「さくらんぼの実る頃」"Le Temps des Cerises"
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失恋の悲しみを歌った「さくらんぼの実る頃」が、パリ・コミューンの一員であったジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)が作詞し、テノール歌手のアントワーヌ・ルナール(Antoine Renard)が曲を付けて1866年(慶応元年)に発表された・・・
その後、普仏戦争(1870年〜1871年:明治2〜3年)で敗れたフランスは、ナポレオン3世の第二帝政が終焉し第三共和政に移行する。だがしかし、プロイセンとの和平交渉に反対し自治政府を宣言したパリ・コミューン(la Commune de Paris 1871)は、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配し、約2ヶ月後にヴェルサイユ政府軍によって参加者は大量虐殺後鎮圧され「血の一週間」と呼ばれている。この事件後成立した第三共和政に批判的なパリ市民がこの歌をしきりに歌ったことから「パリ・コミューンの音楽」として有名になり、イヴ・モンタンや社会派のジュリエット・グレコなどのシャンソン歌手に歌い継がれていく・・・
フランス革命(Révolution française)は1789年、民衆がコンコルド広場でルイ16世と王妃マリー・アントワネットをギロチンに葬り「三色旗」の旗のもと、共和政と帝政や王政を繰り返しながら、イギリスで起こった産業革命が浸透し、旧来の王侯貴族にブルジョアと労働者層が生まれ、時代は大きな転換点を迎えていた・・・
その1870年から1871年にかけての普仏戦争での敗北から続くパリ・コミューンは、画家たちにさまざまな体験を強いられ、モネとピサロはロンドンへ渡り、バジールは戦死、ルノワールは騎兵隊に、ドガは砲兵隊、マネは国防参謀本部などへ出兵している・・・
そんな頃ジャン・バティスト・クレマンは、1836年にパリ郊外のブローニュ・シュル・セーヌに生まれ、叔母のモンマルトルの家によく遊びに行き、1866年にベルギーで「さくらんぼの熟れる頃」の詩を書き上げる。
その後クレマンは、帝政と闘いながら1870年に出獄後、国民軍に参加しパリ第18区のモンマルトル監視委員会の委員に選ばれ、革命派のコミューンの成立後、バリケードで戦い始めていた。
時節は丁度「さくらんぼの花」が咲き実る頃・・・
1871年3月28日、パリ・コミューンはパリの労働者たちが権力を握り世界初の革命的自治政府として、パリ市庁舎前でコミューン成立が宣言されるが、コミューン軍はパリのあちこちにバリケードを築き、ヴェルサイユ軍に応戦していたが、徐々に追い詰められ形勢は逆転し5月21日からパリを包囲したヴェルサイユ軍によるコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺が行なわれ「血の一週間:la semeine sanglante」と呼ばれる戦闘により3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリコミューンは瓦解し、ペール・ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後に5月28日パリは鎮圧される・・・
そんな時クレマンは、手に桜んぼの入った籠を携えてやって来た、野戦病院で負傷兵の手当てをしている、20歳過ぎのルイーズ・ミシェル:Louise Michelと、フォンテーヌ・オ・ロワ通りのバリケードで出会い、クレマンはその姿に感銘を受けた・・・
そして、彼のシャンソンは彼女に捧げられ・・・
「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦、勇敢なる市民ルイーズに」
"A la vaillannte cityenne Louise, l'ambulanciere de la rue Fontaine-au-Roi le dimanche 28 mai 1871."
そして「あの時から、この心には、開いたままの傷がある」と3節しかなかった詩に、第4節を付け足し「パリ・コミューンの音楽」としてこの歌は完成しパリの人々に歌われる。
が、しかしその後、クレマンはルイーズと再び巡り会うことは無かった・・・
「さくらんぼの実る頃」 作詞:ジャン=バティスト・クレマン 作曲:アントワーヌ・ルナール さくらんぼの実る頃に 陽気なナイチンゲールやマネシツグミが みな浮かれ出す 美しい女たちは物狂おしい思いにとらわれ 恋人たちの心は明るく さくらんぼの実る頃に マネシツグミはさらに上手にさえずる けれど、さくらんぼの実る頃は短い 二人連れ立って、夢見ながら 耳飾りを摘みに行く季節は おそろいのドレスを着た恋の桜んぼが 血のしずくのように葉蔭に落ちている けれど、さくらんぼの実る頃は短い 夢見ながら珊瑚色の耳飾りを摘む季節は 恋の痛手が怖いのなら 美しい女たちを避けなさい 悲惨な苦しみを恐れない私は 一日たりとも苦しまずに生きることはない さくらんぼの実る頃に あなたたちもまた、恋に苦しむことでしょう 私はいつまでもさくらんぼの実る頃を愛する あの時から、この心には 開いたままの傷がある 幸運の女神が私に与えられても この傷を癒すことはできないでしょう いつまでもさくらんぼの実る頃を愛する そして、心のなかのあの思い出も |
Musique de la Commune de Paris - 1871 - Le temps des cerises (2:24)
「パリ・コミューンの音楽」-1871-「さくらんぼの実る頃」
https://www.youtube.com/watch?t=134&v=OidIzOPERp8
Interprétée par Hervé David, accompagné au piano par Benjamin Intartaglia.
Célèbre chanson de Jean-Baptiste Clément datant de 1866,
dédiée par l'auteur à une infirmière morte lors de la Semaine sanglante,
longtemps après la rédaction de la chanson.
"Le Temps des cerises"
Paroles:Jean-Baptiste Clement
Musique:Antoine Renard
Quand nous en serons au temps des cerises
Et gai rossignol et merle moqueur
Seront tous en fête
Les belles auront la folie en tête
Et les amoureux du soleil au coeur
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur
Mais il est bien court le temps des cerises
Où l'on s'en va deux cueillir en rêvant
Des pendants d'oreilles
Cerises d'amour aux robes pareilles
Tombant sous la feuille en gouttes de sang
Mais il est bien court le temps des cerises
Pendants de corail qu'on cueille en rêvant
Quand vous en serez au temps des cerises
Si vous avez peur des chagrins d'amour
Evitez les belles
Moi qui ne crains pas les peines cruelles
Je ne vivrai pas sans souffrir un jour
Quand vous en serez au temps des cerises
Vous aurez aussi des chagrins d'amour
J'aimerai toujours le temps des cerises
C'est de ce temps-là que je garde au coeur
Une plaie ouverte
Et Dame Fortune, en m'étant offerte
Ne saura jamais calmer ma douleur
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au coeur
社会主義的な労働組合活動に参加ながら1903年死去する。
亡骸は、ペール・ラシェーズ墓地で連盟兵が立てこもり、
捕らえられ敷地内の北東にある壁の前で全員銃殺された「連盟兵の壁」の正面に埋葬されている・・・
そして今では懐メロとなった1960年頃の「シャンソン:Chanson」の、
この「さくらんぼの実る頃」"Le Temps des Cerises"は、
パリ・コミューンの決起の場所だったモンマルトルに、
今も佇むシャンソニエ(シャンソン酒場)の「ラパン・アジル: Au Lapin Agile」などで今も歌われ、
1992年にはスタジオジブリのアニメ映画「紅の豚」の挿入歌として、
歌手の加藤登紀子が歌っている・・・
http://www.au-lapin-agile.com/
(表紙の音楽はフランスのシャンソンを代表する歌曲「さくらんぼの実る頃」仏: Le Temps des cerises)
(以下・参考サイト)
「さくらんぼの実る頃」(さくらんぼのみのるころ、仏: Le Temps des cerises)はフランスのシャンソンを代表する歌曲。
銅工職人でパリ・コミューンの一員であったジャン=バティスト・クレマン(Jean-Baptiste Clément)が作詞し、それにテノール歌手のアントワーヌ・ルナール(Antoine Renard)が曲を付け、1866年に発表された。
歌詞はタイトルの通りサクランボの実る頃の儚い恋と失恋の悲しみを歌った曲であるが、パリ・コミューンの崩壊後の1875年前後からコミューンへの弾圧、特に参加者が多数虐殺された「血の一週間」を悼む思いを込めて、第三共和政に批判的なパリ市民がしきりに歌ったことから有名になった。
イヴ・モンタン、コラ・ヴォケール、ジュリエット・グレコなどシャンソンの代表的な名歌手が持歌にしてきた。
日本語題は「桜んぼの実る頃[1]」または「さくらんぼの季節(こちらのほうが原題の直訳に近い。ともに用字は各種ある)」「桜の花咲くとき[1]」などで、日本でも古くから親しまれている。
1992年にはスタジオジブリのアニメ映画『紅の豚』の挿入歌として用いられた。加藤登紀子演じるマダム・ジーナがこの曲をフランス語で歌う場面が登場する。同年に発売された加藤のシングル「さくらんぼの実る頃」にはフランス語版と日本語版が収録されていた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/さくらんぼの実る頃
さくらんぼの季節/LE TEMPS DES CERISES
作詞:J=B.クレマン|作曲:A.ルナール|1868年発表
http://www.geocities.jp/ezokashi/f_letempsdescerises.html
さくらんぼの実る頃 "Le Temps des cerises"
http://guchini.exblog.jp/i258/
http://la-chansonet.com/CagazeFiles/cerises.html
Jean Baptiste Clément est un chansonnier, montmartrois et communard français né à Boulogne-Billancourt (Seine) le 31 mai 1836 , mort à Paris le 23 février 1903 . La plus grande partie de son répertoire est aujourd'hui oubliée, excepté ...
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Baptiste_Clément
http://www.musimem.com/temps_des_cerises.htm
Antoine-Aimé Renard, né le 15 février 1825 à Lille (Nord), rue Saint-Sauveur, et mort le 9 mai 1872 à Paris, est un ténor d'opéra français, connu surtout pour avoir composé en 1867 la musique du Temps des cerises, la célèbre chanson de ...
http://fr.wikipedia.org/wiki/Antoine_Renard
パリ・コミューンの詩人たち──ジャン・バティスト・クレマン
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1395.html
パリ・コミューンの詩人たち──ジャン・バティスト・クレマン
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1395.html
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1397.html
http://www.kokuminkaikan.jp/chair/detail20121117.html
http://ml.naxos.jp/opus/428816
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3131301.html
http://video.fc2.com/content/20131214t1QacmTp
http://m.youtube.com/watch?v=5_s8yfg3k9g
http://blogs.yahoo.co.jp/arahtte7/49616796.html
パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris CommuneまたはFourth French Revolution)は、パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(la Commune)のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」(マルクス)による自治政府を宣言したパリのコミューン(la Commune de Paris 1871)について説明する。
このパリ・コミューンは約2ヶ月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された・・・
パリ市民の蜂起
1871年3月18日ティエールはパリの治安回復を目的とする武装解除の先端として、パリ防衛の重要な堡塁であったモンマルトルの丘から、国民衛兵が所持するパリ市民の寄付による大砲200門余を取り除く指示を下した。 ルコント将軍とパチュレル将軍指揮の下大砲の撤去を実施するが、これを偶然目撃した女性兵士の一群が撤去に抵抗した・・・
コミューンの宣言
国家機構から放棄されたパリ市民は、国民衛兵中央委員会の下でコミュニティを通じて、自発的に行政組織を再稼動させた。 国民衛兵中央委員会は自らの権力基盤を正当化するために3月26日パリ市民による代表制普通選挙が行われた。その後1871年3月28日にパリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日までパリを統治することとなる。その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合の設立、女性参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、失業や破産などによる社会保障などの革新的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた・・・
コミューンの終焉
「血の1週間」と呼ばれる戦闘により3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリコミューンは瓦解、ペール・ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後に5月28日パリは鎮圧された。 戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍の白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判により老若男女を問わず銃殺された。ヴェルサイユ政府は国民衛兵の死体を葬ることを許さなかった(結局悪臭で迷惑になったため禁令が解かれる)。 銃殺をまぬがれた捕虜、外国人、密告により通報された市民など約5万人がヴェルサイユに連行された。亡命したコミューン活動家にも追及の手がおよんだ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/パリ・コミューン
パリ・コミューンは、フランス革命のさなか、1789年から1795年まで存在したパリ政府のことである。バスティーユ襲撃の直後、オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎)に設立され、フランス中央政府からの命令を断固として拒絶し、1792年の夏にコミューンは反乱者になった。
初代の市長はジャン=シルヴァン・バイイである。しかしバイイがシャン・ド・マルス公園の暴動集会(1791年7月17日)を鎮圧するために国民軍(英語版)を動員したことは不評を買い、1791年11月にペティヨン・ド・ヴィユヌーヴ(英語版)が役職を引き継いだ。1792年には辞退条令(英語版)により立法議会に参加していないジャコバン(英語版)たちがコミューンの主導権を得た・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/パリ・コミューン_(1792年)
パリ、血の一週間
http://www.kobemantoman.jp/sub/105.htm
― パリ・コミューンをみた日本人(Adobe PDF) - htmlで見る
repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8832/.../60-4miyanaga1.p...
普仏戦争(ふふつせんそう、仏: Guerre franco-allemande de 1870、独: Deutsch-Französischer Krieg)は、第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/普仏戦争
モンマルトルのサクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)
第三共和政の憲法が発布された1875年に、フランスの新しい政体の門出を祝う意味合いを籠めて、政府による直接的な支援を受けて建設がはじまった。当時は普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンによって命を失ったフランス市民を讃える公共建造物としても考えられていたが、年月が過ぎるにつれてその位置づけが自ずと変容してしまう・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/サクレ・クール寺院
フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、La troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランスの共和政体である。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。
黎明期の第三共和制議会は君主制の復権を掲げる勢力が多数を占めていたが、その君主の性質などをめぐりボナパルティストおよび王党派様々な対立があり機を逃した。最終的にレジティミストの推すシャンボール伯アンリが1883年に没すると世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。結果として、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランス第三共和政
本来、シャンソン (chanson) は、フランス語で歌の意味である。したがって、少なくとも現代のフランス語圏においては、シャンソンは歌全般を意味し、特定ジャンルの楽曲を指すものではない。他言語圏ではフランス語で歌われる曲という意味で使われることが多く、この場合も何らかの音楽的特徴を持つものではなく、中世の「武勲詩」や「きらきら星」、「ラ・マルセイエーズ」なども広義のシャンソンである。そのため、歌謡曲としてシャンソンは「モダンシャンソン」、「パリジャン・シャンソン」などと呼ばれるほかシャンソン・ド・ボア(動きのないシャンソン)、シャンソン・ド・シャルム(魅惑的なシャンソン)、シャソン・ド・レアリスト(リアリスティックなシャンソン)、シャソン・ド・サンチマンタル(センチメンタルなシャンソン)、シャソン・ド・ファンタジスト(動きのあるシャンソン)といった風に、「シャンソン」という語に何らかの形容詞を付け分類する。なおイタリア音楽のカンツォーネ (Canzone) とは元々の語源は同じである・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/シャンソン
モンマルトル (Montmartre) はパリで一番高い丘。もともと、この丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。 現在は、もっぱらパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/モンマルトル
モンマルトルのラパンアジル(Au Lapin Agile)
http://en.wikipedia.org/wiki/Lapin_Agile
http://fr.wikipedia.org/wiki/Lapin_Agile
ラパン・アジル | トリコロル・パリ : パリとフランスの旅行・観光情報
http://tricolorparis.com/visiter/monument/lapin-agile/
ラパンアジル この種のワイン1杯込みの歌声酒場はシャンソニエと呼ばれ、歌われる曲 は古くからある曲が主で、我々日本人は知らない曲が多かったようです。 ... それでは、 ラパンアジルHPで「さくらんぼの実る頃」を聴いてみましょう・・・
http://02219715.at.webry.info/201211/article_1.html
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