ぶらり京都-82 [高瀬川・桜の水路]
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四条河原町から高瀬川を四条〜三条まで、ぶらりと遠回りして家路につく・・・
高瀬川|木屋町通 徒歩ルート(三条〜四条)1.2km 15〜20分|Googleマップ
(2015年3月31日撮影)
「人知れず もの思ふことは ならひにき 花に別れぬ 春しなければ」
(自分だけで思い悩むことは、とうに慣れっこです。花に別れない春はないのですから)
詞花和歌集|和泉 式部/いずみ しきぶ(天元元年:978年頃〜没年不詳?)
慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以・素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。 その後慶長19年(1614年)に、父子によって、京都・伏見間の恒久的な運河が開鑿されたのが高瀬川である。
開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。 現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。 京都中心部三条から四条あたりにかけての高瀬川周辺は京都の歓楽街の一つとなっており、また桜の名所ともなっている。
水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた。 七条には「内浜」とよばれる船溜まりがあった。 内浜の設置は、慶安元年(1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更とともに行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。 川沿いには、曳子が高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/高瀬川_(京都府)
「もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし」
(私があなたをしみじみいとおしいと思うように、あなたもわたしを、しみじみいとおしいと思っておくれ、
山桜よ。花より他にわたしの心を知る人もいないのだから)
小倉百人一首 66番|前大僧正行尊/行尊:ぎょうそん(1055年〜1135年)
「高砂の 尾上の桜 さきにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」
(遠くの山の峰の桜が咲いたよ。人里近い山の霞よ、どうか立たないでおくれよ。
桜が見えなくなってしまうから)
小倉百人一首 73番|前中納言匤房/大江 匡房:おおえ の まさふさ(1041年〜1111年)
「あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いと恋ひめやも」
(足比奇乃 山櫻花 日並而 如是開有者 甚戀目夜裳)
(もしも山の桜が何日も咲いているのだったら、こんなに恋しいとは思わないでしょうに)
万葉集|山部赤人/やまべ の あかひと(生年不詳〜736年)
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
(桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。
桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に)
古今集|小野小町(生没年不明)
「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」
(桜の花を誘って吹き散らす嵐の日の庭は、桜の花びらがまるで雪のように降っているが、
実は老いさらばえて古(ふ)りゆくのは、私自身なのだなあ)
新勅撰集・雑・1054|入道前太政大臣/西園寺 公経:さいおんじ きんつね(1171年〜1244年)
(以下・参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/高瀬川_(京都府)
桜を題材にした和歌・俳句集
http://matome.naver.jp/odai/2130147517863430701
桜の和歌ベスト30首
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/41739846.html
たのしい万葉集|桜(さくら)を詠んだ歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/flower/sakura.html
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