ぶらり京都-83 [南禅寺・楼門五三桐]
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伝説で有名な大盗賊石川五右衛門が南禅寺の高さ22メートルの三門の上の手すりに足をかけ煙管を吹かして、満開の桜をめでて言う「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両…」と、はてさてそれは如何なる「絶景か!」・・・
南禅寺三門|京都市左京区南禅寺|Googleマップ
(2015年4月2日撮影)
「楼門五三桐」(さんもん ごさんの きり)は、安永7年4月 (1778年4月) 大坂角の芝居で初演された歌舞伎の演目。初代並木五瓶作、全五幕。二段目の返し「南禅寺山門の場」を単独で上演するときは特に『山門』(さんもん)と通称される。初演時の外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんの きり)、のちに改称されて現在の外題となった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/楼門五三桐
「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金(あたいせんきん)とは小せえ、小せえ ・・・
この五右衛門には値万両、万々両。
もはや陽(ひ)も西に傾き、誠に春の夕暮れに花の盛りもまた一入(ひとしお)・・・
はて、うららかな眺めじゃなぁ〜。
ハテ心得ぬ、われを忘れずこのところに羽根(はね)を休むるとは・・・
なになに、某(それがし)もとは大明十二代神宗皇帝の臣下宋蘇卿(そうそけい)と言いし者、本国に一子(いっし)を残し、この土(ど)に渡り謀叛(むほん)の企て(くわだて)今月ただいま露顕(ろけん)なし、たとえ空しく(むなしく)相果つるとも、かの地に残せし倅(せがれ)、われを慕うて日本へ渡りしとほぼ聞けど、いまだ対面は遂げず形見(かたみ)に与えし蘭麝待(らんじゃたい)という名香を証拠になにとぞ尋ね出し、わが無念を語り、力を合わせ、久吉を討ち取るべきものなり ・・・
すりゃ此村大炒之助(このむらおおいのすけ)と言いしは、わが父宋蘇卿にありつるか、父の無念、光秀公の恨み、たとえこの身は油で煮られ、肉はとろけ、骨は微塵(みじん)に砕くるとも、おのれ久吉、今にぞ思い知らせてくれん」
<南禅寺・ブログ内関連記事>
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ぶらり京都-141 [南禅寺のもみじ](紅の頃:2017年11月28日撮影)
https://guchini2.exblog.jp/26202540/
ぶらり京都-136 [南禅寺の虎・虎・虎](緑の頃:2017年5月7日撮影)
http://guchini2.exblog.jp/24160587/
ぶらり京都-103 [都に降る雪](雪の頃:2016年1月20日撮影)
http://guchini2.exblog.jp/22799043/
ぶらり京都-17 [絶景・南禅寺三門](紅の頃:2010年 12月 01日)
http://guchini.exblog.jp/15081982/
(以下・参考サイト)
「南禅寺」 (なんぜんじ)
京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/南禅寺
南禅寺|オフィシャルサイト
http://nanzen.com/
「南禅寺三門」
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。
天井画の「天人」と「鳳凰」の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/南禅寺#.E4.B8.89.E9.96.80
『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)は、安永7年4月 (1778年4月) 大坂角の芝居で初演された歌舞伎の演目。初代並木五瓶作、全五幕。二段目の返し[1]「南禅寺山門の場」を単独で上演するときは特に『山門』(さんもん)と通称される[2]。初演時の外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんの きり)、のちに改称されて現在の外題となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/楼門五三桐
石川五右衛門の名台詞「絶景かな絶景かな~」の続き・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1363472843
石川五右衛門 〜天下の大泥棒は庶民のヒーローだった!
http://cyber-man.net/2014/12/04/石川五右衛門-〜天下の大泥棒は庶民のヒーローだ/
石川五右衛門:いしかわごえもん ( 1568年?〜1594年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/石川五右衛門
安土桃山時代の盗賊の頭目で、その実体はよくわからなかったが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記などの史料から実在が確かになり、日本に滞在していた貿易商人アビラ・ヒロンの書いた書物に「都を荒らしまわる盗賊団があり、其の中の15人の頭目が官憲に捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた」(日本王国記:1656年著)という記述があり、当時イエズス会の京都修道院長だったペドロという人物が、これらの盗賊の首領の名前を「ixicava goyemon」だったと注釈している・・・
南禅寺三門での歌舞伎「楼門五三桐」で、石川五右衛門の有名なせりふは、金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という出で立ちで、煙管片手に「絶景かな、絶景かな!。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両・・・」でお馴染みの石川五右衛門の伝説はよく知られているが、三門は文安4年(1447年)に火災で焼失し寛永5年(1628年)に再建されている。五右衛門は文禄3年(1594年)秀吉に捕らえられ数日間の拷問の末、手下を含め総勢20人と共に釜ゆでにされた。従って五右衛門は門の再建される34年前に刑死しているので三門は無く、この歌舞伎の話は伝説であると云えるが、その他の「絵本太閤記」などにも多く出てくるが、あくまで創作であって実話ではなく事実よりも伝説のほうが多い人物と云える・・・
(ブログ内記載・紅葉の南禅寺三門)↓
ぶらり京都-17 [絶景・南禅寺三門] http://guchini.exblog.jp/15081982/
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