ロダン「愛の終着駅」 - La Porte de l'enfer -
|
それは、ロダンが長い間連れ添っていた内縁の妻ローズ・ブーレ(Rose Beuret) との三角関係となり、その後三人の関係は15年間にわたって続く・・・
1888年に建設計画が白紙に戻り「地獄の門」の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り自費で彫り続け、翌年の1889年、その門の中央上から地獄の中を覗き込み、人間の運命について静かに考える「詩人(Le Poète)」と題された一部分の作品が発表され、それはその後「考える人(Le Penseur)」と名付けられる・・・
そしてこの「地獄の門(La Porte de l'enfer)」は、ロダンにとって単なる作品ではなく、ダンテの「神曲」の地獄篇の物語でもなく、地獄の中を覗き込み彷徨い苦悩しているロダン自身だと云われている・・・
我を過ぐれば憂ひの都あり 我を過ぐれば永遠の苦患あり 我を過ぐれば滅亡の民あり 義は尊きわが造り主を動かし 聖なる威力、比類なき智慧 第一の愛、我を造れり 永遠の物のほか物として我よりさきに 造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ 汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ | Per me si va ne la città dolente, per me si va ne l'etterno dolore, per me si va tra la perduta gente. Giustizia mosse il mio alto fattore; fecemi la divina podestate, la somma sapïenza e 'l primo amore. Dinanzi a me non fuor cose create se non etterne, e io etterno duro. Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate. |
<ダンテ・アリギエーリの叙事詩「神曲」地獄篇第3歌>
山川丙三郎 訳
「考える人」"Le Penseur" 「詩人」"Le Poète" 1889年~1902年|ブロンズ像|世界に計26ヶ所(日本4点) ロダン美術館 (パリ7区) |Musée Rodin|Hôtel Biron, Paris, France|2009/05/06撮影 |
フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin)は1840年、パリの労働者階級の子として生まれた。10歳頃から絵を描き始め、17歳に工芸学校を退校し、エコール・ボザールを受験するが幾度受験しても不合格となり、石工の装飾職人として働き始める。その傍ら塑像を中心に独学で彫刻を習得し始め、24歳の時には生涯の妻となるお針子の20歳だったローズ・ブーレ(Rose Beuret)と知り合い同棲しはじめる・・・
極度の近視であったロダンは普仏戦争の兵役を免れ、30歳頃に職を求めてベルギーへ移住し6年間滞在。その間独学で彫刻の技法を修練し、ローズは仕事で帰らぬロダンの粘土の塑像が割れない様に、いずれ訪れる時を夢見ながら、濡れタオルや霧吹きで水をかける日々の滞在中に、二人は生活費を節約して貯蓄を続け、そしてついにロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かける。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受け多大な影響を受けることになった・・・
ロダン作「花飾りの帽子の少女・ローズ像」"Jeune fille au chapeau fleari"
1865 et 1870|34cm x 69cm x 30cm →
フィレンツェに始まるルネサンス(Renaissance)は、ドナテッロやミケランジェロの彫刻を生み出し、カラヴァッジョ絵画の劇画的演劇の一場面を髣髴とさせる作品「アポロとダフネ」(1624年~1625年)によって、名声を手にしたジャン・ロレンツォ・ベルニーニが登場し、神話のドラマ仕立ての彫刻へと進化し、仕上げにシュウ酸で磨きあげられた人体のような大理石の彫刻はローマ人を魅了し「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と言われるほど彼の作品はローマ中にあふれていた・・・
帰国後ロダンは、1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展に石膏像の「敗北者」、後の「青銅時代」を出典する。が、それは極めて緻密でリアルな作品であり、実際のモデルから直接型をとったのではないかと疑われて落選する。憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに制作し、おどろきと賞賛の中、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。ロダン37歳・・・
それは、時代も等しく・・・
同じ年生まれのクロード・モネたちによる1874年の第1回印象派展、ルノアール、ピサロ、シスレー、セザンヌなどの「印象派」誕生の様に、凱旋門の彫刻を手がけたフランソワ・リュードや第二帝政期のサロンを代表する彫刻家ジャン=バティスト・カルポーなどを飛び越えてロダンも印象派の様にアカデミーでない新たな道を切り開き「近代彫刻」を誕生させる・・・
..............................................................
「青銅時代」"L'Âge d'airain"
←1877年|181 x 70 x 66cm|ブロンズ
オルセー美術館|Musée d'Orsay, Paris, France
1900年のパリ万博で「地獄の門」の石膏原型が展示された・・・
その制作はまず最初にロダンは粘土による原型を作り、さまざまなサイズに型取り成形(ムーラージュ:Moulage)し、さらにそれらを組み合わせ(アッサンブラージュ:Assemblage)し「地獄の門」は制作された。有名な真ん中の「考える人」や、初期にはあった右柱下の「接吻」や、てっぺんにある「三つの影」などの単体の作品を門に組み合わせる事でロダンは自らの芸術を集大成しようとした未完の、高さ540 x 幅390 x奥行き100 cmの「地獄の門」の大作から幾多のドラマが生まれていく・・・
「接吻」"Le baiser" 1886年~1903年|大理石像|世界に計3点|高さ183.6cm、幅110.5cm、奥行118.3cm ロダン美術館 (パリ7区) |Musée Rodin|Hôtel Biron, Paris, France|2009/05/06撮影 「考える人」同様に「地獄の門」を装飾するレリーフの1つとして構想され、 当初は「フランチェスカ・ダ・リミニ」のタイトルで呼ばれた |
その頃、ロダンは弟子として19歳のカミーユ・クローデル(Camille Claudel) と運命的に出会う事になる。カミーユは、1864年、エーヌ県のフェレ=アン=タルドノワに長女として生まれ、類まれなる美貌と才能を持ち、17歳で私立の美術学校であるアカデミー・コラロッシュに通い、オーギュスト・ロダンのアトリエで弟子としてモデル、或は有能な助手としての日々の中で、ついに二人は激しい恋に落ち、二人の愛は永遠に強い絆で結ばれながら、どちらの作品と云えないほどの共通した要素の作品群と互いの才能の葛藤が入り交じり始め、内縁の妻ローズとの三角関係も続き、何時しかそれは・・・
偽善、裏切り、貪欲、吝嗇、激怒、愛欲、怠惰、暴力、欺瞞、狼狽、追従、不和、憔悴……へと様々な精神的苦痛が三人を通り過ぎた・・・
優柔不断なロダンは「ローズかカミーユか」の間で絶えず揺れながら、15年の歳月が流れ・・・
そしてついに、カミーユは40代後半に統合失調症を発症し、1913年、48歳の時に家族によってパリ郊外のヌイイ=シュル=マルヌにあるヴィル・エヴラール精神病院に、その後第一次世界大戦で南仏のモントヴェルク精神病院で過ごす・・・
ロダンは1917年、死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをする。ロダン77歳ローズ73歳・・・
その16日後にローズが死去、更に9ヵ月後ロダンも生涯を閉じた。その亡骸は、ムードンの「考える人」が置かれたヴィラの庭でローズの傍らに眠っている・・・
..........................................
←「分別盛り」"Age mur"
石膏|1895年|85×166×40cm
そして、実際に「地獄の門」がブロンズ像として鋳造されたのは1920年代に入って4体が鋳造され、松方コレクションの松方幸次郎の注文により、一体は東京上野・西洋美術館に設置されている。その後1990年から3体の鋳造が開始され3年後に納品されている。従って1917年に死去したロダンはブロンズの完成形を見ることは無かった・・・
その後、カミーユ・クローデルもロダン死後26年後の第二次世界大戦中の1943年、家族に看取られることなくモントヴェルク精神病院で79年の生涯を閉じた・・・
はたしてこの門は、ロダンの内面で観た永遠に見いだせない、
深い、深い苦悩の「愛の終着駅」だったのだろうか?
それとも、単にダンテが神曲で述べる「永遠の淑女」ベアトリーチェを求め再び蘇ったように、
ロダンも自分とを重ね合わせただけかもしれない・・・
しかしそれは、人間が生きる事の意味を思考する、重く深く苦しい苦悩の絵姿のように、
人間が真実の愛を得る為に通らなければならない門なのだろうか?・・・と、
我々に問いかけるかのように、
ロダンは未完のままブロンズの「地獄の門」を世界に7つ残し、
「美」の時代から通り過ぎた・・・
(以下・参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/オーギュスト・ロダン
http://ja.wikipedia.org/wiki/地獄の門
http://ja.wikipedia.org/wiki/考える人_(ロダン)
国立美術館国立西洋美術館|オーギュスト・ロダン|地獄の門|1840年 - 1917年
http://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0045.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/接吻_(ロダン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/カミーユ・クローデル
ロダン美術館 (Musée Rodin)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロダン美術館_(パリ)
ロダン美術館|ムードン:Meudon|ヴィラ・デ・ブリヤン:Villa des Brillantes|メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201308/montalembert.html
パリの美術館と観光ガイド メルシーパリ.ネット
http://www.merci-paris.net/musee/rodin2.html
←ロダン美術館:パリ (Musée Rodin)
フランスのパリ7区にある美術館である。オーギュスト・ロダンの自己の作品及びロダンがコレクションした美術品を中心として所蔵する。
Musée Rodin|1919年|Hôtel Biron, 79, rue de Varenne, 75007 Paris
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロダン美術館_(パリ)
guchiniの電子ブック↓
(本のタイトル→)ロダン美術館 [Musée Rodin]-別冊-ぶらりパリ市内
(無料のサイトです→)http://p.booklog.jp/book/30428
ページの左上の→「この本を開く」で読めます・・・
(ムードン、ヴィラ・デ・ブリヤン)ロダン美術館:ムードン→
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201308/montalembert.html
http://www.musee-rodin.fr/
http://www.musee-rodin.fr/fr/le-musee/le-musee-rodin-meudon
ドナテッロ
(伊: Donatello、 1386年頃 - 1466年12月13日)は、ルネサンス初期のイタリア人芸術家、彫刻家。フィレンツェ共和国出身で、出生名はドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ (伊: Donato di Niccolò di Betto Bardi)。日本ではドナテルロと表記する場合もある。ドナテッロは立像や浅彫のレリーフを制作した彫刻家として有名だが、透視図法を使用した錯視的表現の発展にも寄与した、15世紀でも最重要な芸術家のひとりである。
ドナテッロは、フィレンツェの毛織物ギルドの一員だったニッコロ・ディ・ベット・バルディの息子として、1386年ごろにフィレンツェで生まれた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドナテッロ
ミケランジェロ・ブオナローティ
(伊: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある・・・
ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミケランジェロ・ブオナローティ
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
(Gian Lorenzo Bernini,1598年12月7日-1680年11月28日)は、バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛したシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために制作された4体の彫刻群、つまり≪アイネイアースとアンキーセース≫(1618-19)、 ≪プロセルピーナの略奪≫(1621-22)、≪ダヴィデ≫(1623-24)、≪アポロとダフネ≫(1624-25)によって、ベルニーニは即座に名声を手にした。現在でも、4体共にローマのボルゲーゼ美術館に所蔵展示されている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
http://en.wikipedia.org/wiki/Gian_Lorenzo_Bernini
フランソワ・リュード
François Rude (4 January 1784 - 3 November 1855) was a French sculptor. He was the stepfather of Paul Cabet, a sculptor.
http://en.wikipedia.org/wiki/François_Rude
François Rude, né le 4 janvier 1784 à Dijon, mort le 3 novembre 1855 à Paris, est un sculpteur français, représentatif de la transition entre le néoclassicisme et le romantisme, dont il est un des maîtres....
http://fr.wikipedia.org/wiki/François_Rude
← エトワール凱旋門「ラ・マルセイエーズ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/エトワール凱旋門
(1784~1855):フランス の彫刻家で、ロマン主義の巨匠
フランソワ・リュード 彫刻作品画像
http://matome.naver.jp/odai/2138554776751623001
ジャン=バティスト・カルポー
(Jean-Baptiste Carpeaux, 1827年5月11日 - 1875年10月12日)は、フランスの彫刻家、画家。代表作にパリ・オペラ座(ガルニエ宮)の「ダンス」や「ウゴリーノ」がある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=バティスト・カルポー
カルポー:帝政の彫刻家 Carpeaux (1827-1875), un sculpteur pour l'Empire
19世紀フランスの彫刻家といえばロダンの名が圧倒的に有名でしょうし、少し遡れば凱旋門を飾る浮彫り《ラ・マルセイエーズ》の作者フランソワ・リュードも知られているかもしれません・・・
第二帝政期(1852-1870年)を代表する彫刻家にジャン=バティスト・カルポーがいます・・・
http://www.todai-hikaku.org/bb/2014/09/aaaaiaaeaaaaacarpeaux_1827-187.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean-Baptiste_Carpeaux
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Baptiste_Carpeaux
アッサンブラージュ(アセンブリッジ、英語:Assemblage)とは、コラージュやパピエ・コレの立体版、すなわち、「立体的なもの」を寄せ集め、積み上げる、貼り付ける、結び付けるなどの方法により制作された美術作品(立体作品)およびその技法・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/アッサンブラージュ
アサンブラージュ【フランス assemblage】〔アッサンブラージュ,アセンブリッジとも〕
①組み合わせ。調合。寄せ集め。
②既製品や廃品を寄せ集めて美術作品を作ること。第二次大戦後,盛んになった。
③ワインをブレンドすること。
http://www.weblio.jp/content/アッサンブラージュ
フランス語で「型取り・成形」を意味する単語を語源とし、一説では16世紀のルネッサンス期に作成された蝋人形がその起源の一つともされる。かつては石膏で採った患部の型に蝋を流し込んで作成したものに色付けをして仕上げられた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ムラージュ
地獄の門の碑銘「汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/地獄の門
『神曲』(しんきょく、伊: La Divina Commedia)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/神曲
http://www.gutenberg21.co.jp/dante1_3.htm
http://1000ya.isis.ne.jp/0913.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/ダンテ・アリギエーリ
ロダン 「花飾りの帽子の少女ーローズ像」Jeune fille au chapeau fleari
1865 et 1870|34 cm x 69 cm x 30 cm
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jeune_fille_au_chapeau_fleuri
下記2件の情報から、ローズ=ブーレの生没年
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201308/montalembert.html
オーギュスト・ロダン | 青銅時代 | 収蔵作品 | 国立西洋美術館
1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展にはこの彫刻の石膏像が《敗北者》という題で出品されたが、これは後に《目覚める人》あるいは《最初の人類》という名で呼ばれるように・・・
http://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0002.html
「青銅時代」"L'Âge d'airain"
http://fr.wikipedia.org/wiki/L%27Âge_d%27airain
ロダン夫人(ローズ・ブーレ)のマスク|国立西洋美術館
http://collection.nmwa.go.jp/S.1990-0002.html
カミーユ・クローデル展
http://blog.goo.ne.jp/higaki_yjp/e/16c17f2a10846357cdcba6a9b85e7127
ロダン《地獄の門》における鋳造問題 講師:黒川弘毅氏(武蔵野美術大学教授)埼玉県立近代美術館
http://www.pref.spec.ed.jp/momas/index.php?key=jonf5vlyh-159
カミーユ・クローデルの作品にみる病理|SOLARIS WORKS
http://www12.plala.or.jp/solaris_works/reports_007.html
第8回 ~パリ・ムウドンの丘~<2>新連載・石田郁代著
ローズ・ブーレ(ロダン夫人) (~1917)|文/写真 石田郁代
http://www.for-you.co.jp/tour_sakai/akiko/ishida/vol08.html
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(伊: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家。1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表 するフランスの画家・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/クロード・モネ
王立絵画彫刻アカデミー(おうりつかいがちょうこくアカデミー、Académie Royale de Peinture et de Sculpture)は絵画・彫刻の振興を目的として、1648年にフランスで設立された組織・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/王立絵画彫刻アカデミー
http://ja.wikipedia.org/wiki/西洋美術史
Copyright © 2015 guchini.exblog All Rights Reserved.