バラの季節-1 [ヴィーナスの誕生]
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イタリア・ルネッサンス期の1483年頃に描かれた古き名画、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生:La nascita di Venere」にヴィーナスの聖花であるバラが描かれている・・・
帆立の貝殻に乗って、海の泡から成人した姿で誕生した美と愛の女神ヴィーナス・・・
画面の左上から、優しい息吹を吹きつける西風の神ゼフュロスと、彼の妻である花の女神フローラが、愛しい夫に抱きつき、共に空を駆け、ヴィーナスの「聖花」である「バラ」をあたり一面にまき散らしている。画面右に季節の女神ホーラが出迎え、華麗な模様入りの紅の衣裳をその身に着せかけようとしている。そして彼女の手を借りて身支度を整えた後、女神ヴィーナスは、神々の集うオリュンポスへと昇って行く、と云う神話の絵・・・
“La Nascita di Venere” 1483年頃|キャンバスにテンペラ|172.5 cm × 278.5 cm ウフィツィ美術館蔵 フィレンツェ|Galleria degli Uffizi, Firenze, Italia サンドロ・ボッティチェッリ:Sandro Botticelli(1445年〜1510年) (画像をクリックすると1280x804pixに拡大します・・・) https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィーナスの誕生 |
時は・・・
1470年代に花の女神フローラの町と云われたフィレンツェ:Firenzeに、金融業で財を成したメディチ家の当主、ロレンツォ・デ・メディチにより、初期ルネサンスの華が開く・・・
当時、ロレンツォはカレッジと呼ばれる別荘を建て、絶対支配のキリスト教に対し古代ギリシャやローマの神々、新プラトン主義を志向し、数多の画家、詩人、哲学者を集め、教会側の時代の流れに真っ向から逆らう。
そのロレンツォに見出された一人の画家サンドロ・ボッティチェリ:Sandro Botticelli は時代に登場する・・・
←(Sandro Botticelli自画像)
そして、 名画「ヴィーナスの誕生:La Nascita di Venere」(ウフィツィ美術館蔵・キャンバスにテンペラ1483年頃作)は、美男と誉れ高きメディチ家・ロレンツォ・デ・メディチの弟・ジュリアーノの愛人である当代随一の美女、シモネッタ・ヴェスブッチをモデルに制作されるが、彼女は1476年に23歳で肺結核で早逝し、ジュリアーノも2年後に敵対勢力パッツィ家により暗殺され、その後はサン・マルコ修道院の修道士サヴォナローラがメディチ家を追放し、神制政治が始まり初期ルネサンスは幕をおろし、ダ・ヴィンチはミラノへ、13歳でロレンツォ・デ・メディチの庇護を受けていたミケランジェロはローマへと旅立ち、ボッティチェリも宗教と切り離れた人間讃歌に似た絵を描く事無く、1501年頃には筆をおり、その後の記述は不明確で1510年に65歳の生涯を終えている・・・
しかし、フィレンツェの市民はその後、サヴォナローラを失脚させ、新たに共和国体制をつくりだし、女神フローラがヴィーナスにバラを吹き付けた様に新たな時代の幕を開く・・・
そうした時期、26歳の若きミケランジェロはフィレンツェに戻り、1501年から制作を開始し4年の歳月を費やし創りあげた、石のつぶてを握りしめ、今まさに外敵を前に戦わんとする、共和国市民像としての「ダビデ像:David di Michelangelo」が1504年に完成し、ボッティチェリの女神ヴィーナスが蘇った様に、人間讃歌の魂は受け継がれ、フィレンツェ市民の喝采の中でルネサンスは復活する・・・
ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」に描かれているバラは、当時のフィレンツェに自生していたロサ・ガリカ(Rosa gallica)らしいと云われ、バラ愛好家達やその道の人は、野生のバラをロサ:Rosaと呼び、日本では良く見かける日本原産で、バラの歴史に欠かせない房咲きバラのもととなるノイバラ(ロサ・ムルティフローラ:Rosa multiflora)などや、浜辺に咲く「ハマナス」や、古くから中国から渡って来た「モッコウバラ」に、江戸時代に浪速の商人が輸入し江戸へ持ち込んだ「ナニワイバラ」などがそれにあたる。そして長い年月の間に世界中で品種改良され、今日、我々が手にするバラらしいバラが完成する・・・
今年も、ダ・ヴィンチとミケランジェロが、私の小さな庭に咲き出し至福の時がやって来た・・・
レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonard da Vinci
フランス:メイアン:Mailland (1994年作出)
系 統:アンティークローズ :Antique Roses
花 色:濃いローズピンク
花 形:クオーターロゼット咲き
花弁数:75~80枚
花 径:8~10cm
樹 高:1.5m
樹 形:CL (ツル性)
芳 香:微香
開花期間:20~25日
ミケランジェロ
Michelangelo
フランス:メイアン:Mailland (1994年作出)
系 統:アンティークローズ :Antique Roses
花 色:濃黄色
花 形:ロゼット咲き
花弁数:75~80枚
花 径:11~13cm
樹 高:1.3m~1.8m
樹 形:直立性
芳 香:中香
開花期間:5〜10日
名前はルネッサンスの芸術家ミケランジェロ・ブオナローティ:Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoniで、鮮やかな黄色、直立性でHT風のアンティーク調。開き初めは濃い黄色で、 咲き進むとやや褪色する。 変わっているのはツボミの一番外側の花びらが白のものが多い、若干ロゼット咲きで、オールドローズの特徴を持つ四季咲性で、アンティークタッチローズと呼ぶらしい・・・
モッコウバラ(黄色)
Rosa banksiae lutea
別 名:ロサ・バンクシアエ・ルテア
原 産:中国
花 色:レモンイエロー/ホワイト
花 形:小輪(房咲き)・一季咲き
花弁数:25〜30枚
花 径:2〜3 cm
樹 高:4〜5 m
樹 形:ツル性
芳 香:中香
常緑つる性低木。枝には棘がないため扱いやすい。花は白か淡い黄色で、それぞれ一重咲と八重咲があり、直径2〜3cmの小さな花を咲かせる。開花期は初夏で一期性。黄花の一重や白花には芳香はある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/モッコウバラ
ハマナス(浜茄子)
Rosa rugosa
別 名:浜茄子、浜梨、玫瑰
原 産:東アジア、北海道
花 期:春一季咲き
花 色:赤い花(まれに白花)
花 型:一重
花 径:7~8㎝
英 名:Ramanas rose
耐寒性常緑つる性低木、海浜植物、北海道、本州の山陰から北陸、東北地方の日当たりの良い海岸砂地に自生する落葉性低木。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。皇太子徳仁親王妃雅子殿下のお印でもある。晩夏の季語。
東アジアの温帯から冷帯にかけて分布する。日本では北海道に多く、南は茨城県、島根県まで分布する。主に海岸の砂地に自生する。1〜1.5mに成長する低木。5〜8月に開花し、8〜10月に結実する。現在では浜に自生する野生のものは少なくなり、園芸用に品種改良されたものが育てられている。果実は、親指ほどの大きさで赤く、弱い甘みと酸味がある。芳香は乏しい。ビタミンCが豊富に含まれることから、健康茶などの健康食品として市販される。のど飴など菓子に配合されることも多いが、どういう理由によるものかその場合、緑色の色付けがされることが多い。中国茶には、花のつぼみを乾燥させてお茶として飲む玫瑰茶もある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハマナス
ナニワイバラ(浪花茨)
Rosa laevigata
別 名:ロサレビガ-タ
原 産:中国南部~ブータン、台湾
花 期:春一季咲き
花 色:ホワイト(ピンクはハトヤバラ)
花 型:一重
花 径:7~8㎝
漢 名:金桜子(キンオウシ)
英 名:Cherokee Rose=ジョージア州の州花)
耐寒性常緑つる性低木
(花4~5月・樹高5~6mくらい)
原種系でツル性、ロサ・レビガータとかロサ・ラエウィガータと云われる。江戸時代に浪速(なにわ)の商人によってもたらされこの名前になったと云われる。主に中国の中南部に分布し、日本に移入された古典園芸植物。育てやすいため、全国に分布している。花が白いものがナニワイバラで、ピンクのものはハトヤバラ(東アジア原産、ロサ・レビガータ・ロセア:Rosa laevigata rosea)と呼び、江戸時代に鳩ケ谷で主に生産されていたことから名づけられたと云われる・・・
http://www.087087.net/rose/naniwaibara.html
http://www.087087.net/rose/hatoyabara.html
(注・上記の記事は昨年分に加筆修正し、今後シリーズ化して写真も整理し、eBook<電子書籍>にする予定です)
(以下・参考サイト)
バラ(薔薇)は、バラ科バラ属の種(しゅ)の総称。バラ属の植物は、灌木、低木、または木本性のつる植物で、葉や茎に棘があるものが多い・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/バラ
Flower Note-バラの名前一覧
http://showkaen.com/fn-list/01.html
イタリア・ルネサンス年表では、主に「イタリア・ルネサンスの文化」に関する年表を示す・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/イタリア・ルネサンス年表
ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルネサンス
ルネサンス美術は、美術の分野におけるルネサンスの現れであり、イタリアに興り、やがて各国に普及していった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルネサンス美術
西洋の画家・年代別一覧
http://www.amcac.ac.jp/~suzuki/10artist/01gakanen.html
BOTTICELLI, Sandro-1444/45〜1510
The Birth of Venus(La nascita di Venere)-Tempera on Canvas, 172.5 x 278.5cm
Galleria degli Uffizi, Florence
もしも「神話画の代表を1つ挙げろ」と言われたら、おそらく10人中9人はこの作品の名を口にするのではないでしょうか。この世に知らぬ者もない名画中の名画、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》です。
海の泡から成人した姿で誕生した美と愛の女神ヴィーナス。輝くばかりの裸身を恥じらいの仕草で隠した女神は、帆立貝の貝殻に乗ってゆったりと波の上を移動していきます。
女神の身を運ぶのは優しい息吹を吹きつける西風の神ゼフュロス。また彼の妻である花の女神フローラも愛しい夫に抱きついてともに空を駆け、ヴィーナスの聖花である薔薇を辺り一面にまき散らします。
西風に吹き寄せられて女神が流れ着いたのはキュプロス島の浜辺。上陸しようとする彼女を季節の女神ホーラが出迎え、華麗な紅の衣裳をその身に着せかけようとしています。彼女の手を借りて身支度を整えた後、高貴な女神は神々の集うオリュンポスへと昇っていくのでしょう・・・
http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page242.html
サンドロ・ボッティチェリ Sandro Botticelli-1445〜1510 | イタリア | 初期ルネサンス
ルネサンス期に活躍した15世紀フィレンツェ派を代表する巨匠ボッティチェリ随一の傑作『ビーナスの誕生』。主題は古代アペレスの失われた名画≪海から上がるヴィーナス≫を復元したもので、本作は同じくボッティチェリの代表作『春(ラ・プリマベーラ)』の対画として、画面メディチ家より発注され、制作された作品とされている。画面中央で貝殻に乗り海から誕生した裸体の美の女神ヴィーナスは、一般的に『天上のヴィーナス』を表現したものとされている(『春(プリマベーラ)』に描かれている着衣のヴィーナスが『世俗のヴィーナス』だと解釈される)。画面左部分には風に乗り、花を蒔きながら美の女神ヴィーナスの誕生を祝福する西風の神ゼフロスとその妻、花の女神フローラが配され(ローマ神話のファウォニウスと同一視されるゼフロスは、ボレアス(北風)とノトス(南風)が兄弟とされている)
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli.html
ボッティチェリの花々は、誰よりも写実的な植物画を描いた画家です。「ヴィーナスの誕生」に描かれている花は薔薇。ロサ・ガリカ(Rosa gallica)らしいんですね・・・
http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=196
ボッティチェリ 至福の花々 (サンドロ・ボッティチェッリ)
ウェヌスの誕生、あるいはヴィーナスの誕生といわれているサンドロ・ボッティチェッリの、1485年の作品・・・このボッティチェッリのヴィーナスの誕生を、ギュスターヴ・モローが模写しています・・・
さて、ホメロス讃歌として伝承された「アフロディテ讃歌」をもとに描いたという一説がありますが、はたしてそうなのでしょうか・・・
http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=18
http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=196
ボッティチェリ La Primavera 「プリマヴェーラ:春」ダンテの神曲の楽園説
以前の記事で、 「プリマヴェーラ(春)」が花婿ロレンツィーノ(ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ)と花嫁セミラミデ・アッピアーニへの贈り物と書きました・・・
http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=190
史料と資料 1900~1909年
バラの植物分類学的な見解からはじまり、日本原産種、古来中国から輸入されたバラの来歴、江戸時代のバラ、明治期のバラについて多くの文献を引用しながら解説している。 中国や日本の古典書物に現れるバラの記述について集録してあり、利便性が高い・・・
http://bitter.sweet.coocan.jp/contens/library/refer/190/190.html
バラの和名とは、日本国内で使用されるバラの呼び名のことです・・・
http://www.roseraie.jp/knowledge/japanesename.html
日本では「常陸風土記」や「万葉集」に「うばら」「うまら」として記されているのが最も古い記録です・・・
http://www.roseraie.jp/history/history_j_01.html
バラの品種一覧
http://rose.stewartia.net/Rose/Bara_hinsyu/bara_hinsyu_ichiran.html
バラ-薔薇-Rosa-バラ科-落葉-半落葉-常緑の低木
http://rose.stewartia.net/Rose/rose.htm
薔薇の写真館
http://www.aichan.biz/rose/
バラの図鑑
http://rose.catfish.gozaru.jp/
バラの園芸品種数は三万を上回るといわれていますが,分類学的にはすべて雑種由来であり×Rosa(セイヨウバラ)に一括されます。セイヨウバラの導入は明治期から本格的に始まり、現在も毎年多くの新品種が欧米から輸入され続けています・・・
http://bitter.sweet.coocan.jp/contens/wamei/waframe.html
http://bitter.sweet.coocan.jp/index.html
全国 バラ園ガイド
http://www.ne.jp/asahi/ashikawa/smile/roseGguide.html
関西のバラの歴史
日本で本格的なバラの園芸品種の栽培が始まったのは、明治6~7年ごろ、政府が作った開拓使が36品種を米国から輸入したのが最初で、開拓使がその苗を接ぎ木して民間に払い下げ、そこから一般に広まったのです。
日本の園芸が盛んな地域は、いずれも特産の鹿沼土や日向砂等の土壌があるところで、関西では、宝塚の山本の天神川砂があって、これが貝塚伊吹の挿し木や、バラの接ぎ木に役立ち、宝塚は大きな生産地になりました・・・
http://www.rosehyogo.jp/files/colum/colum.htm
http://www.rosehyogo.jp/files/colum/20070602kansai_rekishi/20070602kansai_rekishi.htm
社団法人 農林水産技術情報協会
バラの歴史
http://www.afftis.or.jp/bara/rekisi.htm
バラの種類
http://www.afftis.or.jp/bara/syurui.htm
須磨の春薔薇。 ここを訪れて薔薇を撮り始めて五年、今年の春は一番見事です・・・
http://hayashi-no-ko.blogzine.jp/photos/20110525b/
岐阜県可児市【世界に誇るバラ園】 花フェスタ記念公園
約7,000品種のバラが植えられたバラ園・・・
http://www.hanafes.jp/hanafes/
[PDF] アジアで初めての世界バラ会議
http://www.kayokai.net/magazine/25/kayou25_12.pdf
バラは、バラ科バラ属に分類されています。リンゴやイチゴなどもバラ科に属します。 バラの品種数はとても多く3万種~10万種、それ以上とも言われます。そのほとんどは交配により作出された園芸種です。 図鑑や本によっても、系統の分類が違う場合があります・・・
http://mh.rgr.jp/memo/mr0038.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~g-miyama/rosecom.html
ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)は、イタリアフィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。
1449年、父ピエロと母ルクレツィア・トルナブオーニの間に、長子として生まれた。祖父はコジモ・デ・メディチ(イル・ヴェッキョ)である。幼時から、フィレンツェの指導者としての教育を受け、近隣の王侯貴族とも交流した。1469年、父ピエロが死ぬと、その後を継ぎ、20歳でメディチ家当主となり、事実上、フィレンツェの最高支配者となった。
1478年、いわゆるパッツィ家の陰謀によって命の危険に晒された。フィレンツェ大聖堂で行われたミサの席上、暗殺者に襲われ、弟のジュリアーノは殺害されるが、ロレンツォはかろうじて逃れる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロレンツォ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ (Giuliano de' Medici, 1453年 - 1478年4月26日)は、ルネサンス期イタリア・フィレンツェ共和国の政治家。
ピエロ・ディ・コジモとルクレツィア・トルナブオーニとの息子で、後にイル・マニィーフィコと呼ばれる兄のロレンツォ・デ・メディチと共に父の死後は家業の銀行とフィレンツェ政府の運営を引き継いだ。1478年には、兄と共にパッツィ家の陰謀に巻き込まれたが、フィレンツェのトスカーナでの拡大に反対するローマ教皇シクストゥス4世の支持で仕組まれたとパッツィ家のライヴァルの家により書き留められている。 4月26日の朝、共謀者の一群がサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会で兄弟を襲った。 ロレンツォは傷ついただけだったが、ジュリアーノはフランチェスコ・デ・パッツィの手に倒れた。彼はシモネッタ・ヴェスプッチの愛人であったが、彼女は彼よりも前にわずか22歳で亡くなっていた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュリアーノ・デ・メディチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/メディチ家
http://ja.wikipedia.org/wiki/フィレンツェ
http://ja.wikipedia.org/wiki/フィレンツェ共和国
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