ぶらり京都-97 [大徳寺・利休の三門] -金毛閣-
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大徳寺|京都市北区|Googleマップ
(2015年10月28日撮影)
寺は利休の恩に報いるために、三門上層に雪駄(せった)を履いた利休の木像を安置、このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが当時の天下人豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと云われ、利休は1591年(天正19年)に切腹の命を受け70歳の生涯を閉じる。
死後、利休の首は一条戻橋で、自身の木像に踏ませる形で梟首されたと伝えられている・・・
「千利休」(せん の りきゅう)
大永2年(1522年)〜天正19年2月28日(1591年4月21日)
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱え、子孫は茶道の三千家として続いている...
天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり定まっていない...
利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70歳...
死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという...
https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
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「千利休像」 長谷川等伯 筆 →
絹本著色|縦80.6・横36.7
桃山時代/1595年(文禄4年)
京都・表千家不審菴蔵
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(雪駄を履いた利休の実際の立像は捨てられるが、その後利休を慕う人によって何体かが創られた)
禅僧の大学キャンバスのように「大徳寺」の広大な敷地内には22の塔頭(多くは祖師や高僧の墓塔や庵などの小院)の寺院が立ち並ぶ・・・
総門から勅使門の奥、上記の「金毛閣」を通り、仏殿、法殿、本堂へと進み・・・
←(地図はクリックすると700 x 560pixに拡大します)
「大徳寺」(だいとくじ)
臨済宗大徳寺派大本山で、本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い...
室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/大徳寺
少し色付き出した紅葉の参道をぶらりと散策する・・・
本堂から左に折れて「信長のお墓がある場所」の「総見院」へ・・・
本能寺の変で没した信長の100日後、大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務め、秀吉は天下人の階段を登る。その後、本能寺の変から信長の一周忌法要のため「総見院」は秀吉によって1583年(天正11年)に建立された・・・
「総見院」(そうけんいん)
大徳寺の塔頭寺院。織田信長の菩提寺である。通常は非公開だが、春秋などに特別公開されることがある。
本能寺の変の100日後、10月10日に大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。その後の織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が建立した寺院で大徳寺22塔頭寺院の一つである。
本堂と織田信長一族供養塔(信長、信忠、信雄、徳姫、秀勝、信高、信好、秀雄、信貞、お鍋、高重、養華院、等)と鐘楼や茶室・・・
開祖は大徳寺117世の古渓宗陳。創建当時は寺勢大いに隆盛し広大な境内に豪壮な堂塔が立ち並んでいたという。創建当時から残る建物は正門、土塀、鐘、鐘楼。江戸期には200石の寺院であったが、明治初年の廃仏毀釈により堂塔伽藍や多くの宝物が灰燼と化し、大正年間に再興される。1961年(昭和36年)に本山に安置されていた信長木像を再び迎え、380年忌を行った・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/総見院_(京都市)
↓(鐘楼・・・)
入り口から奥の本堂へと続く美しい参道の「高桐院」へ・・・
室町幕府に使え戦国時代を生き抜いた細川藤孝(幽斎)の為に忠興が1602年(慶長7年)建立した「高桐院」は、本堂西側庭園奥には忠興とガラシャ夫人の墓塔があり、以後細川家の菩提寺となっている・・・
「高桐院」(こうとういん)
京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院。大本山大徳寺の塔頭のひとつである。開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)である。
戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。創建については慶長6年(1601年)とも言うが、創建に際して春屋宗園が与えた偈(げ)に「寅十月十七日」とあり、干支の関係から慶長7年の創建とみられる。
正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護される・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高桐院
そしてもうすぐ、
このお寺にも静かに秋が訪れるのだろう・・・
(以下・参考サイト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
https://ja.wikipedia.org/wiki/大徳寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/三門
大徳寺 : 臨済・黄檗 禅の公式サイト - 臨黄ネット
http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗長
https://ja.wikipedia.org/wiki/応仁の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/塔頭
高桐院 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/spot/2732
↓(以下サイトは非常に詳しい・・・)
大徳寺Ⅰ(京都) 真央GPファイナル好発進[寺院]
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-08-1
大徳寺Ⅱ(興臨院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-09-3
大徳寺Ⅲ(総見院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-10-4
大徳寺Ⅳ(黄梅院・芳春院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-11-2
大徳寺Ⅴ(瑞峯院・大仙院・高桐院・龍源院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12-1
大徳寺Ⅵ(その他非公開塔頭)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-13-1
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