白い花嫁・・・「ジュリエット・レカミエ夫人」の肖像
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1793年、民衆がコンコルド広場でルイ16世と王妃マリー・アントワネットをギロチンに葬り、1794年のテルミドールの反動の、その5年後の1799年にナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte:1769年〜1821年)が軍事独裁政権を樹立しフランスは帝政の時代を迎える・・・
1804年、皇帝となったナポレオンは、ロココ様式(Rococo)から荘重な様式のギリシャ・ローマの芸術を模範とした新古典主義(Néoclassicisme)を生み出し、パリの街にオデオン座/ブルボン宮殿(現下院議事堂)/マドレーヌ寺院などや、1806年にはエトワール凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile)の建設が始まり、ダヴィッド、アングルなどの画家を輩出する・・・
1800年に、パリの文学・政治のサロンの花形だったレカミエ夫人に、皇帝ナポレオンは愛人になるように強要し、彼女への贈り物として画家のジャック=ルイ・ダヴィッドに彼女の肖像画を依頼するが、しかし、当時パリで最も美しい女性と云われた絶世の美女「ジュリエット・レカミエ夫人」はナポレオンを袖にし、その絵は筆をおかれた未完のまま、椅子に横たわる「レカミエ夫人」の肖像画として、今はパリのルーヴル美術館に飾られている ・・・
当時・・・
ジュリエット・レカミエ ・・・23歳
ジャック=ルイ・ダヴィッド・・・52歳
ナポレオン・ボナパルト・・・31歳
そしてその後、このフランス革命と云う激動の時代が、3人の人生を駆け抜けた・・・
”Madame Récamier ” 1800年|油彩・キャンバス|173 x 243cm ルーヴル美術館蔵|Musée du Louvre, Paris 1826年ダヴィッドのアトリエの競売にて取得|展示ドゥノン翼2階 ジャック=ルイ・ダヴィッド|Jacques-Louis David(1748年〜1825年) |
1777年リヨンの裕福な家に生まれたジュリエット・レカミエ:Juliette Récamier (全名:Jeanne-Françoise Julie Adélaïde Bernard Récamier)は、15歳で42歳の銀行家ジャック・レカミエ(Jacques Récamier)と結婚する。この時代、前代のロココ様式からギリシャ・ローマの古典様式へと進化し、絵のなかの彼女の服装にみられる様に、ハイウエストで円筒形のエンパイアスタイルと呼ばれ、胸元で結んで着るドレスが流行し、上流階層のモードとして定着していた。そしてレカミエは天性の美貌でパリの文芸サロンの花形となり、彼女のサロンには作家、画家のほか政治家も多く集っていた。
が、しかし・・・
夫の銀行家ジャック・レカミエは母親の愛人で、しかも彼女は自分の子供であり、親子の結婚として実質的な結婚生活ではなく、父親にあたる夫のジャック・レカミエの財産を子にあたるジュリエットに相続させる為で、二人は父と子の関係であり、世の人々は彼女を「白い花嫁:Mariage blanc」と呼んでいた・・・
画家ジャック=ルイ・ダヴィッド:Jacques-Louis David(1748年〜1825年)は、1748年にパリで商人の子として生まれ、ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェは母の従兄弟で、フランス画壇の恵まれた環境のなかで26歳頃、1774年に若手画家の登竜門であったローマ賞を得て、翌1775年よりイタリアへ留学し1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭し、帰国後バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わり、1792年には国民議会議員になる。1789年にフランス革命が勃発、ジャコバン党員として政治にも関与し、1800年にはナポレオンがレカミエ夫人を愛人にするための贈り物として肖像画を依頼され、この「レカミエ夫人像」の制作に取りかかり、筆を止め未完成に終わっている・・・
フランス絵画界における新古典主義を確立したダヴィッドは、ナポレオンの庇護を受け、1804年にはナポレオンの首席画家を務め、ナポレオンの登場から失脚までの時期にフランス画壇に君臨し、工房の弟子の人数は400人を超えていたと云われている・・・
(ダヴィッド「自画像」1794年/46歳頃)→
そしてナポレオンは、フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立し、1804年12月2日パリのノートルダム大聖堂で行われた「皇帝ナポレオンと皇妃の戴冠式」でフランス第一帝政の皇帝に即位し、その時の様子が名高い名画「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」と云われ、同じものが2点残っている・・・
その有名な一点目の絵は1805年から1807年にかけて、6m x 10m程の画面、190名を越える人物がほぼ等身大で、ダヴィッドによって描かれた。そして3年の歳月を掛けて完成されたその絵は、ナポレオンが1808年ジョゼフィーヌとの離婚後は人前には出ずお蔵入りし、今はルーブルに飾られている。そして服の色違いだけで大きさやレイアウトもほぼ同じと云われているもう一点の絵・・・
ダヴィッドはナポレオン失脚後にブリュッセルに亡命し、この戴冠式から18年が経過し、ナポレオンの死後1年が経った1822年、同じレプリカ作品の同サイズの二作目を自らの死の2年前に完成させ、彼の死後その絵はヴェルサイユ宮殿の「戴冠の間」に飾られている・・・
(以下2点:画面をクリックすると800x 500pixに拡大します)↓
"Couronnement de l'Emoereur et de l'Imperatrice" 1805〜1807年|油彩・キャンバス|629 x 929cm ルーヴル美術館蔵|Musée du Louvre, Paris ........................................................................................ http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック=ルイ・ダヴィッド#mediaviewer/ File:Jacques-Louis_David_006.jpg 1822年|油彩・キャンバス|629 x 929cm ヴェルサイユ宮殿「戴冠の間」|Château de Versailles ............................................................................................ http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jacques_Louis_David_-_ Le_couronnement_de_l'Empereur_et_de_l'Impératrice,_2_ décembre_1804_-_Google_Art_Project.jpg ジャック=ルイ・ダヴィッド|Jacques-Louis David(1748年〜1825年) (ヴェルサイユ版は楕円部のナポレオンの二番目の妹「ポーリーヌ」がピンク色のドレスを着用している) |
ざっと歴史をひもとくと・・・
「陽気な未亡人」と呼ばれ貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais:1763年〜1814年)と1796年に結婚したナポレオンは、イタリア方面軍の司令官に抜擢後、イタリア、オーストリア、エジプト遠征でオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえ、ナポレオン軍は連戦連勝。イギリス以外のおおよそ全ヨーロッパを配下にしナポレオン帝国とも云えるフランス帝国を築きあげナポレオンは絶頂期を迎える・・・
彼は云う・・・
「余の辞書に不可能という文字は無い」・・・と、
だが、それを頂点にナポレオンは陰を落とし始め・・・
1812年にナポレオンはロシア遠征に失敗、翌1813年のライプツィヒの戦いでも大敗し、1814年にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍、プロイセンのブリュッヒャー将軍、かつてのナポレオンの部下でスウェーデン王太子となったベルナドット将軍、イギリスのウェリントン公による大規模なナポレオン包囲網が築かれナポレオン帝国は苦境に追い込まれ、ついにナポレオンは、1814年4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結の後、地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島に追放される・・・
が、その後再び翌年の1815年にエルバ島を脱出してパリに戻り復位し、その後のイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し「百日天下」で時代の幕を閉じた・・・
そして、ナポレオンを袖にしたパリの社交界の花形ジュリエット・レカミエ夫人は、反ナポレオン体制のサロンとして、作家のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、ナポレオンの弟リュシアン・ボナパルト、そしてプロイセン王国のアウグスト王子などや、ナポレオンと終生対立した批評家のジェルメーヌ・ド・スタール夫人(Madame de Staël)と親交を結ぶが、ナポレオンによって1811年にレカミエ夫人はパリを追放される・・・
そして彼女は心引かれていたプロイセン王子のアウグスト・フォン・プロイセン王子との結婚を望み、実父で夫のジャックに離婚を願い出るが拒否され、1815年に財産は没収、夫(実の父)のジャックは破産しやがて総てを失っていく・・・
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絵は上から順に
1812年:ダヴィッド画
1805年頃:フランソワ・ジェラール画
1806年:ドミニク・アングル画
その折、ダヴィッドの弟子であるフランソワ・ジェラールに描かせプロイセン王子に贈った最後の輝きの様な絵「レカミエ夫人の肖像/マダム・レカミエ」がパリのカルナヴァレ博物館に残っている・・・
"Portrait de Madame Récamier" 1805年|油彩・キャンバス|225 x 148cm カルナヴァレ博物館蔵 パリ|Musée Carnavalet, Paris フランソワ・ジェラール|Baron François-Pascal Gérard(1770年〜1837年) |
ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉後、1821年に52歳で死去し、
遺骸は1840年にパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(L'hôtel des Invalides)に葬られ、
自ら建てたエトワールの凱旋門を生きてくぐる事はなかった・・・
1816年にブリュッセルへ亡命、9年後の1825年に同地で、時代に翻弄された77年の生涯を終えた。
彼の遺体はフランスへの帰国を許されずブリュッセルに葬られ、
心臓は現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている・・・
そして、ジュリエット・レカミエは、
帝政時代の1811年にナポレオンとの対立でパリを追放され、
故郷のリヨンや、ローマ、ナポリに滞在し、
やがて全財産を失った彼女は1819年にパリのオー・ボワ修道院(L'Abbaye-aux-Bois)に身をよせ、
ナポレオン死後28年が経った1849年に72年の生涯を終え、モンマルトル墓地に眠る・・・
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フランスが1875年の第三共和政へと近代民主主義に到達し長い革命の時を終えるまで、
延々と続いた革命の過酷な時代に幾枚かの名画を生んだその歳月、
人が生きるとは何か?幾ばくかの答えが、歴史小説のような絵と共に時代のなかに埋もれている・・・
(以下・参考サイト)
ジュリエット・レカミエ(通称Juliette Récamier, 全名:Jeanne-Françoise Julie Adélaïde Bernard Récamier, 1777年12月4日 - 1849年5月11日)は、19世紀フランスの文学・政治サロンの花形となった女性。 世界の歴史の中でも、最も美しい女性と云われている。 ジャック=ルイ・ダヴィッドやフランソワ・ジェラールの描いた肖像画やナポレオンとの関わりによって歴史に名を残した・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュリエット・レカミエ
http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/《レカミエ夫人》
http://fr.wikipedia.org/wiki/Juliette_Récamier
マダムレカミエとモンマルトルの墓地で彼の家族の墓。
Tombeau de Madame Récamier et sa famille, au cimetière de Montmartre.
http://fr.wikipedia.org/wiki/Juliette_Récamier
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック=ルイ・ダヴィッド
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、革命期フランスの軍人・政治家。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナポレオン・ボナパルト
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(フランス語: Joséphine de Beauharnais、 1763年6月23日 - 1814年5月29日)は、フランス皇后。ナポレオン・ボナパルトの最初の妻・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
マリア・ルイーザ(Maria Luisa, 1791年12月12日 - 1847年12月17日)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。後にパルマ公国の女公(在位:1814年 - 1847年)・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/マリア・ルイーザ_(パルマ女公)
アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(フランス語: Anne Louise Germaine de Staël,1766年4月22日 - 1817年7月14日
スタール夫人(すたーるふじん、 Madame de Staël, 1766年 - 1817年)は、フランスの批評家、小説家。スイスの政治家・財政家でフランスの蔵相も務めたジャック・ネッケルの娘。文芸評論、政治思想などで才能を発揮した。ゲーテに評価された著作がドイツ語に訳され、ドイツなどの文学論に影響を与えた。その一方、スタール夫人はドイツ文学や観念論哲学をフランス圏に紹介し、18世紀のフランス・ロマン主義の先鞭を付けた。また、フランス革命からナポレオン・ボナパルトの君臨に至る時代、多くの政治評論も行い、ナポレオンと終生対立した・・・
http://ja.wikiquote.org/wiki/スタール夫人
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール
フランス革命(フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution)は、18世紀にフランスで起きた市民革命。
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス革命
フランソワ・ブーシェ
(François Boucher:1703年9月29日 パリ - 1770年5月30日 パリ)
フランスの画家、素描家、エッチング製作者。ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描いた。多作家として知られ、生涯に1000点以上の絵画、少なくとも200点の版画、約10000点の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台デザインの仕事をこなし・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ・ブーシェ
フランソワ・ジェラール
(Baron Francois-Pascal Gerard:1770年〜1837年 | フランス | 新古典主義)
18世紀フランス新古典主義を 代表する画家のひとり。確かな技量を感じさせる基本に忠実な形態描写や対象を的確に 捉えながら理想化させた表現を用いて古典主義的な絵画を制作。その陶器を思わせる...
フランソワ・ジェラール|主要作品の解説と画像・壁紙
http://www.salvastyle.com/menu_neo_classicism/gerard.html
http://en.wikipedia.org/wiki/François_Gérard
http://fr.wikipedia.org/wiki/François_Gérard
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル
(フランス語: Jean-Auguste-Dominique Ingres:1780年8月29日 - 1867年1月14日)
フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年にブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守った・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドミニク・アングル
06|《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》
http://www.louvre.fr/jp/routes/ルーヴル美術館の傑作
http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/《自ら戴冠するナポレオン、その後ろに座す教皇》
「ダヴィッドによるナポレオン戴冠式 」展 ルーヴル美術館
http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/napol/napoleon.html
「ナポレオン一世の戴冠式」戴冠式とは?|パリの美術館と観光ガイド メルシーパリ.ネット
同じ作品がヴェルサイユ宮殿にもある?
http://www.merci-paris.net/tableau/napoleon.html
http://marumate.shop-pro.jp/?pid=50715515
MMM|ナポレオンの戴冠式|メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド
http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/napol/napoleon.html
Sacre de l’empereur Napoléon Ier et couronnement de l’impératrice Joséphine
http://ressources.chateauversailles.fr/spip.php?article168
http://fr.wikipedia.org/wiki/Le_Sacre_de_Napoléon
ルーヴル美術館とヴェルサイユ宮殿にあるダヴィドの作品である「ナポレオンの戴冠式」 で違いがあるのですが、そのことに関するストーリーをできるだけ詳しく教えて欲しいの ですが...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410032884
名画「ナポレオンの戴冠式」の秘密
http://okguide.okwave.jp/guides/21762
ナポレオンの戴冠式:ジャック=ルイ・ダヴィッド - APPA
この絵のポイントは3つです。 1.ジョゼフィーヌの戴冠 2.総勢200名?!それぞれの 物語 3.もう1枚の「ナポレオンの戴冠式」 ... ことで、重々しい荘厳な雰囲気の中に女性 らしい柔らかな品格の高さが加り、いっそう深みのある絵になったのではないでしょうか ・・・
http://search.yahoo.co.jp/search?p=ナポレオン戴冠式が2枚ある&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=appsfch2&x=wrt
ダヴィッド「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/110528/
File:Jacques Louis David - Le couronnement de l'Empereur et de l'Impératrice, 2 décembre 1804 - Google Art Project.jpg
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jacques_Louis_David_-_Le_couronnement_de_l'Empereur_et_de_l'Impératrice,_2_décembre_1804_-_Google_Art_Project.jpg
《皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式》 1805-07年 629x929cm ルーヴル美術館
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック=ルイ・ダヴィッド#mediaviewer/File:Jacques-Louis_David_006.jpg
http://home.c00.itscom.net/t2oho4no/furansu/ruuburu/ruuburubizyutukan.html
http://ontheday.jugem.jp/?eid=1318
http://www.dokodemo-bessou.com/france/louvre/napoleon.htm
レカミエ夫人(1)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10030184-20060331-0047.pdf?file_id=12839
『ジュリエット・レカミエ』 その④
http://pratiquart.exblog.jp/16246128/
フランソワ・ルイ・デジュネ
http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-04-05-6
プロイセン王子のアウグスト・フォン・プロイセン
そして、もう一枚ダヴィッドの弟子、フランソワ=パスカル・ジェラールが描いた「レカミエ」の肖像
http://www.salvastyle.com/menu_neo_classicism/gerard.html
2012年09月のブログ|テレビ番組 時事ネタなど書いていきます
ameblo.jp/thinkmacgyver/archive-201209.html
世界大百科事典内のレカミエ夫人の言及【サロン】より
https://kotobank.jp/word/レカミエ夫人-151482
この時代はハイウエストで円筒形のエンパイアスタイルと呼ばれるドレスが流行していました・・・
http://blog.goo.ne.jp/cce_uf_nt/e/8abc98670a1c27f8d4b2fc445a0a863e
http://ja.wikipedia.org/wiki/エトワール凱旋門
《レカミエ夫人》 | ルーヴル美術館 | パリ - Louvre
パリのとある銀行家夫人であるジュリエット・レカミエは、当時最も知られた婦人の一人で あった。ポンペイ様式の家具に囲まれて「古代風」の衣裳に身を包んだ夫人を、飾り気の ない背景の中に描いたこの肖像画は、1800年において前衛的な作品であった。
http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/《レカミエ夫人》
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