感性の数式 「内藤多仲のタワー六兄弟」
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そして今や人々と共に歩んだそれらのタワーたちも、しっとりと時代に馴染む姿が街に浮かび上がる・・・
「塔博士」と呼ばれた内藤多仲(ないとう たちゅう)は、1886年に山梨県中巨摩郡榊村(現・南アルプス市)に生まれ、東京帝国大学(現・東京大学)で造船学を学び、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向し、工学としての建築、とくに耐震工学に重きを置く、建築構造学者・佐野利器(さの としかた)に師事し構造学を学び、1913年に早稲田大学教授となり、1917から1918年、アメリカへ1年間留学、後に「耐震構造の父」と評される「架構建築耐震構造論」で1924年に博士号を取得する・・・
この耐震構造理論で1923年竣工の日本興業銀行本店や歌舞伎座等の構造設計を実施する。その矢先の1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源としたマグニチュード7.9の「関東地震」が起こり関東一円瓦礫の山と化す中、興銀は無事、建設工事中の歌舞伎座は内部は焼失したが、躯体は無事だったことで内藤の耐震構造理論は見事実証されることとなった。
戦後この耐震構造の「数式」をもとに、東京タワー、二代目の通天閣など、70基ほどの鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ「塔博士」とも呼ばれ、1950年代から1960年代にかけて設計された前記した6つのタワーを称し「タワー六兄弟」と呼ばれている・・・
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←(上から順に)
名古屋テレビ塔(1954年)/通天閣・2代目(1956年)/別府タワー(1956年)/さっぽろテレビ塔(1957年)/東京タワー(1958年)/博多ポートタワー(1964年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/タワー六兄弟
イギリスに始まる産業革命は、産業機械以外に機能のみの構造によって創り上げた美しい形の構造物を生み出した。特に、鉄道の発達による鉄橋や放送電波を発信する塔、そして高層ビルへと、それらは総て静止力学の「数式」によって成り立っている。
では、その「数式」から生まれた「美(きれい)」とは如何なる歩みを経たのだろう?・・・
The Cast Iron Bridge near Coalbrookdale|by William Williams|1780年
Oil on canvas| 88.6 x 103.3 cm|Ironbridge Gorge Museum Trust蔵
↓(1890年に完成のフォース鉄道橋:Forth Bridge)
1779年の産業革命時代頃に建造された世界最古の鉄橋。現在世界遺産となっているイングランド、シュロップシャー の通称アイアンブリッジ(Ironbridge)と呼ばれる「コールブルックデール橋:Coalbrookdale」や、イギリス・スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架かる、トーマス・バウチ設計の、全長2,530mのカンチレバートラス橋で1890年に完成した、鋼鉄の美しい「フォース鉄道橋:Forth Bridge」は、完成後100年以上たった現在でも現役で使用されている・・・
そして、1670年代に入ると、ドイツ・ボヘミア・イギリスの各地でも同時多発的に無色透明なガラスの製法が完成する・・・
1851年(嘉永3年)には世界初の万国博覧会であるロンドン万国博覧会が開催されるが、そのメイン会場として建設された右の「水晶宮」は鉄とガラスによって作られた巨大な建物であり、科学と産業の時代の象徴として注目を浴びた。それは古代ローマ人が創った2,000年余の石の構造物から、近代文明の鉄の構造物へと時代の扉を開けながら、当時の人々が眼にしたその異様な美しさは如何ほどのものだったのだろう?・・・
そしてパリの「エッフェル塔」・・・
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のためにギュスターヴ・エッフェルによって建造され、建設当時はあまりに奇抜な外見のため賛否両論に分かれ、ギ・ド・モーパッサンは「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれている・・・
現在は軍事用の無線電波塔として使用され、今やパリを代表するシンボルとなっている。
しかし、それらを眼にした当時の人々が感じた異様な美しさ?それは、ブリッジやタワーに止まらず、ビルや一般住宅や生活品にまでも飲み込んでいった・・・
フランス人、レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)が第一次世界大戦後の1919年にニューヨークへ渡り、1934年、ペンシルバニア鉄道の電気機関車GG1を風洞実験の結果から、かろやかな「流線型」を生み出し、力学的な形態により設計され、以後、自動車や飛行機など速度を要求される対象に「数式」からうまれた「流線型」は時代を席巻し、彼は言う「口紅から機関車まで」と・・・
では「美」は「数式」のみで生まれるのだろうか?
1919年にドイツ・ヴァイマルに設立された「バウハウス(Bauhaus)」・・・
ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間に、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及、また大量生産のガラスを使用したモダニズム建築を創りあげる・・・
1930年からバウハウスの第3代校長を務めた、ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)は、1933年にナチスによってバウハウスが閉鎖されたため、アメリカに亡命し、1938年から1958年にはシカゴのアーマー大学(現・イリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務め・・・
「Less is more (より少ないことは、より豊かなこと)」
そしてその細部は・・・
「God is in the detail (神は細部に宿る)」
と述べ、1958年竣工のニューヨークのシーグラムビル。柱と梁によるラーメン構造の「数式」によって、ガラスと鉄とセメントからアメリカの摩天楼は生まれた・・・
しかし、それらの数式から生まれた摩天楼は我々の感性を総て満たした訳ではなかった・・・
ポストモダンの建築家、ロバート・ヴェンチューリは、ミースの標語「Less is more.」をもじり、「Less is bore(より少ないことは退屈だ)」だと・・・
そこに、バウハウスが築いたモダニズムの上に新たにポストモダニズム:Postmodernismの様式が生まれ、より人間的なものへと進化する・・・
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← 内藤 多仲:ないとう たちゅう
Tachū Naitō(1886年〜1970年)
昨今、コンピューターの進化と共に、より「数式」の頻度は高度で且つ早く正確に出来上がる・・・
そしてデジタル化の流れは、ここ20年余の間に一般の人々に普及し、今までのデザイン的なプロユーズのCMYKやRGBと云われる絵具や光りの色やグラデーションに透明度も総て%で、誰にでもわかる数式に置き換えられた。しかも、それは通信を伴いアクセスするもの同士の共有情報となりより早く多くを増殖する・・・
それが近年コンピューターとの関わりで、
同時に創り出す作業や、人々の感覚的な思考の領域にあらゆる「数式」が導き出された・・・
我々の日常の行動や感覚や趣向をも、
その集められたビッグデーターから人々の未来予測や感情のさまを、
「数式」で紐解き「美」を導き出し始めた。
それは、今まで開発商品のマーケティングなどに見られたように、
「勘」や「感覚」などで読み解いていた曖昧模糊とした感性の領域を正確に解明し、
近年、我々にその中身をされけ出すかも知れない。
それは先人たちが「数式」を紐解き「美」を見つけ出したように、
「数式」のなかに「美」が、「美」のなかに「数式」が潜んでいる事を意味する・・・
しかし、「数式」のみで「美(うつくしい)」は成り立たない。
その間に人間の知の想像がある限り「美」とその「数式」は互いを引っ張り合い、組しながら、
その関係はよりもっと密になり、感性の深部まで潜り込み、
今よりもっとデジタル化されたビットの数値的正確性の「感性の数式」を見つけ、
我々に時代の美しき断片を魅せるだろう・・・
(以下・参考サイト)
内藤多仲(ないとう たちゅう、1886年6月12日 - 1970年8月25日)は日本の建築構造 技術者・建築構造学者。一級建築士(登録番号第17200号)。「耐震構造の父」と評され る。「塔博士」とも呼ばれている。
[主な設計]
日本興業銀行本店(1923年)
歌舞伎座(1923年)
東京電灯千住火力発電所(1925年)
早稲田大学大隈記念講堂(1926年)
大丸心斎橋店(1933年)
世界平和記念聖堂(1954年)
山梨県民会館(1957年)
甲府市役所1号館(1961年)
日生劇場(1963年)
山梨県庁舎本館(1963年)
新宿区役所(1965年)
八重洲ダイビル(1965年)
戦後は東京タワー、二代目通天閣など多数(70基)の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。4000メートル塔の構想もあり図面を残している。
次男・内藤多四郎も構造設計の道に進み、日本建築積算協会顧問[2]。
唯一の趣味が能であり、自ら演じた。「能を演じるのと構造設計とは同じくやり直しがきかぬ所に無限の味わいがある」とは多仲本人の言葉である。
1970年8月25日9時5分、第一国立病院(現・国立国際医療センター)で死去。84歳。遺骨は多磨霊園内にある内藤家の墓地に埋葬された。墓地の右側には墓誌が、左側に銅像と顕彰記がある ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/内藤多仲
佐野 利器(さの としかた、1880年(明治13年)4月1日 - 1956年(昭和31年)12月5日) は日本の建築家、構造学者。芸術としての建築より、工学としての建築、とくに耐震工学 に重きを置き、日本の構造学の発展に貢献した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐野利器
タワー六兄弟(タワーろくきょうだい)は、日本の建築構造家・内藤多仲によって1950年代から1960年代にかけて設計された以下の6つのタワーの総称である。名古屋テレビ塔、通天閣(2代目)、別府タワー、さっぽろテレビ塔、東京タワー、博多ポートタワー(竣工順)。第二次世界大戦後の1950年代から1960年代にかけて、北海道から九州に及ぶ日本各地に建てられた塔で、いずれも都市の中心部に位置し、展望台...
https://ja.wikipedia.org/wiki/タワー六兄弟
内藤多仲は東京タワー、名古屋テレビ塔、大阪通天閣を設計した建築家
http://poyoland.jugem.jp/?eid=218
【東京タワー】塔博士 内藤多仲が設計したタワー6兄弟【通天閣】
http://matome.naver.jp/odai/2133714130683472301
東京タワー TokyoTower オフィシャルホームページ
http://www.tokyotower.co.jp/index.html
東京タワーと東京都庁舎がライトアップ
http://matome.naver.jp/odai/2133782546539846001
http://blogs.yahoo.co.jp/nostalgic_white_nights/folder/323292.html?m=lc
『タワー 内藤多仲と三塔物語』 橋爪紳也ほか著
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/recommend/?p=1089
【東京タワー】塔博士 内藤多仲が設計したタワー6兄弟【通天閣 ...
http://matome.naver.jp/odai/2133714130683472301
内藤多仲博士記念館(旧自邸)見学会とトーク イベントレポート - LIXIL
http://www1.lixil.co.jp/culture/event/040_gallery/000467.html
INAX BOOKLET タワー 内藤多仲と三塔物語 |雑誌・書籍|X ...
http://www.xknowledge.co.jp/book/detail/86480702
建築構造学事始 | 震度0.1にまつわる話(7)(内藤多仲が採用していた震度)
http://ksmknd16.blog.fc2.com/blog-entry-72.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/イギリスの世界遺産
「アイアンブリッジ峡谷」は、世界最古の鉄橋が架かる渓谷で、イングランド東部、シュロップシャー州に位置し、産業革命が始まった場所とも言われ、アイアンブリッジ(正式名称:コールブルックデール橋)は、産業革命時代の1779年に建造された世界最古の鉄橋です。
https://www.travelbook.co.jp/topic/69
https://ja.wikipedia.org/wiki/アイアンブリッジ峡谷
「フォース鉄道橋」(Forth Bridge)は、イギリス・スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架かる鉄道橋である。全長2530mのカンチレバートラス橋で1890年に完成した・・・
http://worldheritagesite.xyz/forth-bridge/
158705 cab ride over forth rail bridge
https://www.youtube.com/watch?v=XLvSWDgYCu8
https://ja.wikipedia.org/wiki/フォース鉄道橋
日本の鉄道橋|南河内橋(みなみかわちばし)
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100287.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/河内貯水池
https://ja.wikipedia.org/wiki/河内貯水池#.E5.8D.97.E6.B2.B3.E5.86.85.E6.A9.8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄道橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/ガラス
https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄
水晶宮(すいしょうきゅう、英語: The Crystal Palace)は、1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた第1回万国博覧会の会場として建てられた建造物。ジョセフ・パクストン設計。鉄骨とガラスで作られた巨大な建物であり、プレハブ建築物の先駆ともいわれる。パクストンの設計では長さ約563m、幅約124mの大きさであった。なお、水晶宮という名称はイギリスの雑誌『パンチ』のダグラス・ジェロルドによって名づけられたものである。
万博終了後は一度解体されたものの、1854年にはロンドン南郊シデナムの丘において、さらに大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデン、コンサート・ホール、植物園、博物館、美術館、催事場などが入居した複合施設となり、多くの来客を集めていた。1870年代頃から人気に陰りが見え始め、1909年に破産した。その後は政府に買い取られ、第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用され、戦後一般公開が再開されたが、1936年11月30日に火事で全焼してしまった・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/水晶宮
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペティションに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。
1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。
建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで行われ、1人の死者も出さなかった。総工費は650万フランであった・・・
[当時の評価]
あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[3]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[4]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた・・・
[エッフェル塔をめぐる論争]
先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の「ル・タン(Le Temps)」紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、エルネスト・メソニエ(画家)、ウィリアム・ブーグロー(画家)、シャルル・グノー(作曲家)、シャルル・ガルニエ(建築家)、アレクサンドル・デュマ・フィス(作家)、ルコント・ド・リール(作家)、ギー・ド・モーパッサン(作家)らがいる。以下はその文書の一部である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/エッフェル塔
アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832年12月15日 - 1923年12月27日)は、フランスの技師、構造家、建設業者。一般にはエッフェル塔を設計した人物として知られる。エッフェルはコンテストへのプラン提出責任者、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。ガーターベルトの原型の発案者[要出典]として、また航空力学の研究発展に寄与したことでも知られる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ギュスターヴ・エッフェル
レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy 、1893年11月5日 - 1986年7月14日)は、フランス、パリ出身のデザイナー、フランス軍大尉。主にアメリカ合衆国で活動し、インダストリアルデザインの草分けとして知られる。「口紅から機関車まで」と言われるように様々な分野で活躍した。フランス語読みではレーモン・レヴィ・・・
1934年、ペンシルバニア鉄道の電気機関車GG1を風洞実験の結果、かろやかな流線型にリ・デザインする。この流線型デザインは力学的な形態の倫理により発見、設計され、以後、自動車など速度を要求される対象に採用される時代が始まった。速度、進歩、現代性などの表現として、様々なデザインにも引用される様になった。このような形状(ストリームライン・モダン)は時代の流行となり、当時のアール・デコスタイル装飾に用いられるなど主要なモチーフにもなった。デザインが流行として消費され、陳腐化させられる時代の到来でもあった。1938年、アメリカ市民権を取得し140社もの企業のデザイン・コンサルタントをつとめた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/レイモンド・ローウィ
バウハウス(ドイツ語: Bauhaus, バオハオスとも)は、1919年、ドイツ・ヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた(モダニズム建築、20世紀美術の項を参照)。バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味する。中世の建築職人組合であるバウヒュッテ (Bauhütte, 建築の小屋) という語をグロピウスが現代風に表現したものである・・・
[運営に係わった人物]
ヴァルター・グロピウス
ミース・ファン・デル・ローエ
パウル・クレー
ヨゼフ・アルバース
ヨハネス・イッテン
テオ・ファン・ドースブルフ
モホリ=ナジ・ラースロー
ワシリー・カンディンスキー
リオネル・ファイニンガー
ヘルベルト・バイヤー
オスカー・シュレンマー
ピート・モンドリアン
マーセル・ブロイアー
https://ja.wikipedia.org/wiki/バウハウス
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日 – 1969年8月17日)は、20世紀のモダニズム建築を代表する、ドイツ出身の建築家。
ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされる。
「Less is more.」(より少ないことは、より豊かなこと)や「God is in the detail」(神は細部に宿る)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示した・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミース・ファン・デル・ローエ
ポストモダン(英: Postmodern)とは、「モダン(近代)の次」という意味であり、モダニズム (近代主義)がその成立の条件を失った(と思われた)時代のこと。ポストモダニズム ( Postmodernism) とは、そのような時代を背景として成立した、モダニズムを批判する ...
建築においては、装飾を排して「禁欲的な四角い箱」とも評される機能主義・近代合理主義に基づくモダニズム建築に対する反動として現れた。多様性、装飾性、折衷性、過剰性などを特徴とする建築のことで、1980年代はポスト・モダンの時代であると盛んにいわれ、それらの手法を顕著に具現し内・外観を特徴づけられて多くが建設された。とくに日本では「バブル景気」とも呼ばれた好景気に支えられて、ふんだんな建設費を背景に様々な実験とも見られる建築デザインが試みられ、長期にわたる企画と工期を要求される建設事業においてはバブル崩壊後の1990年代にまでその後遺は及んだ。一般に、現代人が外見的に見て特異な印象をうけるその時代の建築物は、ポスト・モダンの影響を受けたデザインのものであることが多い・・・
ポスト・モダンのプロダクト・デザインには、イタリアのデザイン集団「メンフィス」 (Memphis) がある。デザイナーのエットレ・ソットサスを中心に1981年に結成され、当初はミケーレ・デ・ルッキらイタリア人で構成され、後にインターナショナルになった。独自の形態、明るい色彩に特徴があり、家具・生活用品などにその無国籍なデザインと才能が評価され、世界的に知名度が高まった。好景気に沸いた1980年代の東京には世界中からポスト・モダンデザインの建築物やインテリア、什器などの商品が押し寄せ、溢れた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポストモダン
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