00/392.htm
高須の変貌|環境学習都市・にしのみや|なぎさ街道
http://info.leaf.or.jp/information/history_culture/item12.html
第11回 鳴尾ゴルフクラブ|日本で5番目の歴史|田野辺薫の名コースめぐり
http://www.sakuragolf.co.jp/blog2/?p=151
横屋ゴルフ・アソシエーション|JGA 日本ゴルフ協会|2001 MARCH vol.65
ゴルフをこよなく愛したウィリアム・ジョン・ロビンソン・・・
http://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/vol65/2p.html
JGA 日本ゴルフ協会|特集ゴルフ場の100年|2001 MARCH vol.65
http://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/vol65/1p.html
http://www.jga.or.jp/jga/html/museum/100year/person6.html
Better Half's Diary(エバゴルフ・ブログ)
http://blog.eva-golf.com/?month=200905
三田村昌鳳のゴルフライブラリー
http://www.151a.com/databox/golf100/main.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/大正デモクラシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/大正ロマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹久夢二
神戸市文書館 神戸歴史年表
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/meizi.htm
「近代神戸の足跡」鈴木商店と関連産業|神戸大学附属図書館
http://lib.kobe-u.ac.jp/www/html/tenjikai/2005tenjikai/catalog/suzuki.html
昭和~阪神間モダニズム
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55416441.html
西宮ライブラリー・見どころプロムナード
http://nishinomiya-style.jp/201104promenade/
阪神間モダニズム
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-ef65.html
西宮七園は、 甲子園、昭和園、甲風園、 甲東園、甲陽園、苦楽園、香櫨園の七つから成る。 いずれも大正から昭和初期にかけて・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/西宮七園
「関西文学」編集長 河内 厚郎さん | 西宮流(にしのみやスタイル)
今津山中町に日本マーキュリー レコードがあって、西田佐知子もレコーディングに来てましたよ・・・
http://nishinomiya-style.jp/who/0704kawauchi/page2.html
[PDF]京都・大阪・神戸・西宮 まち歩きラリー |- 関西あそ歩ぼ-
https://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/90
兵庫県出身の著名人-作家・芸術家・政治家 - 兵庫まんぷく事典 -
http://www.hyogonet.com/drama/chomei02.html
宝塚映画の歴史
http://www.konan-cdc.jp/project_hanshin/takaradukamovie.pdf
佐藤 愛子は、大阪市出身の小説家。
小説家の佐藤紅緑、女優の三笠万里子の次女として生まれる。甲南高等女学校(現・甲南女子高等学校)卒業・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤愛子_(作家)
佐藤愛子は昭和の初め鳴尾村に住んでいましたが・・・
http://nishinomiya.areablog.jp/page.asp?idx=1000061501&category_idx_sel=10087225
http://ja.wikipedia.org/wiki/長谷川一夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/山田五十鈴
http://ja.wikipedia.org/wiki/高峰三枝子
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐分利信
http://ja.wikipedia.org/wiki/河原崎長十郎_(4代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/中村翫右衛門_(3代目)
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