幕末ニッポンを描いた風刺画"The Japan Punch"と"TÔBAÉ"
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それは、江戸時代が終わりはじめた幕末の1861年(万延2年・文久元年/注・明治元年=1868年)、イギリス公使オールコックの一行に伴って来日した、チャールズ・ワーグマン:Charles Wirgman(1832年〜1891年)で、「風刺画」或は「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌"The Japan Punch"(ジャパン・パンチ)を創刊し、そしてその後の1882年(明治15年)に21歳でフランスから来日した、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)は、1884年(明治17年)に第1次"TÔBAÉ "(トバエ)を創刊。第2次は1887年(明治20年)色刷りページとなり、一部80銭、石版刷、毎月2回発行で全70号が発刊されていた・・・
チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)は1832年にロンドンに生まれ25歳の時に、世界で初めてニュースをイラストレーション入りで報じた"The Illustrated London News"の特派記者兼挿絵画家として、1857年(安政4年)に中国・広東のアロー戦争の取材に訪れ、その後1861年(文久元年)に長崎に、そしてイギリス公使オールコックの一行に伴って陸路で江戸まで旅行中の7月5日(文久元年5月28日)に、イギリス公使館の東禅寺で水戸藩浪士の襲撃を受け(東禅寺事件)、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。そして、1862年(文久2年)に横浜の居留外国人向けの、イギリスの風刺漫画雑誌パンチを模した「ジャパン・パンチ:The Japan Punch」を創刊する。約25年間にわたって170冊が月刊誌として刊行され、時に行動をともにしていた写真家のフェリーチェ・ベアトや、書記官のアーネスト・サトウなど、日本人では三菱財閥の岩崎弥太郎のなど、漫画を見ればすぐにわかる人物が数多く登場し、居留地の出来事や人間関係、裁判の結末などが、ユーモアたっぷりに描かれた・・・
その後、チャールズ・ワーグマンは1863年(文久3年)に日本人女性の小沢カネと結婚し、その年の薩英戦争や、翌1864年の下関戦争の記事や挿絵をロンドンに送っている。1867年(慶応3年)にハリー・パークスやアーネスト・サトウに伴い、徳川慶喜との会見に臨むため大坂を訪れ、大坂城の風景スケッチや、慶喜の肖像画を描く。翌年、幕府は大政奉還し明治を迎える。1887年(明治20年)3月に「ジャパン・パンチ」の最終号を発刊してイギリスに帰国し、弟のブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、翌年に再び来日するが病に倒れ、1891年(明治24年)横浜で58年の生涯を終え、横浜外人墓地に眠っている・・・
↓ (1867年(慶応3年)8月10日の挿絵。大坂城内で徳川慶喜に訓練を披露する英国陸軍第9連隊の兵士)
風刺画は・・・
古くは、古代オリエントの楔形文字を1931年にドイツのアッシリア学者エーベリングが解読した「バビロニアの寓話」や、古代ギリシャの「イソップ寓話」そして民話や昔話、或は神話や宗教に織り込まれた事柄を、字が読めない文盲の人にもわかる様に「見れば解る」絵画が持つ偉大な力で表現され、今日の諷刺画へと発展する。
それは、時に時代に立ち止まり、今おきている事柄を深く考えさせたり、美しさを付け足したブリューゲルの「盲人の寓話」の様に、美を鑑賞しながらも、宗教や倫理的な深い意味を問い正したり、時には絶対権力にも組せず反抗し、こき落としながらも、憎まれないユーモアーとペイソスをもち「ニタリ」と心をほどけさせる。そして、日本も平安時代の「鳥獣人物戯画」から進化発展し、江戸時代には略画体で漫画的な絵として、瓦版や狂歌の絵画版、或は絵の中に諷刺、皮肉、滑稽を描き、浮世絵の「鳥羽絵:とばえ」として江戸時代にはジャンルが確立されていた・・・
そして当時の西欧では、石版や木版で大量に刷れる印刷術と、何よりも自由な社会が生む美術的な産物として、1830年にフランス人シャルル・フィリポンが創刊した風刺雑誌の、石版漫画入りの"見る時局新聞"「ラ・カリカチュール:La Caricature」や日刊の風刺新聞「ル・シャリヴァリ:Le Charivari」が創刊される。当時のフランス人はその新しいジャーナリズム に心を奪われ発売日には黒山の人だかりとなり、フランスにおける風刺画の黄金期が始まる。そして、二人の画家・版画家オノレ・ドーミエ (Honoré-Victorin Daumier:1808年~1879年)とジャン・イニャス・イジドール・ジェラール(J.J.Grandville:1803年〜1847年)により、当時の王政・君主から新興のブルジョワ階級が台頭し始め、大きく時代が変わりだしたフランスの7月革命(1830年)で、王位についたルイ=フィリップとその閣僚を題材にした、
ユーモアと痛烈な批判の戯画が載せられた。これら政治的な作品は1835年に発令された言論弾圧法により中断されながら、今日の風刺画の雑誌の原点となり、このフランスの「ル・シャリヴァリ:Le Charivari」をまねて、イギリスにも同様の雑誌を作ろうと考え、1841年「ザ・ロンドン・シャリヴァリ」と副題を付けた「パンチ:Punch, or The London Charivari」がヘンリー・メイヒュー及びマーク・レモンらによって創刊され、この頃にはイギリス国外で、日本の横浜居留区の「ジャパン・パンチ」中国版「チャイナ・パンチ」アメリカ版「パンチネロ:Punchinello」などが続々と創刊されていた・・・
少し遅れて、1860年(万延元年)のパリ生まれのジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)は、1871年(明治4年)のパリ・コミューンの燃えさかるパリの街や戦闘をつぶさにスケッチし、翌年エコール・デ・ボザールに入学し、家計を助けるために退学後の1876年(明治9年)頃に挿絵の仕事を始め、エミール・ゾラやエドモン・ド・ゴンクールなどからジャポニスムを知り、同年ジャポニスムブームのパリ万国博覧会で浮世絵と出会い日本に興味を抱き渡航を決意、当時陸軍大学兼教官の在日フランス人のプロスペール・フークの伝手で、1881年(明治14年)の暮れにマルセイユを発ち、1882年(明治15年)の1月に来日する・・・ビゴー21歳
ビゴーはフークの尽力と陸軍卿大山巌の紹介を得て、1882年(明治15年)から1884年までの2年間、お雇い外国人として絵画の講師に雇用され、安定した職と高額の報酬を得ることが出来、この間、日本の庶民の生活をスケッチした3冊の画集を自費出版している・・・
1885年(明治18年)と1886年〜1887年(明治20年)の二度にわたって半年間、中江兆民の仏学塾でフランス語を教え、中江の門弟とも交流し、当時の自由民権運動の模様にも接することになる・・・
そして、フランスの「ル・モンド・イリュストレ」(Le Monde Illustré)やイギリスの「ザ・グラフィック」(The Graphic)といった新聞からも依頼があり、日本を題材とした報道画家の職を得て、さらにこの頃には「団団珍聞」への漫画の寄稿(1885年) や「郵便報知新聞」に掲載された翻訳小説の挿絵(1886年) など、日本の新聞を通し彼の絵は日本の民衆に溶け込み、横浜の居留地に住むことなく、当時は麹町区二番町に、1887年頃から1890年までは向島、1890年には牛込区市谷仲之町など、日本人の生活を知るために日本人の住む街並みに身を置いている・・・
報道画家で成功ししたビゴーは1884年(明治17年)に第1次"TÔBAÉ "(トバエ)を創刊。第2次は1887年(明治20年)に発刊し、日本の政治を題材に風刺漫画を多数発表している・・・
特に当時の「トバエ」には中江兆民や門弟が日本語のキャプションを付け、自由民権運動の政府批判という面で協力している。1894年(明治27年)34歳のビゴーは、17歳年下で佐野清の三女・佐野マスと結婚し、同年8月に日清戦争が勃発すると、英紙「ザ・グラフィック」の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し報道画を寄稿する。1895年(明治28年)に長男モーリスが誕生し、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなり生活の不安と、条約改正に伴う外国人居留地と治外法権の撤廃で、従来のような自由な出版活動が困難となり、1899年(明治32年)離婚後、長男とフランスに帰国する。その後フランス人と再婚し2人の女子をもうけ、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会の設計に関わり、晩年はエソンヌ県のビエーヴル(Bièvres)の自宅で、東洋の竹を取り寄せた小さな日本風の庭園を作り、1927年(昭和2年)その庭を散策中に脳卒中で倒れ67年の生涯を終える・・・
横浜の外国人居留地を中心に生まれた極東の風刺画の物語は、日本の西欧化や国際化のなかである指針として、言論の自由や印刷の進歩に伴いながら時代を一刀両断に切り描き、人々の不満や鬱憤を晴らす快刀乱麻の心地良い風を時代に送り込んだ。そして、それら一枚一枚の時の申し子たちからは、今も我々に西欧の市民目線でニッポンを捉えた時代の本質めいたものが伝わって来る・・・
(以下・参考サイト)
チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832年8月31日 - 1891年2月8日)は、イギリス人の画家・漫画家。幕末期に記者として来日し、当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残すとともに、「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊した。また、高橋由一をはじめとする様々な日本人画家に洋画の技法を教えた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・ワーグマン
http://www.yushodo.co.jp/press/punch/index.html
http://kotobank.jp/word/《ジャパン・パンチ》
http://ja.wikipedia.org/wiki/パンチ_(雑誌)
横浜 山手資料館|異人たちの足跡 9 チャールズ・ワーグマン
http://japantourist.jp/view/横浜-山手資料館
チャールズ・ワーグマンの画像
http://www.weblio.jp/outline/content/チャールズ・ワーグマン
チャールズ・ワーグマンが語る|横浜外国人居留地の生活|ジョゼフ・ロガラ(山下仁美訳)
http://shakaigaku.exblog.jp/6097162/
戦争画47|ワーグマンの「日本の印象」
http://runomi.at.webry.info/201207/article_1.html
社会学しよう!|10.マンガ
http://shakaigaku.exblog.jp/6097162/
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 - 1927年10月10日)は、フランス人の画家、漫画家。明治時代の日本で17年間にわたって活動をおこない、当時の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョルジュ・ビゴー
「ジョルジュ・ビゴー展」 | 弐代目・青い日記帳
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年4月7日 - 1927 年10月10日)の全貌が明らかに。ジョルジュ・ビゴー作品312点に加え、東京都写真美術館コレクションから27点の作品が出展されています。 展覧会は以下 ...
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1814
オノレ・ドーミエ
Honoré-Victorin Daumier:1808年〜1879年
19世紀のフランスの画家。ドーミエは、風刺版画家として知られるとともに、油彩画家としてもロートレック、ゴッホをはじめ、多くの画家に影響を与えた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/オノレ・ドーミエ
マルセーユ出身。パリでルイ・フィリップ王政を批判する石版画を発表し、投獄される。その後も、風刺の精神を貫く・・・
http://art.pro.tok2.com/D/Daumier/Daumier.htm
DAUMIER|-の作品-
ロマン派と写実主義を結ぶ多角的天才オノレ・ドーミエは、偉大な画家であるだけでなく、鋭い表現力のある彫刻を作成する彫刻家であり、素描家、石版画家でもあった。彼は同世代の中でも別格の位置をしめている。「オルセー美術館案内」より抜粋・・・
http://www.geocities.jp/nack735/daumier.html
伊丹市立美術館は兵庫県伊丹市にある美術館で1987年開館し、旧石橋家住宅・旧岡田家住宅(国の重要文化財)や柿衞文庫などがある一角「みやのまえ文化の郷」内に建つ。 19世紀フランスを代表する作家オノレ・ドーミエの2,000点を越えるコレクションを核として諷刺や笑いをテーマにしたヨーロッパの絵画や版画のほか、近現代の画家の作品の収集・研究・展示を行っている。また明治初期に日本で活躍したジョルジュ・ビゴーの諷刺版画等も多く所蔵する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊丹市立美術館
J・J・グランヴィル
J.J. Grandville:1803年〜1847年
フランスの風刺画家である。本名は、ジャン・イニャス・イジドール・ジェラール:Jean Ignace Isidore Gérard。フランスの南東、ナンシー生まれ。筆名の「グランヴィル」は役者をやっていた祖父母の芸名から名づけた。絵についての教えは画家の父から学んだ。21歳のときパリに行き「Les Tribulations de la petite proprieté」と題したリトグラフ集を出版。その後「Les Métamorphoses du jour」(1828-1829年)で名声を確立する。これは胴体が人間で首から上が動物で描かれている風刺画の作品集であった。後年、体制に対する風刺画からより幻想的な作風に変化し、花を擬人化した作品集「花の幻想」(フルール・アニメ)、より幻想的な「別世界」などの作品集が残っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/J・J・グランヴィル
http://sol.oops.jp/illustration/grandville.shtml
フランスのカリカチュア( 風刺漫画)について
http://www.shimofusaya.com/works01.html
http://mitaka.jpn.org/ticket/110416g/
どう描かれたの? 明治ニッポン|~風刺画に見る世界の「目線」~
http://waratte.nosmilenolife.jp/edn/edn090819.html
トバエ(フランス語原題 "TÔBAÉ - journal satirique") は、 フランス人画家ジョルジュ・ビゴーが横浜居留地で発行した風刺雑誌・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/トバエ
ル・シャリヴァリ|PPS通信社
ストックフォト| ル・シャリヴァリ | 検索された画像を表示
http://search.ppsimages.co.jp/cgi-bin/search.cgi?rm=results&site=Meta&do_search=1&form_name=metahistory&per_page=60&orientation=&session_id=&keyword_and=ル・シャリヴァリ
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Charivari
パンチ(Punch, or The London Charivari)は、ヘンリー・メイヒュー及びマーク・レモン、そして木版画家エビネザー・ランデルズにより、1841年7月17日に創刊されたイギリスの週刊風刺漫画雑誌である。『パンチ』の創刊者達はフランスの日刊風刺新聞『ル・シャリヴァリ』 Le Charivari を見て、イギリスにも同様の雑誌を作ろうと考えた。その風刺的かつユーモラスな意図を反映して、彼らはその雑誌に、過激な言動で知られていた人形芝居のキャラクターであるミスター・パンチの名を冠して発行人に据え、またフランスの雑誌にあやかって「ザ・ロンドン・シャリヴァリ」と副題を添えた。現代の用語カートゥーンが漫画を意味する言葉となったのは、『パンチ』の功績である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/パンチ_(雑誌)
第一次世界大戦の期間を含む1923年以前の「パンチ」のバックナンバーは、プロジェクト・グーテンベルクで閲覧可能である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/プロジェクト・グーテンベルク
「イラストレイテド・ロンドンニュース」(The Illustrated London News)は、世界で初めて、ニュースをイラストレーション入りで報じることに主眼を置いたイギリスの週刊新聞・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ
↓ (以下) 現在の日本の風刺画・漫画家
針 すなお はり すなお:1933年〜
日本の漫画家、イラストレーター。武道家でもある。佐賀県佐賀市出身。 ... 朝日新聞と佐賀新聞に政治漫画連載中の他、産経新聞の政治家の似顔絵を担当している。 佐賀市に道場「高伝館」を開き、合気道と杖術 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/針すなお
小島 功 こじまこお:1928年〜
日本の漫画家。現在の東京都台東区根岸出身。男性。血液型はO型。川端画学校、太平洋美術学校中退。漫画家の安野モヨコは姪にあたる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/小島功
漫画家 小島功(こじまこお)のオフィシャル・ホームページです。
http://www.ko-kojima.jp/
マッド・アマノ:1938年〜
東京都出身。本名は天野正之(あまのまさゆき)。グラフィックデザイナー。有限会社ビッグバン代表取締役。東京藝術大学美術学部卒。
フォトモンタージュによるパロディ作品で知られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マッド・アマノ
いしい ひさいち:1951年〜
漫画家。岡山県玉野市出身。関西大学社会学部卒業。本名は石井壽一(読みは同じ)。編集プロダクション「チャンネルゼロ」監査役。扱うテーマは、プロ野球に始まり、政治、経済、時事問題、ミステリ、哲学など、多岐に渡る。強烈にデフォルメされた有名人の似顔絵も特色。過激な毒舌を展開しながらタブチくん(田淵幸一)に代表される可愛らしいキャラクター作りでどこか憎めない話に仕立てるその手腕は非常に高く評価される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/いしいひさいち
山田紳(やまだ しん)
1940- 昭和後期-平成時代の漫画家。
昭和15年11月11日生まれ。商事会社につとめながら,横山泰三らがおしえるマンガ学校でまなぶ。共同通信,「朝日新聞」などに政治や時世を風刺する1コマ漫画をかく。昭和57年文芸春秋漫画賞,平成4年日本漫画家協会賞優秀賞。長野県出身。東京水産大(現東京海洋大)卒。本名は雄司。
https://kotobank.jp/word/山田紳-1117854
宮武 外骨(みやたけ がいこつ、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和30年(1955年)7月28日)は明治~昭和期のジャーナリスト、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮武外骨
幕末年表
http://meiji.sakanouenokumo.jp/1861.html
第一次東禅寺事件
文久元年(1861年)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/東禅寺事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/生麦事件
鳥羽絵とは、江戸時代に描かれた略画体で漫画的な絵を指す。
やや滑稽な略筆体の作品を鳥羽絵と称しており[1]、大坂松屋の耳鳥斎による『絵本水也空』などが知られていた・・・特筆すべきは歌川国芳で、例えば落書きを真似て人物を描いた「荷宝蔵壁のむだ書」のユニークな釘書きの戯画や、「人あつまって人になる」のような、多くの人間が絡み固まっているのが人の顔に見えてくる感じがする1枚がある。まるで、ジュゼッペ・アルチンボルドの着想をどこかで見たのかと思うようなシュールリアリズム風の戯画シリーズさえ存在する・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/鳥羽絵
カリカチュアとは|「ラ・カリカチュール」廃刊後の風刺世界
1830年9月に「ラ・カリカチュール」が発刊されました。ここから「ルイ・フィリップ対フィリポンら、カリカチュールの画家たち」という戦いが始まります。
http://www.yushodo.co.jp/pinus/52/forum1/for104.html
http://www.yushodo.co.jp/pinus/52/forum1/for101.html
http://www.yushodo.co.jp/pinus/52/forum1/for108.html
戯画(ぎが)は、おかしみのある絵、または戯れに書かれた絵。風刺の意図をもって書かれた物も多い。カリカチュア、風刺画ともいう・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/戯画
カリカチュア【caricature】
特徴を大げさに強調して描いた風刺画。戯画。カリカチュール。文章や芝居での風刺的な表現にもう。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/03698000/
アレゴリー(英: Allegory)とは、絵画、詩文などあらゆる表現における抽象を具体化する技法の一つである。意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アレゴリー
風刺漫画とは、現実の社会や政治を風刺することを目的とする漫画の一ジャンルである。新聞では社説やコラムなどとともに掲載される事が多く、1コマ・4コマといったように比較的短い作品が中心となる。また、イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』から、「ポンチ絵」・「パンチ絵」という風刺・寓話要素を込めた絵を指す言葉が生まれたが、現在では漫画そのものを指す語として用いられることも多い・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/風刺漫画
寓話(ぐうわ)とは、比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭す事を意図した物語。 名指しされる事のない、つまりは名無しの登場者は、動物、静物、自然現象など様々だが、必ず擬人化されている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/寓話
ピーテル・ブリューゲル Pieter Brueghel the Elder 1525-1569 | 不明(ネーデルランド) | 初期ネーデルランド絵画
盲人の寓話 (The Parable of the Blind) 1568年 | カポディモンテ国立美術館
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/brueghel.html
社会学しよう!|日本の漫画|鳥獣人物戯画
http://shakaigaku.exblog.jp/6097162/
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