あるく奈良-2 [朱雀大路の彼方に]
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600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に大陸へ5回以上派遣された「遣隋使」は、大阪の住吉大社近くの住吉津から大阪湾の難波津を経て瀬戸内海から九州の玄界灘、中国へと渡るルートをたどった。
619年にその「隋」が滅び「唐」の時代には、この国も「倭国」から「日本」へと国号を変え「遣唐使」として894年(寛平6年)に菅原道真の建議による停止まで200年以上にわたり、当時の先進国であった「唐」の文化や制度、仏教や遥かシルクロードの彼方のものを持ち帰り、それを素に独自の社会を発展させた。
その回数は諸説あり、中止や送唐客使などを含め、12〜20回と推定されている・・・
(以下は大極殿側の門内から朱雀門を出て行く感じ/2012年11月27日撮影) 平城宮跡|Googleマップ
当時の「知の旅人」の僧侶や留学生は、何を観、何を思い、何を語らう?
今は、茫々とした草原の中にそのよすがは無く、その思いはこの草原に埋もれている。
そしてこの平城宮跡は、1998年に埋蔵文化財として世界遺産に指定されている・・・
(以下は朱雀門の門外より門内には入って大極殿に帰って来る感じ・・・)
(以下・参考サイト)
世界遺産「平城宮」(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)
奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/平城宮
WEBカメラ:現在の平城宮跡(CURRENT NARA PALACE SITE)
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/webcam.html
世界遺産|平城京跡
http://www3.ocn.ne.jp/~nsih2001/
朱雀門(SUZAKU GATE)
平城京の入り口である羅生門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そしてその4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていたのです。 朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人が集まって歌垣なども行われました。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいました。 朱雀門は衛士たちによって守られ、常時開いていたわけではありませんが、宮の正門としての権威とともにその勇姿を内外に誇示していたと思われます。
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/suzaku.html
東院庭園(EAST PALACE GARDEN)
中央建物は池の西岸中央にある東院庭園の「正殿」で、宴会や儀式の際に中心となった場所と推定しています。池に張り出す露台がつき、ここから東岸と平橋で繋いでいます。平橋は桁行4間×梁間1間の堀立柱建の東西橋です。柱は中央建物縁束の出土柱根を異本として、八角形断面
植裁は庭園の景観を形づくる重要な要素です。発掘調査によって池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉など)を分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。この成果を中心に、『万葉集』や『懐風藻』などにみられる庭園植裁の記録も参考にして樹種を選びました。植裁の位置は、樹木の植え穴、もしくは抜き取り穴の可能性がある浅い窪みや、大きな枝がまとまって出土した位置などを参考にして復原しました。また樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』などの絵画資料を参照し、全体の景観に配慮して決めました。
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html
遣唐使(けんとうし)とは、当時の日本(倭国)が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが『旧唐書』や『新唐書』の記述においては「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の倭国(俀國)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。
大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海を九州へ向かい、そこから玄界灘に出る。
倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/遣隋使
平城宮跡資料館|常設展示(PERMANENT EXHIBITION)
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/permanent.html
遺構展示館(EXCAVAION SITE EXHIBITION HALL)
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/ikou.html
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