「又兵衛桜」のゆく春
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樹齢300年余の桜の老木が春の息吹に静かに目を覚まし、戦国の世の遥かな春を詠う・・・
場所は奈良県の宇陀市大宇陀の、樹齢300年とも伝わる本郷の瀧桜の古木。
豊臣家崩壊後、後藤又兵衛はこの地で暮らし、再興の時期を待ったと伝えられ、当時の後藤家屋敷跡に、その桜は静かに時を重ね、この地の人はこの瀧桜を...「又兵衛桜」と呼んでいる・・・
又兵衛桜|奈良県宇陀市大宇陀本郷|本郷の瀧桜|Google マップ(2014年4月11日撮影)
「又兵衛桜」(またべえざくら)
奈良県宇陀市大宇陀本郷(旧大宇陀町域)にある、樹齢300年とも伝わる桜の古木。豊臣家崩壊後、後藤基次は大宇陀(現 奈良県宇陀市)の地で暮らし、再興の時期を待ったと伝わるが、桜はその時の後藤家屋敷跡にある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/又兵衛桜
大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから地元では「又兵衛桜」と呼ばれて親しまれている。
NHK大河ドラマにこの映像が使用されたことから花見客で賑わう・・・
場 所:宇陀市大宇陀本郷
種 別:しだれ桜
樹 齢:300年(推定)
幹 周:3m超
樹 高:13m
http://www.city.uda.nara.jp/sin-kankou/
guide/flower/f01.html
今年も、この山里を静かに通り過ぎ、
田畑からは初夏の爽やかな風が吹き始めていた・・・
(以下・参考サイト)
又兵衛桜(またべえざくら)は、奈良県宇陀市大宇陀本郷(旧大宇陀町域)にある、樹齢300年とも伝わる桜の古木。 ... 豊臣家崩壊後、後藤基次は大宇陀(現 奈良県宇陀市) の地で暮らし、再興の時期を待ったと伝わるが、桜はその時の後藤家屋敷跡にある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/又兵衛桜
又兵衛桜|春日野奈良観光
又兵衛桜は宇陀市にあるのですが、ここ宇陀という地名は万葉集にもよく登場します。 特に柿本人麻呂の読んだ「東の野にかぎろひの立つ見へて返り見すれば月傾きぬ」歌はあまりにも有名で、このかぎろひを見た場所(推定)がかぎろひの丘 ...
http://www.kasugano.com/kankou/spring/matabee.html
大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡にあることから地元では「又兵衛桜」と呼ばれて親しまれている。桜の後ろの桃の花とのコントラストが鮮やかで、古くより一部の写真家に愛され、NHK大河ドラマにこの映像が使用されたことから花見客で賑わう・・・
宇陀市観光サイト|観光案内|花|又兵衛桜
http://www.city.uda.nara.jp/sin-kankou/guide/flower/f01.html
奈良県の本郷の瀧桜(又兵衛桜)の桜情報2014年版
http://www.jorudan.co.jp/sp/hanami/spot_343.html
後藤 又兵衛(ごとう またべえ)
<出生>
後藤 基次(ごとう もとつぐ) 永禄3年4月10日(1560年5月5日)〜慶長20年5月6日(1615年6月2日?)
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた・・・
主君:黒田孝高(黒田 官兵衛)→仙石秀久→黒田長政→豊臣秀頼
<黒田家出奔後>
如水(孝高、黒田 官兵衛の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで全国の大名(福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康など)[要出典]から召し出しがかかる。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、長政が基次への「奉公構」という措置を取って干渉していたため、慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる。
<大坂の役>
慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。
<生存説>
上述の通り、定説では大坂夏の陣で討死したことになっているが、この戦役を生き延びたという伝説が各地に残っている・・・
墓所:奈良県大宇陀町の薬師寺
大阪府柏原市の玉手山公園
愛媛県伊予市の長泉寺
大分県中津市(旧耶馬溪町)
鳥取県鳥取市の景福寺他
http://ja.wikipedia.org/wiki/後藤基次
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