切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像
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![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_14325129.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_14325129.jpg)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_14343744.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_14343744.jpg)
ジョルジュ・サンドの部分は、競売でデンマークの実業家に買い取られ、今はコペンハーゲンから30分ほどの距離にあるオードルップゴー美術館(Ordrupgaard)に展示されている・・・
↓(別々に切り分けられた絵)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1441835.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1441835.jpg)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_14414811.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_14414811.jpg)
↓(切り分けられた絵の比率)(ルーヴルのデッサン)→
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1446232.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1446232.jpg)
そして、切り分けられたショパンのキャンバスサイズは縦45.5×横37cm、ジョルジュ・サンドのは少し大きく縦79×横57cmで、ルーヴル美術館に残されていたドラクロワのデッサン(スケッチ)からも、間違いなく一枚の作品であったことも判明した・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1112388.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/08/50/f0190950_1112388.jpg)
フレデリック・フランソワ・ショパン
(フランス語: Frédéric François Chopin/ポーランド語:Fryderyk Franciszek Chopin)1810年〜1849年
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作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開き「ピアノの詩人」とも呼ばれるショパンは、ポーランドに帰化したフランス人の父と、ポーランド貴族の母の間に生まれた・・・
ショパンが、ポーランドを出国しパリに向かう目前の1830年、パリでは皇帝ナポレオンの後に、復古王政の王位に就いたブルボン王朝直系のルイ18世に反発し、民衆が立ち上がり7月革命が勃発、3日間にわたる武装蜂起によって王政を倒し、ブルボン朝は消滅する・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1541183.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1541183.jpg)
その翌年、ポーランドではロシア帝国の支配に対して民衆がワルシャワで蜂起し革命政府を樹立し1831年1月に独立を宣言。しかし同年9月にロシアの大軍によって占領、民衆は弾圧され、その年、ショパンはパリに向かう途中のシュ トゥットゥガルトで、ワルシャワ陥落の報を聞き、その衝撃から「革命のエチュード」を作曲する・・・
そして、自由を求める群衆の主義や主張が錯綜し、七月革命の余熱の残るパリで、ショパンはヴァリエテ座や現・グレヴァン蝋人形館が立ち並ぶ繁華街、ポワソニエール大通り27番地:Bd Poissonnièreに居を構え、殆ど活動の場をパリと定め、1832年2月26日に初の演奏会を開き、スターダムへの階段を昇り始める。ショパン22歳・・・
↓(グレヴァン蝋人形館がある、パッサージュ・ジュフロワ:Passage JouffroyにChopinと云うホテルが・・・)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_111487.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/08/50/f0190950_111487.jpg)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1534110.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1534110.jpg)
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フランスの女流作家、本名をオーロール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)という・・・
裕福な軍事貴族の家系に生まれ、父が事故で早死のため、ノアンにある父方の祖母の館で過ごし、1822年にカジミール・デュドヴァン男爵(Baron Casimir Dudevant)と結婚し、モーリス:Mauriceとソランジュ:Solangeの1男1女を産み、1831年にジュール・サンドー(Jules Sandeau)との合作で処女作「Rose et Blanche」を書き、これ以後「サンド」のペンネームを使い1832年「アンディアナ」を発表しベストセラーとなる。29歳のサンドは夫と別居し、ふたりの子供を連れてパリへやってくる。彼女は男装し幾多の文化人の社交界に出入りし、自立した女性として、又、フェミニスト(男女同権を主張する人)として、自由奔放に多くの男性との恋愛を繰り返す・・・
そして1836年、26歳のショパンは、マリー・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンで、ズボンをはき、葉巻を吸い「男装の麗人」と呼ばれるリストの親友、ジョルジュ・サンドと出会い、その後1838年頃に恋人同士となり、2人の関係は始る・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1614370.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1614370.jpg)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1617037.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1617037.jpg)
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1621527.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1621527.jpg)
これ以降、ショパンは夏をノアンで過ごし「幻想曲/バラード第4番/英雄ポロネーズ/舟歌/幻想ポロネーズ」など数多くの傑作が作曲された。そしてジョルジュ・サンドも、田園小説で名高い傑作「愛の妖精」を発表し、ノアンのジョルジュ・サンドの館には、ドラクロワやフロベール、バルザックといった著名人が訪れたり、パリでもサロンを開き多くの文化人を援助し、ロマン派の黄金期を迎える・・・
しかし、1844年にショパンは父ニコラスの死に衝撃を受けて、彼の最も偉大な作品である「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調」を作曲後、ジョルジュ・サンドとの仲もこじれだし、1845年には成人した2人の子供に、長男モーリスを溺愛するサンドと、ショパンを頼る娘のソランジュと、彼女の恋人の彫刻家との結婚をきっかけに確執は表面化し、家庭内のいさかいに巻き込まれ、ついに1847年にはジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際は決定的な破局を迎える・・・
時代も・・・
パリで1848年に二月革命が勃発し、七月王政は倒れ第二共和政の臨時政府が始まり、ジョルジュ・サンドは共和主義者として政治活動に参加するが、反動勢力がもりかえし6月には民衆の惨敗に終り、ルイ・ナポレオンの第二帝政が始まり、失望のパリを後に故郷ノアンの館に帰る・・・
そして、あの皇帝ナポレオン死後の、ダヴィッドやアングルの新古典主義をとびこえた、ユーゴーやドラクロワ、ショパンやジョルジュ・サンドたちのロマン主義も、二月革命後のルイ・ナポレオンの第二帝政期には、写実主義や自然主義にその座を譲り、美の時は、象徴主義を通り、長い混迷の時を経て印象派にたどりつく・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_15115789.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_15115789.jpg)
イギリスへと演奏会に旅立ち、パリに帰国後の1849年、ヴァンドーム広場の中庭に面した部屋で、長旅で衰弱し持病の結核も悪化、ポーランドからの姉に看取られながら帰らぬ人となる。遺言でモーツァルトのレクイエムが流れる中、マドレーヌ教会で短い39年の生涯を閉じた。彼の意向により心臓はポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められ、遺体はペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。しかしその時、ジョルジュ・サンドの姿はなかった・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_15135394.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_15135394.jpg)
その後のジョルジュ・サンドは・・・
18世紀に建てられた故郷ノアンのジョルジュ・サンドの館に隠棲し、執筆に専念。26巻にも呼ぶ書簡集を含む著作、短編を含む約70編の小説、30編ほどの劇作、多数のエッセーや評論を残し、田園をこよなく愛し、フランスの最初の女性作家として72年の生涯を閉じた・・・
彼女は館にある庭園で静かな眠りにつき、こう書き記している「愛しなさい。人生で良いものはそれだけなのですから」・・・
そして、問題の絵は・・・
二人との深い友情に結ばれていたドラクロワには描ききれず、未完成ではなかったか?
別れた絵である以上切り分けて2枚の方が商品価値は高い?など、
今もその真意はわからない・・・
だがしかし、その絵は、若い二人の愛の遠い記憶の彼方に消えた、
まぎれもない名画だったに違いない・・・
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1838年、ドラクロワ40歳・作
「ジョルジュ・サンドの前でピアノを弾くフレデリック・ショパン」
当時ショパン28歳、ジョルジュ・サンド34歳・・・
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_12154264.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201311/11/50/f0190950_12154264.jpg)
通称マドレーヌ寺院(フランス語:Église de la Madeleine)は、
フランスの首都・パリ8区にある聖女マグダラのマリアを守護聖人とするカトリック教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/マドレーヌ寺院
マドレーヌ教会 /Église de la Madeleine|Googleマップ
(以下・参考サイト)
ショパンとジョルジュサンドの肖像
http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&langpair=en%7Cja&u=http://en.wikipedia.org/wiki/Portrait_of_Fr%25C3%25A9d%25C3%25A9ric_Chopin_and_George_Sand
フレデリック・ショパンの肖像(1838年・ルーヴル美術館所蔵)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Eugène_Ferdinand_Victor_Delacroix_043.jpg
ジョルジュ・サンドの肖像(1838年・オードルップゴー美術館蔵)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eugène_Ferdinand_Victor_Delacroix_041.jpg
「ジョルジュ・サンドの前でピアノを弾くフレデリック・ショパン」ルーヴル美術館所蔵のスケッチ:Sketch for the painting (at Louvre)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Delacroix,_Chopin_and_Sand,_sketch.jpg
ドラクロワ自画像(1837年、ルーヴル美術館所蔵)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Eugene_delacroix.jpg
ドラクロワ【自画像】と【ショパン】【ジョルジュ・サンドの肖像】
http://artmeigakan.blog90.fc2.com/blog-category-20.html
美の巨人たち・ドラクロワ「ショパンの肖像」
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/101204/
美の巨人たち・ウジェーヌ・ドラクロア作「アルジェの女たち」
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/070407.htm
フレデリック・ショパン ~名画と名曲・48
http://taroscafe.cocolog-nifty.com/taroscafe/2006/04/_48_07ee.html
ルーブル美術館:Musée du Louvre
http://www.louvre.fr/llv/commun/home.jsp
ルーブル美術館/日本語・オフィシャルサイト
http://www.louvre.fr/llv/commun/home.jsp-bmLocale=ja_JP
オードルップゴー美術館オフィシャルサイト
http://www.ordrupgaard.dk
オードルップゴー美術館|ジョルジュ・サンドの肖像
Eugéne Delacroix (1798–1863): Portræt af George Sand|Olie på lærred | 78 x 56,5 cm | 1838
http://www.ordrupgaard.dk/emner/samling-og-arkitektur/den-franske-samling/delacroix-george-sand-.aspx
カフェ・ド・エルサイトウ|切り分けられた名画、ショパンとジョルジュ・サンド
http://www.el-saito.co.jp/cgi-bin/el_cafe/cafe.cgi?no=179
2003年のショパン展で購入した復元画ポスター
「男装のジョルジュ・サンド 」と「ドラクロワのアトリエで絵を学ぶモーリス」・・・
http://www7.wind.ne.jp/azarashi/delacroix/images/i-images/i-sand.html
オードルップゴー美術館は、車ならコペンハーゲン中心部から30分程度。電車なら、降車駅からかなり歩くかバス利用となり、なかなか行きにくい場所ではあります。多くの素晴らしい絵画を鑑賞できる上、貴重なフィンユール自邸の見学ができる・・・
オードルップゴー美術館 WebSite・・・
http://www.ordrupgaard.dk
http://isphoto.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300791374-1
家具のオークション見学の次は、フィンユール自邸を見学・・・
http://www.onecollection.com/finnjuhl/
このフィンユール自邸は、隣接するオードルップゴー(ORDRUPGAARD)美術館が譲り受け、2008年4月3日より公開されており、今回とても楽しみにしていた見学スポットの一つです。
デンマーク人建築家フィン・ユール(1912~1989)は、20世紀の家具デザインにおける巨匠の一人です・・・
http://maplehomes.blog67.fc2.com/blog-entry-252.html
森の奥の、オードルップゴー美術館|美術館の敷地内には そのペリカンチェアをデザインしたフィン・ユールの自邸がある・・・
http://chikuboo.exblog.jp/15434252/
オードラップゴー美術館へ-7 Ordrupgaard, Denmark:belleduneさんの旅行ブログ
http://4travel.jp/traveler/adoredune/album/10508202/
ポーランド/2.8 独立運動の時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポーランド
七月王政/第二共和政/第二帝政
http://ja.wikipedia.org/wiki/フランスの歴史
1830年に七月革命が勃発してシャルル10世は失脚・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/七月革命
フランス2月革命
http://ja.wikipedia.org/wiki/1848年革命
1848年のフランス革命(仏: Révolution française de 1848)は、日本では一般的に後の6月や12月の事件も含めて二月革命と呼ばれる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/1848年のフランス革命
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_1627238.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_1627238.jpg)
作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開き、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人、生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家として有名であり...自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/フレデリック・ショパン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ショパンの楽曲一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/夜想曲_(ショパン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ピアノ協奏曲第1番_(ショパン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/英雄ポロネーズ
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_16284857.gif](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_16284857.gif)
フランスの女流作家であり、初期のフェミニストとしても知られる。本名をアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン(Amandine-Aurore-Lucile Dupin)、デュドヴァン男爵夫人(Baronne Dudevant)という。1822年にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し1男1女を産んだが間もなく別居し、多くの男性と恋愛関係をもった・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョルジュ・サンド
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日)はフランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・ドラクロワ
971年に国立の美術館として開館した。ドラクロワが1857年から1863年までアトリエ兼自宅にしていた邸宅が美術館として公開されている。ドラクロワの死後、住人が幾度か入れ替わり、アトリエの解体も計画されたがモーリス・ドニやポール・シニャックをはじめとする「ドラクロワ友の会」がそれを阻止し、国立美術館としての公開に繋がっていった・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・ドラクロワ美術館
![切り分けられた名画 [ショパンとジョルジュ・サンド] の肖像_f0190950_17164270.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201708/07/50/f0190950_17164270.jpg)
国立ウジェーヌ・ドラクロワ美術館 - メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド
http://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0504/0504.html
ヴァーチャル絵画館|ウージェーヌ・ドラクロワ
http://art.pro.tok2.com/D/Delacroix/Delacroix.htm
メゾン・デ・ミュゼ・ド・フランス|マダム・ド・モンタランベールのミュゼ訪問
ジョルジュ・サンドの家:Maison de George Sand
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/mont-back/0810/montalembert02.html
http://maison-george-sand.monuments-nationaux.fr/
ショパンウェブ|ショパンの生涯・生い立ち
http://www.chopin-web.com/vie/vie7.html
ショパン 無料楽譜ダウンロード
http://www.chopin-web.com/gakufu/score009.html
ショパン代表作品のmidi集
http://www.chopin-web.com/beginner/midi.html
PTNA|パリ発ショパンを廻る音楽散歩
http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/
PTNA|パリ発ショパンを廻る音楽散歩|ジョルジュ・サンドとショパンの肖像
ショセ・ダンタンからほど近いノートル・ダム・ロレット通りにあったドラクロワのアトリエ(1852年9月)
http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/05/01_7542.html
Chiyo Sakamoto|サンド、ショパン、そしてミシェル
http://web.cla.kobe-u.ac.jp/staff/sakamoto/2010/06/post-100.html
今は、一周忌に完成したジョルジュ・サンドの娘ソランジュの夫・彫刻家ジャン・バティスト・クレザンジェの「嘆きの天使」と題された記念碑の下で静かに眠っている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Pere-Lachaise_Chopin_grave.jpg
結婚騒動とショパン
http://ja.wikipedia.org/wiki/オーギュスト・クレサンジェ
マダム・ド・モンタランベールのミュゼ訪問(1)|パリのロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique)
ドラクロワ、ジョルジュ・サンドそしてショパンといった、それこそ19世紀パリ中の知識人と芸術家がこの館に集い、邸宅、中でもサロンには、今もなおロマン派の雰囲気が色濃く残されています。とりわけ、ジョルジュ・サンドについては、彼女が書いた手紙や、ゆかりの品々がご覧になれます・・・
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/mont-back/0510/montalembert.html
ジョルジュ・サンドの小箱☆パリ市立ロマン派美術館☆コクリコさんの旅行ブログ
[ミュゼ ド ラ ヴィ ロマンティック]シェフェール=ルナン館:Musee de la Vie Pomantique
http://4travel.jp/traveler/coquelicot/album/10307691/
日本ジョルジュ・サンド学会|日本ジョルジュ・サンド学会ホームページ
http://web.cla.kobe-u.ac.jp/staff/sakamoto/2008/05/post-3.html
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/4766412257/
ショパンがこの家で終焉を迎えたことを示すヴァンドーム広場に面した外壁のプレート:
1810年2月22日、ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれたフレデリック・ショパンは1849年10月17日、この家で死す・・・
http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/09/01_7546.html
ジョルジュ・サンドの名言:名言集.com
http://www.meigensyu.com/authors/view/1200/page1.html
パリ弾丸オバハンひとり旅(4)~ヴァンドーム広場12番地~
プラス・ヴァンドーム12番地、現在は高級宝飾店のショーメ、この2階の部屋でショパンは息をひきとった、享年39歳。塀に掲げられているプレート
FREDERIC FRANCOIS CHOPIN
NE A ZELAZOWA-WOLA (POLOGNE)
LE 22 FEVRIER 1810
EST MORT DANS CETTE MAISON
LE 17 OCTOBRE 1849
ショパンの部屋に繋がる階段、もちろんその部屋もショーメ所有。特別な場合をのぞいて、中にはいることはできません。
http://4travel.jp/traveler/francesca911/album/10454343/
ドラクロワ「ショパンの肖像」 - KIRIN~美の巨人たち~
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/101204/
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