あるく奈良-5 [慶派の極彩色]
|
(2012年11月27日撮影)東大寺大仏殿/南大門|Googleマップ
翌年には、中国の宋に3度も渡って宋の高度な文化を修得していた、当時61歳の醍醐寺の僧・俊乗房 重源(しゅんじょうぼう、ちょうげん)を大勧進に任命し復興事業が着手され、鎌倉幕府の源頼朝の庇護のもと、5年後の1185年(文治元年)東大寺大仏殿は見事に蘇る。
そして、南大門も少し遅れて、1199年(正治元年)に復興され、門内左右には高さ8.4メートルの巨大な、木造金剛力士立像が門に向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)が安置され、1203年には開眼供養が行われ、それから約800年余、焼失する事無く今日に至っている・・・
↓ 見上げるほどの大きさですが、有名な大理石で創られたミケランジェロのダビデ像 (David di Michelangelo) は身の丈5.17メートで、この木造金剛力士立像は高さ8.4メートル、大仏座像の高さは約14.7メートルです。
それは、東大寺大仏殿が752年(天平勝宝4年)に聖武天皇の勅願によって建てられた時、大仏殿には本尊の盧舎那仏像(大仏:るしゃなぶつぞう)のほか、両脇侍の観音と虚空藏菩薩、そして四天王が安置されていたが、「南都焼討」で総てを焼失し、1185年の再興の時、運慶や快慶たち「慶派」が総力をあげて造りあげた、巨大な四天王像が再興されていた。その後、再び戦国の世の1567年(永禄10年)東大寺周辺で繰り広げた市街戦「東大寺大仏殿の戦い」によって再び焼失し「慶派の幻の巨大四天王像」として歴史の闇に消え去ってしまった・・・
その大仏像の両脇に安置されていた巨大な「慶派の極彩色」の四天王像は、高さ約13メートル、南大門の金剛力士立像の高さ8.4メートル、大仏像の高さ約14.7メートルなどと同じ程の高さで、その時の文献が、醍醐寺に1284年(弘安7年)に書写された「東大寺大仏殿図」から、四天王像に関しての本体および身色、持物や顔の向き、担当した仏師の名が明記され、それが近年海住寺より発見された奈良国立博物館に寄託されている「海住寺木造四天王立像」がほぼ一致し、同時代の快慶工房作の和歌山・金剛峯寺像より原像にちかく、忠実な四天王像の模像であるとされている。もちろん原像の巨像よりサイズははるかに小さく、約一尺(30センチ程)にすぎないミニチュア版で、左の写真の4躯。持国・増長・広目・多聞天の順に東・南・西・北の方位に対応し、その身色は緑・赤・白肉・青に塗り分けられている。
で、その4躯と盧舎那仏像をネットの写真から、大仏の左右に配置し、高さを合わせコラージュ風に合成してみると、慶派たちの極彩の世界が少し観えてくる(以下↓)・・・
「遥かなる運慶の極彩空間」
~今甦る東大寺大仏殿 幻の巨大仏像~
2011/03/19| BSジャパン
http://www.bs-j.co.jp/unkei/
日本人の深い祈りが、幾世紀もの間 捧げられてきた奈良の大仏。かつてこの大仏の周囲に、なんと大仏とほぼ同じ大きさの巨大な四天王像が存在したことを、ご存じだろうか?・・・
【ナビゲーター】東儀秀樹(雅楽師)
【ナレーション】天野ひろゆき(キャイ~ン)
[ 運慶快慶|四天王|極彩の世界 ]
東大寺の大仏殿の四天王像をCG復元する。ドキュメントをしていました。
←(テレビでの放映映像をカメラで撮ったものです)
http://blogs.yahoo.co.jp/
arimori_999_door/28288114.html
戦乱により東大寺が焼失したが故に起こり得た、宮廷の貴族文化と力強い武士の文化軸が重なりあった空間が生まれて、「慶派の極彩色」の世界が映像の世界で蘇った・・・
そして又、同時代の1201年(正治3年)に、運慶は28歳になっていた長男の湛慶を従えて、現在の愛知県岡崎市郊外に建立された瀧山寺(たきやまでら)に納める聖観音、梵天、帝釈天の立像を制作している。瀧山寺は熱田大宮司の孫にあたる僧寛伝(かんでん)が頼朝の菩提を弔うために建てた寺で、聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。X線透視撮影の結果、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが判明し、江戸時代末から明治頃の極彩色の補彩が厚く施され 「慶派の極彩色」が残されている・・・
紀元前のエジプトのラムセス二世の王妃ネフェルタリの墓に鮮やかに彩色された壁画の数々。近年イギリスの大英博物館で、地中海の古代ギリシャのヘレニズム文明が白い大理石の乳白色ではなく、極彩色に色どらている事がわかった。オリンポスの丘に建つ白い大理石の寝殿も極彩色に彩られ、埋もれた大理石の巨像も鮮やかな色に包まれていた。古代ギリシャの人々はその色と形を、紀元前当時、エジプトへ働きに出ていた季節労働者がギリシャの我が故郷の帰省に、巨像や寝殿も極彩色に彩られ遠くから目立つように、おらが村の島の頂きに高く高く建てられていた。
その極彩色の世界は、地球上のあらゆる所で、インド・ガンダーラやヒンドゥーに、或はシルクロードを旅し、幾多の遺跡にその感性の足跡を残し、大陸文化に融合し、或は半島を経由し、長い歳月を経てこの国にたどり着いたのかも知れない。その痕跡は、飛鳥や奈良時代においてもエンタシスの柱のドリスやイオニヤにコリント様式の建築や正倉院の御物にも彩られている。
都が京に移り、宮廷文化の平安時代最大の仏師集団を率いる、定朝(じょうちょう)様に組み込まれ、空海の密教文化と融合しながら、京都仏師・定朝から枝分かれした、奈良仏師「慶派」たちの時代には、この国も鎌倉と云う武士の世を迎えていた・・・
その、古代より人々を引きつけて止まなかった「極彩色の世界」・・・
奈良時代から400年余の時を経て、武士の世の鎌倉時代に「慶派」が仏像に託して表現した「極彩色の世界」が生まれ、そして「慶派」はこの極彩色で、その時代が求めた「民の心」を時代の中に定着させた・・・
(以下・参考サイト)
世界遺産「東大寺南大門」
国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である・・・
木造金剛力士立像(国宝)
高さ8.4メートルの巨大な木像。1203年に、わずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺#.E5.8D.97.E5.A4.A7.E9.96.80
華厳宗大本山|東大寺|公式ホームページ
東大寺は天平15年(743)に聖武天皇が盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ) 造立の勅願を発布し、国全体をまもる寺として知識(自らの意志で協力する人々)の総力をあげて造営された・・・
東大寺|オフィシャルサイト
http://www.todaiji.or.jp/
東大寺|オフィシャルサイト|南大門
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance8.html
東大寺|写真で見る日本|美しい日本をあなたへ
http://japan-web-magazine.com/japanese/japan-nara-todai-ji-temple1-japanese.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺
東大寺南大門
http://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺#.E5.8D.97.E5.A4.A7.E9.96.80
金剛力士立像|阿形・吽形|東大寺、大仏殿
http://beauty.geocities.jp/gyhrt256/toudaiji-1-kongourikisiryuuzou-agyou.html
http://beauty.geocities.jp/gyhrt256/toudaiji-1-kongourikisiryuuzou-ungyou.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/金剛力士
NHKクリップ|東大寺南大門 金剛力士像 (93秒)
http://cgi2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?clip=D0005403035_00000&bangumi=D0005120143_00000&year=2012
仁王像のお話
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/niouzou.htm
仁王像大修理
1997年05月01日 発売
監修・東大寺 東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会/編
東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会 朝日新聞出版:1997年 朝日新聞社
http://www.amazon.co.jp/仁王像大修理-東大寺/dp/4022569867
http://books.rakuten.co.jp/rb/仁王像大修理-東大寺南大門仁王尊像保存修理委員会9784022569868/item/878044/
古書|仁王像大修理|小宮山書店|古本の街・東京神田神保町
http://www.book-komiyama.co.jp/booklist_detail.php?item_id=31690
NHK|プロジェクトX|蘇る仁王|南大門仁王像 大修理|
~運慶に挑んだ30人~
作品内容
奈良東大寺、国宝南大門金剛力士像は、世界に誇る木の最高芸術。しかし17年前仁王は風雪にさらされ、倒壊寸前の危機だった。そのとき仏像修理一筋に生きてきた職人達が立ち上がった。鎌倉時代八百年前の技に挑んだ職人達の戦いのドラマ。
作者名:NHK「プロジェクトX」制作班
ジャンル: ノンフィクション・ドキュメンタリー・人物
出版社:NHK出版
http://booklive.jp/product/index/title_id/800066/vol_no/001
特別展 仏像修理100年|即興堂
編集・発行/奈良国立博物館 解説/西川杏太郎 鷲塚泰光 鈴木喜博 藤本青一 神田雅章 2010年 132p ソフトカバー 30×21 文化財としての仏像の「修理文化」とでも呼べる仏像修理の歴史を、「伝統的な修理技術の継承」「新しい修理材料の改良・工夫」といった観点から紹介する企画展の図録。
価格:1,000円(税込)
http://www.sokkyodo.jp/SHOP/B-bu01.html
奈良国立博物館の特別展|【仏像修理100年】
新館では「仏像修理100年」という展示をやっていました(2010年7月21日~9月26日)。入館料は「至宝の仏像展」と共通で1000円ですが、この日は「夫婦で来ました」と言うと、二人で1000円になります・・・
http://okojosan101.blog.eonet.jp/default/2010/09/10010822sun-6ca.html
奈良国立博物館の特別展|【仏像修理100年】
http://camellia4848.blog28.fc2.com/blog-entry-199.html
海住山寺|木造四天王像について |岩田茂樹(奈良国立博物館学芸部長補佐)
http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k9.html
海住山寺 | かいじゅうせんじ|オフィシャルサイト
http://www.kaijyusenji.jp/
http://www.kaijyusenji.jp/treasure/index.html
京都府木津川市加茂町にある真言宗智山派の仏教寺院。かつて恭仁京があった瓶原(みかのはら)を見下ろす三上山(海住山)中腹に位置する ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/海住山寺
瀧山寺(滝山寺)岡崎市・天台宗吉祥陀羅尼山薬樹王院 | 帝釈天立像
http://ja.wikipedia.org/wiki/滝山寺
http://takisanji.net/
http://takisanji.net/jihou_hou_sanson.html
[ 運慶快慶|四天王|極彩の世界 ]
運慶の作だとか?東大寺の大仏殿の四天王像をCG復元する。ドキュメントをしていました。
海住山寺の五重塔から発見された、国宝の四天王像が持つ、奈良時代の仏像がもつ色が
そのまま残っているそうです。その色を元に、東大寺の四天王像に色合いを復元したそうです。
テレビでの放映映像をカメラで撮ったものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/arimori_999_door/archive/2011/03/19
http://blogs.yahoo.co.jp/arimori_999_door/28288114.html
「遥かなる運慶の極彩空間:今甦る東大寺大仏殿 幻の巨大仏像」BSデジタル
2011/03/01(Sat.) 20:00~21:55 BSジャパン
参考情報
http://www.bs-j.co.jp/unkei/
http://www.bs-j.co.jp/bangumi/html/201201021900_21529.html
http://www.circam.jp/page.jsp?id=1703
http://ameblo.jp/shinacchi79/entry-10836518422.html
http://ameblo.jp/shinacchi79/image-10836518422-11116936481.html
http://totomambo.blogspot.com/2011/03/blog-post_27.html
http://www.circam.jp/page.jsp?id=1703
慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派。定朝の孫頼助に始まる奈良仏師の傍系出身だが、七条仏所を形成、主流派をなす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/慶派
康慶(こうけい、生没年不詳)は、平安時代末期 - 鎌倉時代初期の仏師。運慶の父。平重衡の南都焼き討ち(治承4年(1180年))後の復興造仏の中心人物として活躍し慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い ・・・
康慶は「慶派」と呼ばれる仏師系譜の基礎を築いた人物で、子に運慶、定覚、弟子に快慶、定慶などがいる。康慶の作品は像の着衣内部の肉身にまで関心が及んでおらず、息子・運慶に比べると彫刻的な才能において一歩劣るとされるが、快慶ら個性豊かな名手たちを育てた他、康慶周辺の逸名仏師とみられる作例が奈良地方には多数存在するなど、鎌倉彫刻の成立に大きな役割を果たした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/康慶
◆運慶関連年表◆
http://www.h7.dion.ne.jp/~butsuzou/page/mametisiki/unkei.html
運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。
建久7年(1196年)康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(観世音菩薩、虚空蔵菩薩)と四天王像の造立という大仕事に携わるが、これらの像はその後大仏殿とともに焼失して現存しない。(うち、四天王像は模刻像が海住山寺、金剛峰寺などに現存する。)現存する大作としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。造高8メートルに及ぶこれらの巨像は、平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、同年の東大寺総供養の際、仏師として極位である法印を受けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/運慶#.E4.BD.9C.E5.93.81
http://ja.wikipedia.org/wiki/運慶
快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前に慶の字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/快慶
平安中期~鎌倉時代の仏師の系図です。仏師は定朝を祖として、三つの派に別れていきます。運慶、快慶を輩出した慶派が有名ですが、平安時代までは院派、円派が貴族階級(平氏)と結びつき、隆盛を極めていました。鎌倉時代になると、貴族の世の中から武士(源氏)の世に移り、慶派の出番が回って来たのです。
http://www.h7.dion.ne.jp/~butsuzou/
page/mametisiki/bussi%20keizu.html
現在でも「慶派の末流」とか「院派の末流」の仏師のひとは存在します・・・
定朝と七条仏所跡
http://homepage1.nifty.com/
heiankyo/rekishi/reki32.html
定朝(じょうちょう、生年不明 - 天喜5年8月1日(1057年9月2日))は平安時代後期に活躍した仏師。寄木造技法の完成者とされる・・・
定朝没後は、息子の覚助と弟子の長勢が勢力を持ち、覚助の系統から院派と慶派、長勢からは円派が生まれた。また、僧綱位の授与は、天皇や上皇の御願寺、或いは藤原氏ゆかりの法成寺・興福寺の意義深い造仏に携わった定朝直系の子弟に限定される慣習となった。
定朝様はその後12世紀に到るまで仏像の規範となった。当時の日記類を読むと、貴族達が定朝仏をもてはやし、仏師らはその注文に応じ、ひたすら定朝仏の模倣に努めていたことが伝わってくる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/定朝
金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。
木造四天王立像(快慶作)
http://ja.wikipedia.org/wiki/金剛峯寺
金剛峯寺の仏像は「快慶作」 高野山霊宝館が発表
和歌山県・高野山にある金剛峯寺が所蔵する仏像「執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)」(高さ149センチ)の内部に、鎌倉時代を代表する仏師、快慶(生没年不詳)の作であることを示す墨書銘が残っていることが分かった。山内の文化財を調査・展示している高野山霊宝館が21日発表した。
http://www.asahi.com/culture/update/1022/OSK201110210194.html
運慶作「阿形像」杉本寺山門
http://4travel.jp/traveler/dr-kimur/album/10483724/
http://www.n-burarisanpo.com/kamakura402.html
高野山の名宝展『天才仏師・運慶の八大童子像』の巻
『八大童子像』が一堂に見仏できるとあって、思い切って高野山・霊宝館まで行って来ました。超有名な仏像なんで、あらゆる写真集でイヤと言うほど見ているんやけど、目の前で実物を拝見すると「天才・運慶」の心意気がドーンと伝わってくる。
http://blogs.yahoo.co.jp/butsuyokukannon/35284556.html
仏像文化財保存サポート|基準作例年表|鎌倉時代(1185年~1132年)147年間
http://www.ab.auone-net.jp/~bunkazai/page/siryousyuu/nenpyou/kamakura.html
「国宝・重源上人坐像」(部分) 鎌倉時代〔13世紀〕 東大寺蔵
1180年平重衡の兵火で炎上した東大寺を、61歳の時抜擢され大勧進で1195年再興し超人的活躍をした重源上人の肖像彫刻。最晩年の容姿ですが、眼光は鋭く、口をへの字に結ぶ顔からは強靱な意志が感じられますね。運慶作との説もあります。
佐々木昭美のBIエッセイ|特別展「東大寺大仏―天平の至宝―」
http://www.bi-p.co.jp/essay/259/
重源:ちょうげん保安2年(1121年)〜建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした ・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/重源
南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ) の ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/南都焼討
http://ja.wikipedia.org/wiki/平重衡
東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺大仏殿の戦い
NHKスペシャル|知られざる 大英博物館
http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/
第2集古代ギリシャ“白い”文明の真実
紀元前7世紀に、突如エーゲ海で花開いた古代ギリシャ文明。
真っ白い大理石の彫刻や白亜の神殿に象徴されるように、“白い”文明とされてきました。
しかし、大英博物館の調査により、その常識が覆りつつあります。
真っ白だと思われていた彫刻や神殿は、鮮やかに彩られていたことが分かってきたのです・・・
http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/lineup/greece.html
http://www.tvu.co.jp/program/BritishMuseum_201207/
http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/navigator/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネフェルタリ
王妃ネフェルタリの墓
http://egypt.newton-geo.jp/history/ramses/ramses10.html
Copyright © 2013 guchini.exblog All Rights Reserved.