キヨッソーネの "Giappone"
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この国において、幕末から開国へ舵を切った明治の日本は、近代国家としての殖産興業を興し近代産業化をめざして西洋人を様々な分野の顧問に、教師、技師などとして雇い入れて、当時それらは一般に「お雇い外国人(おやといがいこくじん)」と呼ばれている。
1868年(明治元年)〜1889年(明治22年)までに日本の公及び私的機関や個人が雇用した「お雇い外国人」は2,690人が確認され、1898年(明治31年)頃までにはもう少し増えて、イギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人…となっている。
そのなかには美術史に登場する、岡倉 天心などと日本美術を再評価したアメリカの東洋美術史家のアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)や、特にご存知のギリシャ生まれのパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)/日本名「小泉 八雲」のように、怪談"Kwaidan"の「耳なし芳一」や「ろくろ首」「雪女」など、日本の文化を掘り起こし日本に骨を埋めた人も多い・・・
そしてこの国が明治維新を通り8年が過ぎた1875年(明治8年)、イタリアはジェノヴァ近郊アレンツァーノ出身のエドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone:1833年:天保3年〜1898年:明治31年)が、"Giappone=日本"の明治政府大蔵省紙幣寮の招きで紙幣印刷やその技術を教え、この国に近代的な兌換紙幣が成立し、紙幣以外にも、切手、証券証書など本格的な精度の高い印刷技術が根付いていった・・・
アレンツァーノ|ジェノヴァ|イタリア|Googleマップ
ちなみにその当時のお雇いイタリア人を見てみると・・・
1876年(明治9年)に日本で開校した工部大学校のお雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した、洋画家のアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)や、シチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれの彫刻家ビンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)も、同じ年の1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し・・・
(フォンタネージ画「建築物写生方式」1913年/18.3×23.7cm)↑
(ラグーザ作「日本婦人」1880年頃/高さ62.0cm)→
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1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたり日本人と結婚。妻は江戸芝新堀生まれで、後に「ラグーザお玉」と呼ばれた画家の清原多代(エレオノーラ・ラグーザ)で、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となり、お玉はラグーザ死去後に帰国し日本人初の女性洋画家となっている。それは、明治の開国後、半世紀余を文明や文化が国境を越え往来した事になる・・・
で、エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone)は・・・
1833年(天保3年)イタリアのジェノヴァで代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれ、14歳からリグーリア美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業し特別賞を受賞し教授となる。その後紙幣造りにイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向、1875年(明治8年)にはイギリスの印刷会社に勤めていたのを、外国に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ、偽造などの安全性に問題があるとして、国産化の為に技術指導の出来る人材を求めていた大隈重信が、当時のお金で月額454円71銭8厘という破格の条件で招聘する。キヨッソーネ42歳・・・
(ちなみに、1871年(明治3年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円、フェノロサ,クラークは300円で、明治25年頃の銀行員の初任給の月俸35円、上級公務員の初任給の月俸50円、国会議員の月俸67円…/明治時代の前半で1円=現在の2万円位、後半は1円=現在の1万円位)
(明治通宝紙幣と交換するため、1881年(明治14年)2月から発行され、1899年(明治32年)に廃止されるまで用いられた)
図案製作者はイタリア人のエドアルド・キヨッソーネ
来日後は大蔵省紙幣局(現・国立印刷局)の指導と、印紙や政府証券などの日本の紙幣・切手印刷を教え、次の世代を担う若者たちの美術教育をおこない、奉職中の16年間にはキヨッソーネが版を彫った紙幣はもとより郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債など500点を超えた・・・
↑ (小判切手とキヨッソーネ/郵便切手の歩みシリーズ) 1994年
キヨッソーネによる西郷隆盛像と明治天皇のコンテ画(明治21年)↓ →
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1888年(明治21年)に宮内省の依頼で明治天皇の肖像画を製作、当時のギャラは2,500円と云われている。また元勲や皇族の肖像画も残し、西郷隆盛の肖像については西郷従道と大山巌をモデルにイメージを合成して作り、藤原鎌足や神功皇后の肖像も描かれ、彼が培った誰にもまねの出来ない個性とも云える技術が総てに刻まれている・・・
当時の明治期に見る「お雇い外国人」と云われる、キヨッソーネのような高度の文明や文化を持ちうるインテリジェントの高い人たちは古今東西に存在し、当然コスモポリタン(Cosmopolitan)であり国を持たないほどの国際的叡智人?であり、その叡智を持って、むしろ国や民の何がしかの未来を線引きする側の人種である。そして当然ある種の技をもって未来への統治ごときが出来るのは、そこに人々を導き、驚きや感動、卓越した創造を生み与え、未来の方向を正しく示せるが故に、当然、国と云うくくりから離れ地球上の民の上に存在する。不思議にもそんな国際的叡智人?によって時代は創り変えられ、今も昔もずっとこの地球を未来へと、くるりと時代を廻している・・・
紙幣や有価証券に至っては国の心臓部であり、仮にも外国で偽造されれば国そのものを滅ぼしてしまう。その図柄や制作過程に印刷方法、それら総て知っている以上「おそらく、生きてイタリアに帰る事は出来ないだろう?」と、ましてや、彼の莫大な収入や資産の円を当時ではイタリアのリラ(Lira italiana)に変換する事はおそらく出来なかったに違いない?・・・
(大黒天が描かれていることから「大黒札」と呼ばれ、発行から120年以上経た現在も有効である)
図案製作者はイタリア人のエドアルド・キヨッソーネ
(表面には日本語で、裏面には英語で兌換文言が書かれている)
図案製作者はイタリア人のエドアルド・キヨッソーネ
雇用期間が終了した1891年(明治24年)に、退職金3,000円と年額1,200円の終身年金、更に勲三等瑞宝章を与えられ、彼の莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品の購入と寄付に当てられたという。
キヨッソーネが収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして大仏像、甲冑、絵画、陶器など15,000点余りにのぼり、遺言によって死後イタリアに送られ、
現在はジェノヴァ市立のキヨッソーネ東洋美術館に収蔵されている。
そして、彼は最期まで日本に留まり、1898年(明治31年)東京・麹町の自宅で逝去、
青山霊園に葬られ65年の生涯を終えた。
独身を通し(内縁関係にあった日本人女性がいたといわれる)、
遺言で遺産の3,000円(現在の約6億円/明治時代の1円=現在の2万円)は残された召使が分配したという・・・
はたして、キヨッソーネの"Giappone"は、本当に「日本」足り得たのだろうか?・・・
(1833年:天保3年〜1898年:明治31年)
(以下・参考サイト)
キヨッソーネ東洋美術館
(Museo d'Arte Orientale Edoardo Chiossone)
イタリアのジェノヴァ市にある東洋美術を主とする美術館である。ジェノヴァ東洋美術館とも表記される・・・
ジェノヴァ市はキヨッソーネの遺言に従って、コレクションを恒久的に保存するのにふさわしい建物の設計・建設を審議した。その結果、建設予定地はヴィレッタ・デイ・ネグロ公園内に決定、1953年に建設に着工をし、1970年に完成している。
そして、翌1971年5月7日に開館、以来、広く一般に公開されている。自らが銅版画家であった彼の日本美術品コレクションは約15,000点以上にのぼり、浮世絵版画3,269点、肉筆浮世絵286点余りのほか、大仏像、甲冑、絵画、陶器など多岐にわたる...
http://ja.wikipedia.org/wiki/キヨッソーネ東洋美術館
http://it.wikipedia.org/wiki/Museo_d'arte_
orientale_Edoardo_Chiossone
http://www.museidigenova.it/spip.php?rubrique28
キヨッソーネ東洋美術館|ジェノヴァ|Googleマップ
エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone , 1833年1月21日 - 1898年4月11日)はイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった。
キヨッソーネはイタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)で代々製版・印刷業を営んでいた家系に生まれる。14歳からリグーリア美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となった。1867年開催のパリ万国博覧会に出品した銅版画は銀賞を受賞している。その後紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造していたドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社に1868年に出向した。当時ドンドルフ・ナウマン社は日本の明治政府が発注した政府紙幣(明治通宝)を製造しており、彼も製造に関わっていた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/エドアルド・キヨッソーネ
お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/お雇い外国人
アントニオ・フォンタネージ
(Antonio Fontanesi 1818年2月23日 - 1882年4月17日)
1876年(明治9年)に日本で開校した工部大学校のお雇い外国人教師で、日本人に洋画を指導した。イタリア北部のレッジョ・エミリアに生まれる。市立の美術学校で古典的な風景画を学び、舞台背景や壁画装飾を手がける。1848年のイタリア独立戦争にも従軍したが、戦後にはスイスをはじめとしてヨーロッパ各地を放浪し、1855年にはフランスのパリに赴き、バルビゾン派の影響を受ける。また、オーギュスト・ラヴィエらリヨン派の画家とも交流を深め、ロマン主義的な作風が完成した・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アントニオ・フォンタネージ
ヴィンチェンツォ・ラグーザ
(Vincenzo Ragusa, 1841年7月8日-1927年3月13日)
イタリアの彫刻家。シチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれた。1872年、ミラノで開かれた全イタリア美術展に石膏作品「装飾暖炉」を出品、最高賞である「ウンベルト殿下賞」に輝いた。1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたった。妻は、江戸芝新堀生まれで画家の清原多代(ラグーザ玉、エレオノーラ・ラグーザ)である。離日後、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィンチェンツォ・ラグーザ
ラグーザ・玉
(-たま、1861年7月17日(文久元年6月10日)-1939年(昭和14年)4月6日)
日本の女性画家。旧姓清原、幼名多代。ラグーザお玉とも表記される。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ(Eleonora Ragusa)。1861年7月17日(文久元年6月10日)、江戸に生まれた。若い頃から「エイシュウ」という人に師事したといわれ日本画、西洋画を学んだ。1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けた。1880年にヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡行し、1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務め、お玉はラグーザ死去後に日本に帰った。・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ラグーザ玉
http://ja.wikipedia.org/wiki/シチリア島
http://ja.wikipedia.org/wiki/パレルモ
ラグーサ・玉・清原玉
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Kiyohara_Tama?uselang=ja
http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/1004.html
http://siciliana.exblog.jp/6141919/
http://ricamo.cocolog-nifty.com/hoinotudoi/2008/07/post_567d.html
http://jin3.jp/otera/chougenji.htm
http://homepage2.nifty.com/i-museum/19430328suwa/2500ragusa-tama.htm
http://kotobank.jp/word/ラグーザ玉
http://karima-ism.jugem.jp/?eid=368
紙幣(しへい)とは、広義には、公的権力(主に国家)により通貨として強制通用することが認められている紙片である。政府の発行する政府紙幣(Print money)と銀行(中央銀行など)の発行する銀行券(Bank note)があるが、狭義には前者のみを指す。特定地域だけで通用する地域紙幣(地域通貨)が発行されることもある。現在の多くの国では中央銀行の発行する銀行券が一般的であるが、シンガポールなど政府紙幣を発行している国もある。現在多くの先進国の中央銀行が完全な国家機関ではなく、民間企業の投資などで出来ていることから、中央銀行のありかたを疑問視する考え方が最近世界中で起きている。そのため代替案としての政府紙幣、地域通貨なども再び脚光を浴びはじめている。
現在の日本では、政府紙幣は存在しないが、日本銀行が開業するまでは政府紙幣が発行されたほか、大正時代や昭和時代には小額銀貨の代用としての銭単位の低額の政府紙幣が発行されたこともある。法令用語としての「紙幣」はもっぱら政府紙幣を指し、銀行券は含まないが、日常用語としては、日本銀行券を指して紙幣と呼ぶ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/紙幣
政府紙幣(せいふしへい)とは、政府が直接発行し通貨としての通用力が与えられた紙幣のことである。中央銀行の発行する銀行券と同じ法定通貨としての価値を持つ。近年、不況対策として導入をめぐってさまざまな議論を呼んでいる。
多くの国では、政府管轄の印刷局(日本は国立印刷局)や印刷会社で製造した紙幣をいったん中央銀行に交付して、中央銀行が銀行券として流通させることが一般的であるが、現在でも一部の国では、政府機関が直接紙幣を発行している場合がある[1]。たとえばシンガポールの通貨シンガポールドルはシンガポール金融管理局が発行と管理を行っているが、これは中央銀行の業務を政府自ら行っているといえる。
中華人民共和国の香港特別行政区の法定通貨である香港ドルは、香港金融管理局の監督の下で民営銀行3行が紙幣を発行しているが、10香港ドル紙幣[2](ポリマー紙幣)だけは香港特別行政区政府の発行する政府紙幣である。このように銀行券と政府紙幣の双方が発行される場合もある。
現在のところ政府紙幣を発行している国は少数にとどまっているものの、中央銀行の発行する銀行券と同様に発行と流通に際して厳しく管理されている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/政府紙幣
日本銀行券(にほんぎんこうけん、にっぽんぎんこうけん)は、法令に基づき日本の中央銀行である日本銀行が発行する紙幣である。日本の法定通貨(円)である。
日本銀行は、日本銀行法を根拠に、日本銀行券を発行し(市中に払い出し)通貨として流通させている。日本銀行券には日本国内で法定通貨として無制限に通用する強制通用力が付与されている。過去に発行されていた日本銀行券の中には各種法令により既に失効しているものがある。これら失効券以外は、古い日本銀行券であっても現在発行中の券と同様に法定通貨として有効である。
現在発行中の日本銀行券は、独立行政法人国立印刷局によって製造され、日本銀行に納入されている。納入価格は明らかにされていないが、券1枚あたり、一万円紙幣なら40円程度といわれている(週刊しゃかぽん第一号より)。2009年(平成21年)度の計33億枚の日本銀行券製造費は約509億円であり、1枚当たり15.4円となる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本銀行券
改造紙幣(かいぞうしへい)とは、大日本帝国政府が発行した紙幣。損傷しやすいという欠点があった明治通宝紙幣と交換するため、1881年(明治14年)2月から発行され、1899年(明治32年)に廃止されるまで用いられた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/改造紙幣
明治通宝(めいじつうほう)とは明治時代初期に発行された政府紙幣(不換紙幣)である。日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として著名である。またドイツのフランクフルトにあった民間工場で製造されたことから「ゲルマン札」の別名がある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/明治通宝
http://ja.wikipedia.org/wiki/五円紙幣
http://ja.wikipedia.org/wiki/一円紙幣
【お札】紙幣の肖像の変遷【人物】(明治~現在)
http://matome.naver.jp/odai/2133498493901597301
日本初の肖像入りのお札 改造紙幣(神功皇后札) 1円
http://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/gallery/jingu.html
お金の中の人物
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/02.htm
ドラゴン商会 楽天市場支店の日本紙幣一覧
http://item.rakuten.co.jp/doragon-coin/c/0000000112/
武内大臣 アラビア数字1円札 キヨッソーネ作 大正兌換銀行券1円
http://item.rakuten.co.jp/doragon-coin/nst021/
だかんしへい【兌換紙幣】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/135630/m0u/
平成18年4月 キヨッソーネの業績を顕彰する行事
4月11日、東京都青山霊園外人墓地において、明治初期わが国の紙幣印刷技術に大きな貢献をしたお雇い外国人・エドアルド・キヨッソーネ(1833~1898)の威徳を称えるため、公益事業の一環として献花行事を行いました・・・
http://www.choyokai.or.jp/kouekiH18.html
http://item.rakuten.co.jp/doragon-coin/c/0000000112/
日本に骨を埋めたお雇い外国人「エドアルド・キヨッソーネ」について
http://blogs.yahoo.co.jp/massy_ishikawa/24174481.html
日本史に登場する外国人2 お雇い外国人
http://www.yunioshi.com/foreigners2oyatoi.html
《日本に骨を埋めたお雇い外国人 エドアルド・キヨッソーネ》
http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_21.html
明治期のヨーロッパと日本を繋ぐ:エドアルド・キソーネと日本美術
http://www.i-house.or.jp/programs/japanihj20130111/
ジェノヴァ、キヨッソーネ東洋美術館
Museo d'arte orientale Edoardo Chiossone, Genova
http://www.geocities.jp/vivereavenezia/genova.chiossone.htm
ジェノヴァにある日本。キヨッソーネ東洋美術館へ行こう!
http://ameblo.jp/sounano-italia/entry-11613243744.html
世界遺産のレ・ストラーデ・ヌオーヴェとキヨッソーネ東洋美術館
http://hitoshi-nakata.blogspot.jp/2012/12/blog-post_25.html
【印刷博物館】 企画展示 印刷と美術のあいだ ― キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本 | 朗文堂NEWS
http://www.robundo.com/robundo/blog/?p=8323
キヨッソーネ東洋美術館所蔵浮世絵展- お雇い外国人が魅せられた浮世絵の美とその世界 -
http://mitaka.jpn.org/gallery/042/
三鷹市美術ギャラリー【キヨッソーネ東洋美術館所蔵浮世絵展】
http://mitaka.jpn.org/gallery/042/
小判切手
http://www.postalmuseum.jp/column/collection/post_11.html
http://yushu.or.jp/museum/mame/2030.htm
明治人の俸給
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm
明治前期お雇い外国人の給与 - 流通科学大学
http://www.umds.ac.jp/kiyou/r/21-1/r21-1uemura.pdf#search='お雇い外国人の月給'
徒然漫歩計|紙幣から消えていった古代史の主役たち
http://manpokei1948.jugem.jp/?page=11
昔の1円は今の何円?
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J050.htm
明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?(2)-お金の歴史 雑学コラム
「明治時代の1円=現在の2万円」
http://manabow.com/zatsugaku/column06/2.html
過去の貨幣価値を調べる
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php
明治時代の1円は現在の価値に換算するといくらでしょう?
ベストアンサーに選ばれた回答|知恵袋マスター
jasonkodai2199さん 2013/11/1922:48:15
イタリア・リラ(Lira italiana)は、2002年まで使用されたイタリアの通貨である。通貨記号は₤、またはITL。
http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア・リラ
http://it.wikipedia.org/wiki/Giappone
http://ja.wikipedia.org/wiki/工部美術学校
工部大学校(こうぶだいがっこう)は、明治時代初期に工部省が管轄した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/工部大学校
工部省(こうぶしょう)は、明治政府の官庁の一つで、太政官制度の下で殖産興業を支えた中央官庁である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/工部省
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