「天才たちの恋人」アルマ・マーラー
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世紀末ウィーンで交響曲や歌曲の大家グスタフ・マーラーとの結婚、その後バウハウス創始者でドイツのモダニズムを代表する建築家ヴァルター・グロピウスと、そしてオーストリアの小説家フランツ・ヴェルフェルと、時代を創りあげた天才たちとの三度の結婚・・・
そして、グスタフ・クリムトとも深い仲と囁かれ、オスカー・ココシュカとの3年に及ぶ恋を通して、人々から「天才たちの恋人」と云われてきたミューズは、魅力的が故に多くの男性を失意で破滅させるファム・ファタール(魔性の悪女)とも云われ、1964年アメリカのニューヨークで85年の生涯を終えている。そのアルマは、はたして天才たちにとってミューズ(女神)なのか?それともファム・ファタール(悪女)だったのだろうか?・・・
1879年、画家エミール・ヤーコプ・シンドラー(英名:1842年〜 1892年)の娘としてウィーンに生まれたアルマは、13歳のときに父が亡くなり、母は父の弟子のカール・モル(英名:1861年〜1945年)と再婚する。彼女は実父を愛した反面、養父は愛せず、母親は芸術家サロンの主宰者であり、裕福な中流の家でアルマは青春期を迎える。当時、進歩と退廃が繰り返され、人々は享楽と官能に身を任せ、女たちは怪しく輝く世紀末のウィーンでアルマは美しくも可憐な華と呼ばれた17歳(1896年)を迎えていた・・・
当時、35歳のグスタフ・クリムトは、ドイツ語圏世紀末芸術の中心地ミュンヘンで生まれたユーゲントシュティール (Jugendstil)の華麗な装飾や絵画で時代に登場し、1894年にウィーン大学大講堂の天井画の制作の論争後、1897年に「ウィーン分離派:Wiener Secession」を結成し自ら初代会長を務め古典的、伝統的な美術からの分離を標榜しモダンデザインの成立に大きな役割を果たし始め、世紀末ウィーンの時代を背景に、題材も後の「ユディトI」(1901年)や「接吻」(1908年)などを生む女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマへと移行していた。そんなクリムトにアルマは胸をときめかせ、クリムトもまた一家の休暇先イタリアにまで彼女を追いかけるが、モデルか愛人か恋人かもわからないクリムトの幾人もの女性関係に、継父と母は娘の危ない恋に終止符を打たせる・・・
↑(1899年頃のアルマ・マーラー)
←(1907年頃のグスタフ・マーラー)
当時のオーストリア帝国ボヘミア・イーグラウに酒造業を創業し経営していたユダヤ人社会の実業家に生まれたグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は、 ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)卒業後、交響曲第1番ニ長調「巨人」(1884〜1888)をはじめ多くの交響曲や管弦楽、オペラ、編曲などを作曲し、幾つもの劇場の楽長を務め、1897年(37歳)ウィーン宮廷歌劇場第一楽長、芸術監督へ、1898年(38歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮者へ、交響曲と歌曲の大家として時代の階段を登っていた・・・
アルマも、その美貌で多くの男性芸術家をとりこにし絵画、文学、哲学を学び、メゾ・ソプラノの声でワーグナーの曲を歌いツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残すほど作曲に才能を発揮している。
そして1900年にアルマは20歳も年上のグスタフ・マーラーと晩餐会で知り合い、2年後の1902年にマーラーの熱烈な求愛のもとで二人は結婚する。マーラー(42歳)、アルマ(23歳)・・・・
同年1902年、長女マリア・アンナ、1903年に次女アンナ・ユスティーネを出産する。順風満帆な結婚生活もウィーン育ちの都会っ子アルマに対し、マーラーの田舎育ちやユダヤ人などの環境の違いや、多額の借金、年齢差などから徐々に確執が生まれ始める・・・
その頃、アルマは1910年、保養先で26歳の青年建築家ヴァルター・グロピウスと出会い激しい恋に落ちる。それを知ったマーラーは、世紀末の創造さえ難しい混迷する時代のなかでの作曲活動と妻の浮気に苦しみながら、精神分析学を完成させた精神科医ジークムント・フロイトの治療を受け、神経症状に悩まされ強迫症状などの改善をころみながらも、1911年に持病の扁桃炎(へんとうえん)から高熱を出し敗血症で50年の短い生涯を終え、ウィーンのグリンツィング墓地に眠る・・・アルマ31歳。
1880年代のヨーロッパは・・・
次の時代の流れとなる第二次産業革命が浸透し、自然科学の多くの発見が続き、汽車や汽船、自動車の改良や動力飛行機の登場、電信・電話の実用化などなど、技術革新は鉄鋼・電気・化学工業のめざましい発展をもたらし、都市は急速に膨張し、社会はめざましい変化にさらされ、各国が大胆な首都改造に乗り出すとともに、それは或る時代の終わり「世紀末」を予兆する。
そして、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンも・・・
中世から近世にかけての市壁によって「都市の自由」を守る時代はすでに終わりを告げ、皇帝フランツ・ヨーゼフはウィーン市の環状大通りの市壁にリング・シュトラーセを作る「リング計画」を発足し、計画の工事とともに周辺市街地の開発に、劇場や商業空間の建築ラッシュの中、ウィーンは世紀末の賑わいを見せ、1873年には装いを新たにしたウィーンにおいて万国博覧会が開催されている・・・
美の時代も、19世紀末のヨーロッパの時代思潮を指す「世紀末」を通過する・・・
その言葉は、1886年にパリで上演された風俗喜劇「Fin de siècle:世紀の終わり」の題から「世紀末」と呼ばれヨーロッパの主要都市を中心に流行し、ひとつの時代の転換期に生まれる終末の予兆を指す「終末観」や死やエロスにこだわる「退廃/デカダンス」や神話をも飲み込んだ「象徴主義」、一方でリアリズムを標榜する印象派に、フランスでは「アール・ヌーヴォー:新しい芸術」イギリスでは「モダン・スタイル:近代様式」ドイツでは「ユーゲント・シュティール:青春様式」の新たなる美の創生の動きへと、時代はどう動くのか混迷に混迷を繰り返し、ウィーンでも赤裸々で官能的なテーマを描くグスタフ・クリムトや倫理的に避けられていた裸体や性を描くエーゴン・シーレが登場し、進歩と退廃のなかで人々は享楽と官能に身を任せ怪しく輝くウィーン世紀末絵画はその全貌を見せる・・・
マーラーの死の1年後の1912年、32歳の未亡人アルマは、当時新進気鋭の25歳のオーストリア人画家オスカー・ココシュカに肖像画を依頼する・・・
"Portrait of Alma Mahler" 油彩|キャンバス|1912年| 国立近代美術館蔵|The National Museum of Modern Art,Tokyo, Japan オスカー・ココシュカ:Oskar Kokoschka(1886年〜1980年) |
その肖像画の制作で2人は恋に落ち・・・
"Two Nudes (Lovers) " 油彩|キャンバス|1913年 ボストン近代美術館蔵|Museum of Fine Arts, Boston オスカー・ココシュカ:Oskar Kokoschka(1886年〜1980年) |
3年に及ぶ恋はココシュカの代表作を生み出し「風の花嫁」はその頂点で描かれている・・・
「風の花嫁」 "Bride of the Wind" 油彩|キャンバス|1914年|181x220cm バーゼル市立美術館蔵|Basler Kunstmuseum|Basel, Switzerland オスカー・ココシュカ:Oskar Kokoschka(1886年〜1980年) |
そしてもう一人の恋人ヴァルター・グロピウス・・・
モダニズム建築で、後に近代建築の巨匠と呼ばれるヴァルター・グロピウスとは、マーラーの生前から不倫関係が続き、その後一度別れて又よりを戻し、ついにアルマはココシュカとの3年に及ぶ恋を終わらせ、1915年グロピウスとベルリンで内密に結婚。アルマ36歳・・・
捨てられたココシュカは絶望のあげく第一次大戦が始まると死に場所を求めて志願し戦地へと赴く・・・
1914年オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機にヨーロッパは2つの陣営に分かれ第一次世界大戦が勃発し、1914年から1918年にかけて足かけ5年にわたった戦争は900万人以上の兵士が戦死。そしてその最中の1916年に650年間、中欧に君臨した「ハプスブルク家」のオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、1917年にはロシア革命で300年続いたロシアのロマノフ王朝は幕を閉じ、第一次世界大戦は1919年連合国勝利のパリ講和会議で終決する。
そして大戦前後に米国のデトロイトやサウスカロライナ州付近で発生し全世界に流行した風邪は、情報がスペイン発であったために「スペイン風邪」と呼ばれ、全世界で感染者6億人、死者4,000~5,000万人にも及んだ。パリでは詩人のギヨーム・アポリネールを無くし、そしてそれはウイーン画壇をも襲い、その年の1918年にグスタフ・クリムトやエーゴン・シーレの近代絵画の巨匠達をこのスペイン風邪で失う。そして戦後ドイツでも大公の統治が終わり、ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和国が成立し時代もまた大きく変わり始める・・・
戦後の1919年、ドイツのヴァイマルに国立バウハウスが開校し、グロピウスは初代校長となり、現代のモダンデザインの祖として造形教育の場が生まれる。1911年の「ファグスの靴型工場」の初期モダニズム建築から1923年には「ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア」や1926年の「デッサウの校舎」著書「国際建築」を出版し、モダニズム建築を完成させ、世界中に知られるようになった。
しかし、ナチスドイツのヒトラーは、ナチズム(選民思想)を旗印にオーストリア併合、チェコスロバキア、ポーランドなどの周辺諸国をあいついで占領しはじめ、ヨーロッパ全土に第二次世界大戦の影が忍び寄る。やがてヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転。デッサウ市立バウハウスとなり、そしてついに、1933年ナチスによりに閉校されわずか14年間でその幕を下ろした・・・
←(ヴァルター・グロピウス)
(フランツ・ヴェルフェル)↓
アルマは、プラハ出身のユダヤ人で11歳年下の新進作家、フランツ・ヴェルフェルを愛人にし、1929年に、アルマとグロピウスの結婚は破綻する。
その年、49歳のアルマはヴェルフェルと3度目の結婚をし、第二次世界大戦に突入するナチスのオーストリア併合後、アルマはユダヤ人の夫ヴェルフェルとウィーンからロンドンを経てフランスに亡命、1941年に小説「ベルナデットの歌:Das Lied von Bernadette」を発表し、これが1943年に「聖少女」としてハリウッドで映画化され大ヒットし一躍人気作家になった。
翌年の1942年、独仏開戦とともにフランスも危険となり、マルセイユを経由しアメリカに再亡命し南カリフォルニアにたどり着く。しかし間もなく第3の夫ヴェルフェルも最後の劇作「ヤコボウスキと大佐:Jacobowsky und der Oberst」を執筆後、1945年にロサンゼルスで急死する。55歳・・・
そしてアルマは、夫ヴェルフェルの死後、第二次世界大戦後が終わった1947年、ニュー・ヨークに移り住み、後の世に「天才たちの恋人」と云われ、その生涯においてマーラーには交響曲を、グロピウスにはモダニズム建築を、そしてヴェルフェルには小説を創出させ、3人の天才達を通して時代の頂点を遥かに超えた彼女も、1964年、華麗な男性遍歴と自ら作曲した16の歌曲を残し85年の生涯をとじた・・・
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アルマ・マーラーが世紀末ウィーンの華と呼ばれ、生涯社交界に君臨し続けるには、
ありとあらゆるコネクションは勿論の事、
人には語れない程の手練手管(てれんてくだ)を使い時代を泳ぎ切ったに違いない。
ミューズ(女神)か?ファム・ファタール(悪女)かを論ずるより・・・
それは、3番目の夫、作家ヴェルフェルが語った見事な言葉が残っている、
「彼女は、この世ではめったにお目にかかれない本物の魔術師だ・・・」
アルマ・マリア・マーラー=ヴェルフェル:Alma Maria Mahler-Werfel,1879年〜1964年
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(以下・参考サイト)
アルマ・マリア・マーラー=ヴェルフェル(Alma Maria Mahler-Werfel, 1879年8月31日 – 1964年12月11日)は、オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの妻。結婚前の姓はシンドラー(Schindler)。自身も作曲を行い、16の歌曲が今日に残されている。華麗な男性遍歴で知られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルマ・マーラー
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、ウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー
ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日 - 1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。
近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァルター・グロピウス
フランツ・ヴェルフェル(Franz Werfel, 1890年9月10日 - 1945年8月26日)は、オーストリアの小説家、劇作家、詩人である。グスタフ・マーラーの未亡人アルマの最後の結婚相手としても知られる。1920年代にはジュゼッペ・ヴェルディの多くのオペラをドイツ語に翻訳し、ドイツ語圏におけるヴェルディ・ブーム、いわゆる「ヴェルディ・ルネサンス」に貢献した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・ヴェルフェル
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862年7月14日 - 1918年2月6日)は、帝政オーストリアの画家。
女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロスと同時に、常に死の香りが感じられる(若い娘の遺体を描いた作品もある)。また、「ファム・ファタル」(宿命の女)というのも多用されたテーマである。『接吻』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出している。(琳派の影響も指摘される)
http://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・クリムト
エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアの画家。エーゴン・シーレとも。
当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求した。強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多数製作し、見る者に直感的な衝撃を与えるという作風から表現主義の分野に置いて論じられる場合が多い ・・・
1918年、大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開・・・
大戦前後に流行していたスペイン風邪がウイーンをも襲い、膨大な死者が発生した。妻エーディトがスペイン風邪にかかり、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エゴン・シーレ
オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886年3月1日 - 1980年2月22日)は、20世紀のオーストリアの画家。
クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人である。表現主義に分類されることが多いが、ココシュカはウィーン分離派、「青騎士」、「ブリュッケ」などの当時の芸術運動やグループには参加せず、終始独自の道を歩んだ。
ココシュカは作曲家グスタフ・マーラーの未亡人、アルマ・マーラーと恋愛関係にあり、1913年にはアルマとともにイタリアへ旅行している。ココシュカのもっとも有名な作品の一つである『風の花嫁』(1913年)はアルマとともにいる画家自身を描いたものである。
その後ココシュカは第一次世界大戦に従軍。アルマは1915年に別の男性と結婚して、2人の関係はあっけなく終止符を打った。大戦で頭部に傷を負ったココシュカは、しばらくは戦争と失恋の傷から癒えることがなかった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/オスカー・ココシュカ
世紀末(せいきまつ)とは、一つの世紀の終わりの時期、世紀の末のことである。当然、どのような紀元の暦法であれ「世紀末」は存在するが、日本語では特に断りがなければ西暦の世紀末を指すのが一般的である。歴史的には、19世紀末の西洋文化思潮(Fin de siècle)を指す語として用いられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/世紀末
世紀末芸術(せいきまつげいじゅつ)は、1890年代から20世紀初頭にかけて、おもに ヨーロッパの都市を中心に流行した諸芸術の ... ウィーンでは、グスタフ・クリムトの描く 官能的で退廃的な絵画が話題をさらい、オットー・ワーグナーの建築はその機能美が 注目を ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/世紀末芸術
アルマの履歴
http://classic007.web.fc2.com/mahler/alma_room/career.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミューズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファム・ファタール
グスタフ・クリムトの生誕150周年に沸くウィーン
http://allabout.co.jp/gm/gc/395643/
http://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラーの作品一覧
マーラーの生涯
http://kcpo.jp/legacy/32nd/Mahler/Mahler-1.html
ジークムント・フロイト(ドイツ語: Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者、精神科医。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジークムント・フロイト
Two Nudes (Lovers) - Oskar Kokoschka
http://www.alma-mahler.at/engl/almas_life/almas_life2.html
http://www.wikiart.org/en/search/v/675
http://www.wikiart.org/en/search/v/676
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユーゲント・シュティール
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィーン分離派
足立区綾瀬美術館 annex|ココシュカ「アルマ・マーラーの肖像」
http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-219.html
《風の花嫁》オスカー・ココシュカ 1914 年
http://ja.wikipedia.org/wiki/バーゼル市立美術館
http://traveler.co-blog.jp/sarai/75620
オスカー ・ ココシュカ作《風の花嫁》考
http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/119/119-21.pdf
ヨーロッパ文学散歩 (by 西田理一郎)
発行者・制作プロデュース 西田理一郎 / 著書 西田英樹
「風の花嫁」──ココシュカの恋
http://nishidahideki.blogspot.jp/2013/05/blog-post_4960.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/オーストリア=ハンガリー帝国
http://ja.wikipedia.org/wiki/リングシュトラーセ
http://ja.wikipedia.org/wiki/サラエボ事件
バウハウス(Bauhaus, バオハオスとも)は、1919年、ドイツ・ヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた(モダニズム建築、20世紀美術の項を参照)。
バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味する。中世の建築職人組合であるバウヒュッテ (Bauhütte, 建築の小屋) という語をグロピウスが現代風に表現したものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/バウハウス
http://ja.wikipedia.org/wiki/普仏戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次世界大戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/第二次世界大戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/アドルフ・ヒトラー
http://ja.wikipedia.org/wiki/スペインかぜ
扁桃炎(へんとうえん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/扁桃炎
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