広重の雨「大はしあたけの夕立」
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「大工殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればよい」
そんな雨の、じめっ〜と暗い負の世界を見事に名画にした男がいる・・・
歌川 広重:うたがわ ひろしげ・1797年(寛政9年)〜1858年(安政5年)
本名安藤鉄蔵、後の重右衛門は、江戸の定火消同心の家に生まれ、12歳の時に両親を失い、1809年に家督を継ぎ火消となる。14歳の広重は、初代歌川豊国の門を叩いたが、弟子が多すぎることを理由にことわられ、豊国の弟弟子にあたる歌川豊広の門下となり、火消と浮世絵師の道を歩み始める・・・
その頃の浮世絵市場は・・・
喜多川歌麿が1790年(寛政2年)頃から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった、女性の胸部から上を描く「美人大首絵」の美人画が、吉原を中心に江戸庶民に人気をよんでいた・・・
しかしその頃、浅間山噴火の天明の大飢饉で、一揆や打ちこわしが続発し、老中・松平定信は、商業重視政策を否定し「文武両道」を旨とする寛政の改革(1787〜1793年)を断行。緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をはかり、役人や庶民にまで倹約を強要し、極端な思想統制令により、経済や文化は停滞する。1791年(寛政3年)に山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発され、浮世絵の中心的な版元・蔦屋重三郎は財産を半分没収される過料、京伝は手鎖50日という処罰を受け、浮世絵に対する禁令も相次ぎ、1797年(寛政9年)に蔦屋重三郎が48歳ではやり病の脚気(かっけ)で亡くなりった後、歌麿も50日間手鎖の処分で出所後の文化3年(1806年)病に倒れ54年の生涯を終える。そんな、美人画の歌麿時代が終わった、1812年(文化9年)に重右衛門は、師の豊広と自分から一文字づつをとって、浮世絵師「歌川広重」は誕生する・・・
そして時代は、幕府とは逆に商業の貨幣経済は発展し、幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚する。当時、蔦屋重三郎方に寄食して、用紙の加工や挿絵描きなどを手伝っていた、十返舎 一九は、蔦屋の勧めで、1795年(寛政7年)黄表紙「心学時計草」ほか2部を出版後、蔦屋重三郎の死後の1802年(享和2年)に村田屋治郎兵衛から「浮世道中膝栗毛」と題して、弥次さん喜多さんの珍道中を綴った滑稽本を出版。それが評判を呼び、3編後から「東海道中膝栗毛」の外題になり、1822年(文政5年)までの21年間、次々と続編を書き継ぎ、ここに日本で最初の、文筆のみで自活する大流行作家が生まれる・・・
その東海道中に、意外にも1830年(文政13年/ 天保元年)に、60年周期でやってくる、文政のお蔭参り(おかげまいり)が起こる。数百万人規模の伊勢神宮への集団参詣の、江戸から片道15日間の伊勢参りは、当時の庶民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしても問題はなく、参詣をすませた後は京や大坂などの見物を楽しむ者も多く、伊勢までの旅費を、お金を出し合い、くじ引きで決める「お伊勢講」も生まれ、今様の旅行ガイドブックも発売され、旅が娯楽として一般大衆の間に広まって行った・・・
しかし、この天保年間には全国的な凶作による米価の高騰や大飢饉、そして、物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。幕府は貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした、老中・水野忠邦の天保の改革(1830〜1843年)で、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止され、不況が蔓延するなか、大衆作家、十返舎 一九も、1831年(天保2年)「此の世をば どりゃお暇(いとま)に せん香の 煙とともに 灰左様なら」と狂歌か江戸の駄洒落の様な、辞世の句を残し、67歳で没し、浮世絵も、美人画はもちろん、役者絵、風俗画まで描いたり刊行したりすることが厳しく禁じられ、風景画や花鳥風月へと題材を変えだす・・
当時の浮世絵は、歌川派が浮世絵界の最大流派として、葛飾北斎と肩を並べていた・・・
1831年(文政13年)に広重より約40歳も年上の、71歳の老・北斎は、そんな時代を知り尽くし、新境地を切り開いて描いた36枚(後に10枚を追加)の「富嶽三十六景」を発表。十返舎 一九の「東海道中膝栗毛」や、文政のお蔭参りなど、旅行ブームの波に乗って大ヒットする。
その北斎に触発されたかの様に、1832年(天保3年)36歳の広重は、正式に職を祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って浮世絵師として独立。この年の秋、公用で幕府の行列(御馬進献の使)に加わって東海道を上り、翌年の1833年(天保4年)場末の小さな版元である保永堂に駆け込み、日本橋から京都三条までを一気に刊行するのではなく、売れ行きを見ながら版を重ねる事で版元と折り合いを付け、保永堂版「東海道五十三次」は刊行される。その初版「日本橋」は余りの人気で刷りに刷られ、桜の版木もすり減り、二版目が作られたと云われている。そして大判横の錦絵、京都三条までの全55枚を刷り終えた時、名所絵としての広重の名声は決定的なものとなった。そしてもし、この2人による浮世絵の風景画が無かったとしたら、人物や役者絵だけでは、たぶん「世界の浮世絵」にはならなかったと云える。しかもその後、これらの絵は海を渡り、フランスの印象派に多大な影響を与えた・・・
その「東海道五十三次」は、品川、川崎と宿場をすぎ、「箱根」で広重のデフォルメが生まれるが、「三島の朝霧」「雪の蒲原」などと風や雪をまじえながらの情景で、雨は3種3ヶ所・・・
8番目の「大磯の虎ケ雨」
歌舞伎でも有名な曽我十郎が、仇討ちの果てに命を落とした陰暦5月28日、その愛人、大磯の遊女・虎御前が流した涙が「虎ヶ雨」それをを題材に梅雨時のしとしと降る雨を描いている・・・
45番目の「庄野の白雨」
突然の風を伴った激しい夕立のにわか雨に、坂道を往来する人々。風に揺れる二重の濃淡の竹薮に、激しく音を立てて降る雨の角度・・・
49番目の「土山の春の雨」
京に向かう最後の難所の鈴鹿峠「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と鈴鹿馬子歌から題材を取った「土山の春の雨」は、しとしとと降る春雨に打たれながら、大名行列が続いている・・・
広重は旅を通し、日本人の心の情景を映し出し、一般大衆の目線で、日本人が持つ細やかな雨の感性を描いた。それは、自然と人々の生活との関わりの中から、日本人の自然に対する心を雨に託し、その雨は、細く太く、真っすぐに斜めに、ときに濃く薄く、途切れながら、早く遅く、軽く重たく。古今東西これほどの雨を見事に描いた画家はいない・・・
その後の広重は「近江八景/京都名所之内/江戸近郊八景/木曽海道六十九次」など次々と風景、名所シリーズを発表し、晩年の60才で118枚に及ぶ「名所江戸百景」を完成させる。そして、20枚以上もの雨や雪の絵を描き、移ろう四季や、朝夕の時間の移り変わりと風物の情趣に、自然の雨、風、雪、霧、月などを盛り込み、浮世と云う大衆画に日本人の心の情景を描いた・・・
その頃、約40歳も年上のライバル北斎は「千絵の海/富嶽百景/諸国滝廻り」などを残し、嘉永2年(1849年)90歳の生涯を終える。この時、広重53歳・・・
そして、時代も根底から崩れはじめる・・・
初代の都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)は1850年(嘉永3年)加賀の大名屋敷に招かれ・・・
「上は金 下は杭なし (食いなし) 吾妻橋」
(お上は金にあかして、贅沢しているが、下々では毎日の暮らしに困り、三度の飯も食えないでいる)
と、幕府の悪政を唄い、怒りをかって江戸追放の刑に処せられ、1852年(嘉永5年)府中香丸町で48歳の生涯をとじる・・・
しかしその幕府は、翌年の1853年(嘉永6年)4隻の巨大な黒船が浦賀沖に出現し、国じゅうが尊王攘夷の激動のなかで、1854年(嘉永7年)ペリー率いるアメリカ艦隊7隻の軍艦が伊豆下田沖に現れ、日米和親条約で伊豆、下田、函館を開港、1858年(安政5年)の日米修好通商条約で、横浜、長崎、新潟、兵庫も開港する。そしてこの安政5年、広重は、開港した横浜から猛威をふるう、はやりやまいのコレラにかかり、62年の生涯を終える・・・
当時、役者絵の国貞、武者絵の国芳、名所絵の広重らは歌川三羽烏と云われた、その「広重」の名跡は、二代目は重宣、三代目は重政、四代目は菊池貴一郎、五代目は菊池寅三、と受け継がれる・・・
そして「広重」が世を去って30年余の時が流れ「その雨」は海を渡り西洋絵画にその足跡を残した・・・
「その雨」の絵は・・・
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歌川広重・安政4年(1857)作・名所江戸百景「大はしあたけの夕立」
フィンセント・ファン・ゴッホ・1887年/模写
"Japonaiserie:pont sous la pluie"
(日本趣味 : 雨の大橋)・・・
"Japonaiserie : pont sous la sluie" 1887年|油彩 キャンバス|73 x 54 cm ファン・ゴッホ美術館|Van Gogh Museum, Amsterdam フィンセント・ファン・ゴッホ:Vincent Willem van Gogh (1853年〜1890年) 名所江戸百景 「大はしあたけの夕立」 安政4年(1857年)|木版多色刷 大判錦絵|35.7×24.7cm 名所江戸百景は全118 図で、「大はし」は隅田川に架けられていた「新大橋」のこと、 対岸に見えるのが、幕府の御船蔵がある「あたけ(安宅)」の地・・・ 歌川 広重(うたがわ ひろしげ):寛政9年(1797年)〜安政5年(1858年) |
(以下・参考サイト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/東海道五十三次_(浮世絵)
8番目の大磯宿「大磯の虎ケ雨」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Tokaido08_Oiso.jpg
45番目の庄野宿「庄野の白雨」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Tokaido45_Shono.jpg
49番目の土山宿「土山の春の雨」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Hiroshige50_tsuchiyama.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/名所江戸百景
名所江戸百景|夏の部|53. 大はしあたけの夕立
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Hiroshige_Atake_sous_une_averse_soudaine.jpg
Salvastyle.com|日本趣味 : 雨の大橋(大はしあたけの夕立)(Japonaiserie : pont sous la pluie)
1887年|73×54cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館|
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gogh_sluie.html
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Hiroshige_Van_Gogh_2.JPG
Van Gogh "Japonaiserie : pont sous la pluie"
http://www.van-gogh-on-canvas.com/prod168.htm
Salvastyle.com|名所江戸百景 大はしあたけの夕立 (Great Bridge, Sudden Shower at Atake)
1857年|39cm×26cm | 大判錦絵・木版画 | 所蔵先多数|
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige_bridge.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/歌川広重
http://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホ
http://fr.wikipedia.org/wiki/Sumida-gawa
http://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景
http://ja.wikipedia.org/wiki/浮世絵
http://ja.wikipedia.org/wiki/浮世絵師一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/東海道中膝栗毛
http://ja.wikipedia.org/wiki/お蔭参り
http://ja.wikipedia.org/wiki/東海道五十三次
http://ja.wikipedia.org/wiki/中山道六十九次
http://ja.wikipedia.org/wiki/喜多川歌麿
http://ja.wikipedia.org/wiki/蔦屋重三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/江戸時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/寛政の改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/天保の改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉
歌川広重 Utagawa Hiroshige1797-1858 | 日本 | 浮世絵師
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/hiroshige.html
地図で見る歌川広重「東海道五十三次」(アダチ版復刻)
http://www.rakuten.ne.jp/gold/adachi-hanga/series/tokaido53.html
美の巨人たち・歌川広重作「東海道五拾三次」前編
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/100626/
美の巨人たち・歌川広重作「東海道五拾三次」後編
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/100703/
巨人たちの最近のブログ記事
http://www.artistyle.net/i_02_kyojin/
美の巨人たち「歌川広重2」特集アート日記
風景画ではなく、風俗も含めた旅そのものを描いたのです。彼は雨に表現にすぐれて雨の画家とも言われたそうです・・・
http://blog.livedoor.jp/artmark/archives/51533112.html
墓所の東岳寺は浅草から足立区に移転され、墓石の側にはその生涯と作品の魅力を記した立て札があり、史跡の扱いになっていた・・・
世界恩人巡礼大写真館|歌川広重/1797-1858.9.6 (東京都、足立区、東岳寺 61歳)2000&08
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-gaka.htm
十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の大衆作家、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/十返舎一九
国土交通省横浜国道事務所|東海道ルネッサンス|図版:浮世道中膝栗毛滑稽双六 横浜市歴史博物館蔵
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index4/answer6_enlargement.htm
歴史の情報蔵|「お蔭参り」に施しさまざま・・・
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=235
東海道に深い関わりのある十返舎一九と歌川広重に注目します。一九の絵画作品とともに、当館が所蔵する広重「東海道五拾三次之内 御油」(保永堂版)など浮世絵も展示します・・・
静岡市東海道広重美術館|変わり種東海道Ⅱ「広重と十返舎一九」|企画展
http://www.yuihiroshige.jp/exhibition/100831/index.html
曲亭 馬琴(きょくてい ばきん、明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日))は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに、瀧澤興邦)
「世の中の 役をのがれて もとのまゝ かへすぞあめと つちの人形」- 曲亭馬琴
滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の名でも知られるが・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/曲亭馬琴
「東海道名所図会」は、寛政9年(1797)に出版された全6巻の名所案内記です。京都から江戸日本橋にいたる東海道を、多くの絵を挿入して案内しています。文章は、京都在住の俳諧師で読本作家の秋里籬島、挿図は円山応挙・竹原春泉斎・鍬形薫斎(北尾政美)ら総勢30名の絵師が手がけました。挿図は約200点におよび、有名な寺社や古歌に詠まれた名所(などころ)、各地の祭礼の紹介に止まらず、宿場の賑わいや各地の名物・名産品の生産風景、街道を行きかう人々の様子が描かれています・・・
http://www.himoji.jp/database/db07/tokaido/
東海道名所図会
江戸後期の絵入り名所案内。6巻。秋里籬島(あきざとりとう)著。竹原春泉斎・北尾政美ほか画。寛政9年(1797)刊。京都から江戸に至る東海道の名所の沿革・風景などを図解した説明書。
http://kotobank.jp/word/東海道名所図会
名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌。
http://ja.wikipedia.org/wiki/名所図会
「東海道名所図会」(とうかいどうめいしょずえ)|三重県立博物館
江戸と京大坂を結ぶ江戸時代の東西交通の大動脈であり、幕府が所管する五街道の中でも最も重要な街道であった「東海道」の詳細な案内書です。編者は、『都名所図会』など畿内諸国を中心に各地の名所図会を手がけ、名所図会の創始者とされる秋里籬島(あきさとりとう)で、挿図は竹原春泉斎をはじめ約30名の画家が分担して描いています。6巻6冊で構成される分厚い木版本で、寛政9(1797)年に出版されました・・・
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/154toukaidou-meishozue.htm
美術館めぐり|広重(その3)
「歴史の道/東海道」展(豊橋市美術博物館:2001/4/28-5/27)
広重は生涯において未完を含めると20種類前後の「東海道五十三次」を描いているのだとか・・・
http://homepage2.nifty.com/melkappa/museum-HIROSHIGE-3.htm
浮世絵のアダチ版画研究所|広重「東海道五十三次」
広重は、寛政9年(1797)江戸八代洲河岸の定火消同心・安藤源右衛門の子として生まれ・・・
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige_list01.htm
「大磯 虎ケ雨」 (東海道五十三次)
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige021.htm
「庄野 白雨」
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige058.htm
「土山 春の雨」 (東海道五十三次)
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige062.htm
アートショップ|広重「花と雨の絵」 全22点一覧
http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/08005701.htm
「近江八景・唐崎夜雨」Night Rain on Karasaki from "Eight Views of Omi"
「木曽道六十九次・中津川」Nakatsu River/from "The Sixty Nine Stations of the Kisokaido"
http://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/ukiyoe-hiroshige4.html
ja.wikipedia.org/wiki/金沢八景
歌川広重『金沢八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、金沢八景の代表作である。全8図。天保5年( 1834 ... 小泉夜雨. 称名晩鐘. 乙舳帰帆. 洲崎晴嵐 ...小泉夜雨(こずみ の やう) - 手子神社(小泉弁財天)
http://ja.wikipedia.org/wiki/金沢八景#.E6.AD.8C.E5.B7.9D.E5.BA.83.E9.87.8D_.E3.80.8E.E9.87.91.E6.B2.A2.E5.85.AB.E6.99.AF.E3.80.8F
名所江戸百景 大はしあたけの夕立
広重晩年の作、名所江戸百景は118枚。大胆なトリミング(切り取り)を試し見たり、手前のものをデフォルメして奥行きを与える手法など、つぎつぎに斬新な作品を生み出す。このシリーズがドガやゴッホに影響を与えたことは有名である・・・
http://jugemhorizon.jugem.jp/?cid=59
雨と文芸|雨が育てた日本文化|浮世絵の雨
江戸中期、町人のエネルギーが生み出した浮世絵は、 当初、美人画や役者絵として出発しましたが、やがて、道中絵・名所 絵をもう一つの柱とするようになりました。その中に、すばらしい雨 の風景画が多く含まれています。「大工殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればよい」などと言われた時代に、ー時代を担った絵師たち・・・
http://www.skywater.jp/pdf/20050630_no2.pdf
森川和夫のホームページ|廣重の風景版画の研究ー(1)&(2)
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/index.html
34. 名所江戸百景 大はしあたけの夕立
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/hiroshige34.html
特集1.北斎と広重
http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2007/14/sp_01_a.htm
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