あるく奈良-22 [天武持統天皇陵]
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天皇陵では珍しい、第40代「天武天皇」と第41代「持統天皇(女帝:鸕野讃良/うののささら)」の、
夫婦合葬の「天武持統天皇陵」(檜隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ) がある。
その陵は、今は訪れる人も珍しいのか、明日香の地に静かにこんもりと佇んでいた。
この時代、この天皇夫婦が世に継承し守りぬいたのは何だったのだろう・・・
天武持統天皇陵|明日香村|奈良県|Googleマップ
(2015年9月26日撮影)
神武天皇に始まる倭国(大和朝廷)は、この国の最初の女帝、推古天皇を補佐し斑鳩の地を駆け抜けた、甥の用明天皇の第二皇子の厩戸皇子(うまやどのおおじ)こと、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し、三宝(仏・法・僧)を敬い冠位十二階や十七条憲法を進め、49歳でこの世を去ったのが622年、更に4年後の626年に近親の蘇我馬子も亡くなり、叔母の推古天皇も628年に75歳で崩御し、そしてこの国の長い歴史が始まる・・・
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが、長年にわたり強盛を誇った推古・聖徳太子一派の蘇我馬子の子と孫である蘇我蝦夷・蘇我入鹿の蘇我本家を、飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い甘樫丘(あまかしのおか)の麓に住んでいた邸宅ごとをすべて焼き払い、蝦夷はその邸に火をかけて自害する「乙巳の変」の後の、646年(大化2年)の「大化の改新」で、この国は豪族の蘇我氏から藤原氏へ、そして天皇中心へと移る・・・(天香久山▲152m)→
後を継いだ中大兄皇子は、嫁方の父の蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂を殺害、妻の造媛(みやつこひめ/遠智娘)は、父の死を嘆き病死する・・・
その後、中大兄皇子はわが子、鸕野讃良(うののささら)皇女とその姉の大田皇女を、657年、讃良(ささら)13才の時に、讃良(ささら)の叔父さんで自身の弟に当たる、大海人皇子(後の天武天皇)に他に大江皇女、新田部皇女の娘計4人を嫁がせ、替わりに大海人皇子の妻の額田王(ぬかたのおおきみ)と他幾人かと入れ替える嫁さんバーター取引が行われ、名も天智天皇(中大兄皇子)と改める・・・
その時の、夫婦であった大海人皇子と額田王の別れを惜しむ歌が残っている・・・
「茜指す 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(巻1・20・額田王)
(あかね色に輝く紫野を 標野を行き来するあなた、そんなに袖を振っておられると野守にみられてしまいますよ)
「紫の 匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」(巻1・21・大海人皇子)
(紫に美しく輝くあなたを嫌う訳があれば、人妻であるあなたになぜこんなにも恋い焦がれるのでしょうか)
当時の朝鮮半島情勢は・・・
6世紀から7世紀の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国が鼎立し、新羅は二国に圧迫され、倭国(大和朝廷)は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていた。
中国の「隋」は度々の高句麗遠征の失敗後に国内の反乱で618年には「煬帝」が殺害されて滅び、その後の628年に国内を統一した「唐」は高句麗へ3度に渡って侵攻し、唐・新羅連合軍と、百済・倭国(大和朝廷)の連合軍と、朝鮮半島での「白村江の戦い」が始まり、倭国(大和朝廷)の天智天皇(中大兄皇子)は、663年に大敗を喫し退却、666年に近江大津宮に遷都する。その半島も668年に高句麗は滅亡し、新羅によって半島統一がなされた・・・
その間の661年に讃良(ささら)は、夫の大海人皇子とともに九州に随行し、662年に筑紫の娜大津(なのおおつ)で17歳の讃良は草壁皇子を産み、翌年に同時に嫁いだ讃良(ささら)の姉の大田皇女も大津皇子を産む・・・
しかし、667年に姉の大田皇女は病死。671年、この国を束ねていた天智天皇(中大兄皇子)は病に倒れ、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は度々権力の陰謀を試みる兄の言葉に拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、讃良(ささら)と共に吉野へ下る。ところが、2ヶ月後に天智天皇(中大兄皇子)は46歳で近江大津宮で崩御する・・・(父の死) 讃良26歳。
そして翌年の672年、天智天皇(中大兄皇子)の子、24歳の大友皇子との間で、古代史最大の内乱「壬申の乱」が起こる。大海人皇子は讃良(ささら)と共に、地方豪族を味方に付け吉野を北上し、琵琶湖の瀬田橋の戦いで勝利・・・讃良27歳。
673年、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移され、大海人皇子は天武天皇となり、681年には『古事記』や『日本書紀』の編纂にとりかかり、690年に着工の藤原宮、その後の710年の奈良の平城京へ、この国は飛鳥の倭国から大和、奈良へ、そして日本国へと国家体制の基礎が固まり始める・・・
がしかし、讃良(ささら)は病がちな天武天皇(大海人皇子)の政務を補佐しながらも、686年に天武天皇(大海人皇子)が55歳で崩御する・・・
同年、姉の大田皇女の子、大津皇子の謀反が発覚して自害、689年に讃良(ささら)と天武天皇(大海人皇子)の皇位継承者の長男、草壁皇子も病死する・・・讃良44歳。
讃良(ささら)は、
草壁皇子の子、讃良(ささら)の孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承させるまで、
持統天皇(讃良:ささら)として690年〜 697年まで女帝として即位し治世を遂行する。
そして、702年に58歳で崩御。天皇で初めて火葬・・・
夫の天武天皇(大海人皇子)の墓に天皇家で初めて「天武持統天皇陵」(檜隈大内陵)として合葬される・・・
讃良(ささら)が飛鳥(奈良県高市郡明日香村)の地で思いを馳せた、誰もが知る歌が残っている・・・
「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」 万葉集 巻1雑歌28
(春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山)
藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌
(春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。白い夏衣を干している天の香具山よ)
↓(天香久山▲152m)
593年(推古天皇元年)に聖徳太子が摂政になってから、
持統天皇(讃良:ささら)による、藤原京へ移転後の694年(持統天皇8年)まで、
この地で起こった様々の、その約102年間を「飛鳥時代」と呼び、
推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化の華を開かせ、
この国も「倭国」から「日本」へと国号を変える・・・
(以下・参考サイト)
鸕野讃良(うののささら)皇女
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) - 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/持統天皇
大海人皇子
https://ja.wikipedia.org/wiki/天武天皇
中大兄皇子
https://ja.wikipedia.org/wiki/天智天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/額田王
[天武持統天皇陵](檜隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)野口王墓
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められているとされている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/野口王墓
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/ooutiryo.htm
http://www.asukabito.or.jp/sansaku/2008/01/post-4.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/推古天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子
聖徳太子関係系図
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/shiryo-katsuyo/17.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我馬子
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我蝦夷
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我入鹿
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我倉山田石川麻呂
https://ja.wikipedia.org/wiki/遠智娘
乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/乙巳の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/大化の改新
https://ja.wikipedia.org/wiki/甘樫丘
http://www.asukabito.or.jp/sansaku/2008/01/post-21.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/天智天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原鎌足
https://ja.wikipedia.org/wiki/近江大津宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/伽耶
https://ja.wikipedia.org/wiki/任那
https://ja.wikipedia.org/wiki/任那日本府
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/元号一覧_(日本)
壬申の乱(じんしんのらん)
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる…
https://ja.wikipedia.org/wiki/壬申の乱
推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥時代
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