ぶらり京都-94 [渡月橋の鵜飼い船]
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涼を求めて竹林を抜け、夏の装いを見せる桂川河畔を歩くと、
鵜飼い船の向こうに、
梅雨が開けそうな渡月橋の空を見上げ家路につく・・・
嵐山|渡月橋|京都市西京区嵐山|Googleマップ
(2015年6月29日撮影)
その路は・・・
愛する人と語り合うもよし・・・
一人物思いにふけり、静かに歩むのもよい・・・
そして笹の音と共に、遠い過去や未来たちが、心の中を彷徨うように刻(とき)は流れる・・・
「さ〜?・・・どうどす、やろか?〜」
(まだ、なれてへん・・・上手いこといかん...な〜)
そして、少し陽が傾きかけた河畔にも、
鵜飼い船にかがり火が入り、
夕日とともに川面に「暑」を流し、夜の「涼」がやってくるのだろう・・・
梅雨も開けそうな渡月橋の空を後にする・・・
(以下・参考サイト)
鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る漁法のひとつ。中国、 日本などで行われている漁業の方法である。ヨーロッパでは16世紀から17世紀の間、 スポーツとして行われた。日本の鵜飼は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、 福岡 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/鵜飼い
「鵜飼」(うかい)は能の演目の一つ。五番目物、鬼物、太鼓物に分類される。禁漁の罪を犯したために殺された漁師の悲劇と、その鵜飼の業の見事さ、そして「法華経」による救済を描く
あらすじ
安房国清澄出身の僧(ワキ)が、従僧(ワキヅレ)を伴い、甲斐国石和を訪れる。一行は所の男(アイ)に教えられた川辺の御堂に一晩を過ごすことにするが、その夜、松明を持った鵜使いの老人(前ジテ)が姿を見せる。話すうちに従僧が、かつてこの地を旅した際、よく似た鵜使いに一宿一飯の恩を受けたことを思い出すと、老人は「その鵜使いは後に、禁漁の石和川で鵜を使って漁をしたために、仲間たちの私刑に遭い簀巻きにされて川に沈められて殺されました」と語り、実は自分こそが、その死んだ鵜使いの亡霊なのだと名乗る。老人は僧の求めに応じて、懺悔のためにかつての鵜飼の業を披露する。その面白さに、老人は殺生の罪も忘れて酔いしれるが、やがて闇の中に姿を消す・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/鵜飼_(能)
桂川(かつらがわ)は京都府を流れる淀川水系の一級水系・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/桂川_(淀川水系)
渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある。
承和年間(834年 - 848年)に僧、道昌が架橋したのが始まりとされ、現在の位置には後年に角倉了以が架けたとされる。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられた。現在の橋は1934年(昭和9年)に完成した。橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製だが、欄干部分は景勝地である嵐山の風景にとけ込むよう木造となっている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/渡月橋
←角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614年8月17日))は、戦国期の京都の豪商。朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/角倉了以
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