ぶらり京都-92 [千本釈迦堂]
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西陣織りのカシャカシャと機械の音が路地に聞こえる街並の一角に、京都市内で最古の木造建築物として、1227年(安貞元年)の創建以来、応仁の乱などの幾多の戦火を免れた本堂に、慶派の快慶作の高さ約90cm、玉眼入りの木造彫刻「釈迦十大弟子像」の10躯と、肥後別当定慶作「六観音菩薩像」高さ約180cmの6躯など、鎌倉時代を代表する慶派のリアリティーを肌で感じながら、「おかめ塚」の逸話の舞台として、本堂建築で棟梁を務めた大工「長井飛騨守高次」の愛妻「おかめ」の物語が伝わる全国のおかめ信仰の発祥の地を歩く・・・
千本釈迦堂|京都市上京区七本松通|Googleマップ
(2015年6月29日撮影)
大報恩寺「千本釈迦堂」 (だいほうおんじ)
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。当初は草堂であったが、摂津尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264 - 1275年)・・・
本堂は応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので、800年近く経った今も当時のまま残る京都市内(京洛)最古の木造建造物として洛中最古の建造物として国宝となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大報恩寺
千本釈迦堂|オフィシャルサイト|トップページ > みどころ
http://www.daihoonji.com/midokoro/#midokoro1
快慶晩年の作とされる、高さ約90cm、玉眼入りの木造彫刻「釈迦十大弟子像」の10躯と、肥後別当定慶作「六観音菩薩像」の、高さ約180cm6躯。特に快慶の10躯から慶派のリアリティーが滲み出る・・・
快慶(かいけい、生没年不詳)
鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに、平重衡の兵火(治承4年・1180年)で壊滅的な被害を受けた東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわった。建久5年(1194年)には東大寺中門の二天像のうち多聞天像を担当したが、これは現存しない。建仁3年(1203年)には東大寺南大門の金剛力士(仁王)像の造営に運慶らとともに参加している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/快慶
肥後別当定慶
(ひごべっとうじょうけい)
(元暦元年/1184年?) 〜没年不詳
(建長8年/1256年以後)
鎌倉時代の仏師。慶派、康慶の弟子といわれるが、運慶の次男康運が改名したという見方が有力。
https://ja.wikipedia.org/wiki/肥後別当定慶
上の2躯が肥後別当定慶/下が快慶→
(写真はネットより抜粋・詳しくは)↓
重要文化財編|千本釈迦堂 大報恩寺
http://www.daihoonji.com/jihou/
jubun.html
大報恩寺「千本釈迦堂」は、嘉禎元年(1235年)に、倶舎・天台・真言三宗兼学の道場として勅許を受け、堂場として隆盛を極め、応仁の乱の兵火等で堂宇を焼失するが、本堂(釈迦堂)だけは焼失を逃れ、正面24.3m、側面28mの入母屋造檜皮葺の寝殿造りの本殿の内陣の柱にはその当時の刀・槍の傷跡は応仁の乱時代の傷跡と伝えられ、この辺りは西軍側の陣地のあった場所だったが、東西両軍の手厚き庇護のもと、特に西軍の将・山名宗全の特別のはからいで、この本堂が残されたと伝わっている・・・
←(本殿内部の刀・槍の傷跡、ネットより抜粋、左上の写真の白いパネルの右側の柱)
「おかめ物語」
本堂を造営する際、大工の棟梁であった「長井飛騨守高次」が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大報恩寺
京都の千本釈迦堂には本堂を建てた大工の棟梁を助けたうえ命を絶った妻のおかめの伝説がある。そのため京都で棟上げ式を行うときおかめの面を御幣に付ける習慣がある。建築土木の現場では、土や砂利、コンクリートなどを掻き寄せたり、敷き均すための用具である「鋤簾」(じょれん)を「阿亀」(おかめ)と呼ぶ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/おかめ
(以下・参考サイト)
千本釈迦堂(大報恩寺)その1
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/54962327.html
千本釈迦堂(大報恩寺)その2
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/54962730.html
大報恩寺(千本釈迦堂)|京都観光Navi
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000160
ちょっと言いたくなる京都通
http://www.itohkyuemon.co.jp/site/kyoto/tuu302.html
第2回 京都おもしろ講座と社寺拝観
http://kyo-seiyu.seesaa.net/article/159081859.html
<千本釈迦堂 大報恩寺>
http://plaza.rakuten.co.jp/cotton12/diary/201201140000/
定慶 千本釈迦堂千本釈迦堂
http://pocomom12.blog.fc2.com/blog-entry-1263.html
大報恩寺(千本釈迦堂)
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000160
快慶 十大弟子像
http://www.rinku.zaq.ne.jp/kazu_san/hyaku_daihouonji.htm
十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと 。 十大弟子[編集]. 経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、維摩経では出家 順に以下の通りである。 ... 著名な十大弟子像/ 十大弟子図(釈迦の)[編集]. 十大弟子像 ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/十大弟子
本尊・釈迦如来坐像と十大弟子像
『本尊・重文釈迦如来坐像(秘仏、六道まいり〔8/6~16〕に開扉、像高89.3cm)は快慶の弟子行快の作で、それに随侍する重文・十大弟子像(収蔵庫で公開、像高94.4~99.2cm)は快慶の作。
つまり主役を弟子が、脇役を師匠が制作しているわけで、これをどう考えるかが問題となる。毛利久氏は「快慶が、若い弟子の行快を立てた」とみたが、快慶が造った創建当初の本尊像が何らかの事情で失われたのち、高弟の行快が制作したという見方もできる。』という解説でした。なるほど ・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/33349975.html
慶派(けい は)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派。定朝の孫頼助に始まる奈良仏師の 傍系出身だが、七条仏所を形成、主流派をなす・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/慶派
https://ja.wikipedia.org/wiki/快慶
https://ja.wikipedia.org/wiki/肥後別当定慶
https://ja.wikipedia.org/wiki/定慶
https://ja.wikipedia.org/wiki/准胝観音
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