あるく奈良-21 [橘寺]
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秋晴れの下、なだらかな段々畑の坂を登り西門から入り参拝する・・・
橘寺|明日香村|奈良県|Googleマップ
(2015年9月26日撮影)
「橘寺」(たちばなでら)
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する・・・
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。
発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/橘寺
「聖徳太子」(しょうとくたいし)
敏達天皇3年(574年)〜 推古天皇30年(622年)
飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた・・・
本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また、母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説や、生誕地の近辺にある厩戸という地名から名付けられたとする説もある・・・
太子の愛馬「黒駒」→
https://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子
(以下・参考サイト)
橘寺|聖徳太子建立とされる7寺の一つ。太子が居住した上宮の跡とする伝承あり。
http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/tatibana_dera.htm
橘 寺(たちばなでら)
http://www9.plala.or.jp/kinomuku/tachibana.html
新西国第十番|仏頭山上宮皇院 橘寺
http://www.y-morimoto.com/s_saigoku/s_saigoku10.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/橘寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子
用明天皇/橘豊日皇子(たちばなのとよひのすめらみこと)
和風諡号は、『日本書紀』では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、『古事記』では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。 なお諱を池辺皇子(いけのべのみこ)というのは、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の表記に基づくものであり、日本書紀で ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/用明天皇
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。
狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥時代
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