大阪流「それなんぼ?」ソフトの価値観を足せない町
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(不思議と3人連れが多い)
肩にリックを背負い、目新しいスニーカーを履いている。
(亭主元気で留守が良い、で日帰りの旅行連れか?)
最近では、リックから印刷されたYahooやGoogleの地図を出してくる。
(アリャ・・・進んだもんや)
まあ、よく見かける光景では有るが、大阪ではチョット違う。
「あんた、それええセーターやなア〜」
「それなんぼしたん?」
「1万円や!・・・ええやろ〜」
「そんなん、てんろく、行ったら8,900円で売ってるがな〜」
「うちとこの近所のスーパーやったら8,500円や〜、まけてもうて8,000円位かな〜」
(値踏みの話か)
この町の人は、物をすぐ値段に変える。普通だったら、よく似合うとか?肌触りはとか?何と何にコーディネートするとか?まあ、大阪の日常茶飯事の会話、しかも、公衆の面前で。研ぎすまされたブランドさえも生き残れない昨今。そのブランド商品を創るのにどれほどの人や労力・時間・ノウハウ等がかかわっているのか知るよしも無く・・・「それなんぼ?」
こんな町で、素晴らしい文化は育つだろうか?
物の価値感は品質・デザイン性・耐久性やライフサイクル・TPOやら・衝動的カン等をふまえて、「いくら?」が有る。「それなんぼ?」は、それらを一瞬のうちに判断し「それなんぼ?」なのか?
デザイナーとして世に出て、40年余は過ぎている。大企業、中小企業のデザイナーの頃はそう深く考えなかったが、独立して、いきなり「それなんぼ?」にぶつかり、30年余を生き延びた。やはりフリーのデザーナーにとって「それなんぼ?」は、半端ではない。
「お金の無い人から、デザインギャラは取れない!」
冷たい言葉だが、当たり前の事だし、それを胸に戦い続けた30年余だろうか。
(やはりこの町に文化の花を咲かせる事は大変だ)
元々、この町ではその事を、「花よりだんご」と云う。
(花とは奇麗な物・文化的な物)より(だんご・食う物の方が先)と云う意味だ。
話はまだまだ(たとえ話だが)・・・・・
家を立て替えた大阪の人が、気に入った絵を購入し、家に飾り、隣人に見せた。
(自慢もあっただろうか?)
「これ、誰の絵?」
「ピカソ云うねん」
「へ〜、ピカソやったら高いやろ!」「なんぼしたん?」
「***万円や」
「へ〜きれいな〜」「そんでも、***万円やったらいろんなもん買えるのに」
「せやけど、ピカソやったら、ぜったい、損せぃへんワ〜」
(もしその絵がピカソで無ければ・・・ピカソで無ければ高くない、高く無ければ、美しく無い)
(名を知り、かつお金に変えてから、奇麗と云う)
まあ、ありがちな判断だろうが、そう云うひとが大阪人には特に多い。
ここ10年ほど、世界的に不況かつ不透明ではある。けれど、昨今の大阪低迷の原因の一つは文化や文明のソフトにお金を当然の様に支払う人が少なくなった事も有るが、お金が或る無しに関係なく、物やアイディア、増して情報やシステム等の文化や文明のソフトに・・・
「それなんぼ?」だけで、「それなんぼ?」以上の価値感を足せない悲しさが原因の様に思える。
かって、「国際都市・大阪や!」と官民一体となり暴走した時期がある。
「町が世界に国際都市と名乗るには、一番大切なものがない。」
これほど時代が進化しても、この町の人々は、「それなんぼ?」だけで、「それなんぼ?」以上の価値感を足せなかったのか?増して企業ともなれば、現代企業経営に絶対重要なものを足せてはいない。
文化や文明のソフトの価値観を足せないない町・・・大阪の悲劇か?
(次の時代の産業やのに、これは根本的な問題やろなあ〜)
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