ぶらり京都-54 [方広寺の正面通]
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「京都〜て、三条大橋、四条大橋、五条大橋で七条大橋か・・・その間の六条大橋は何で無いのかな〜」
後ろから声がする・・・「それ、正面橋や〜な〜・・・」
振り返ると、この辺りの郷土史家のご老人がにっこりと微笑んでいた。
都市、特に都市計画は当然時代の権力者によってつくられ、しかも時代を握る権力の力学で変化している・・・
以下、郷土史家のご老人のお話などから「方広寺の正面通」を通して都市を考えてみる・・・
方広寺|豊国神社|Googleマップ(2013年11月20日撮影)


京の都は、794年(延暦13年)桓武天皇によって、
南北1753丈(約5.2km)
東西1508丈(約4.5km) の広さで、
京の通り名のわらべ唄・・・
「まる たけ えびすに おし おいけ あね さん ろっかく たこ にしき・・・」
と、歌われるように、
京の中心天皇家の「御所」を南北に走る朱雀大路の西側を右京、東側を左京といい、南北・東西に走る「条」と「坊」によって、碁盤の目のように区画されていた。
しかし、その都も室町幕府の応仁の乱に大半を焼失し、戦国時代においては、
司馬遼太郎著の「国取り物語」の冒頭にも出て来る・・・
「その乞食(ごうむね=斎藤道三)は、御所の紫宸殿のやぶれ築地に腰をおろし・・・
御所とはいえ、もはや廃墟といっていい。風は、弘徽殿、北廊、仁寿殿のおちた屋根、朽ちた柱のあいだを吹き通りつつ、土塀の上の乞食のほおをなぶっていた・・・
灯が一つ、灯っている。そこに、この国の天子が住んでいる・・・「関白袋」と称する袋をさげて京都市中をまわり、一握りずつの米を貰い歩き、かろうじて御所のその日の煙をたてていた・・・」
と、この文章からも、都の面影は全く無く惨憺たるありさまだった様だ・・・
その戦国時代も終わり、天下人の階段を駆け登った豊臣秀吉は、1583年(天正11年)大阪城を築城し、京都に聚楽第(1587年/天正15年)や、伏見城(1591年/天正19年)を次々に建造。1588年(天正16年)に刀狩令や海賊停止令を発布後の、1590年(天正18年)に京都における新たな「通(とおり)」の整備、およびそれにともなう町割の変更、京都を囲む土塁である御土居(おどい)や、寺院の寺町への移動などの京都改造事業、天正の地割(てんしょうのじわり)が行われる。

(以下は、郷土史家のご老人に頂いた写真)

↑(上は方広寺の大仏殿、当時の予想設計図)
その正面を方広寺の大仏の正面につながる通りとし、東の方広寺から西に一直線に道が造られ「正面通」と名付けられるが、しかし、わずか1年後の1596年(慶長元年)慶長伏見地震により大仏殿は倒壊する・・・
(下は、再建後の1798年/寛政10年に再び落雷による火災で焼失した後の梵鐘)↓

京都を流れる鴨川の橋は、豊臣秀吉の頃の公設橋の三条大橋・五条大橋、太田垣蓮月が私財を投じて造られた丸太町橋、町衆の力を集めて造られた四条大橋などの私設橋など、橋それぞれにいろいろな歴史が存在し、そして橋の多くは、水害で倒壊したり、河川改修、道路拡幅や老朽化に伴い架け替えられ、もともと六条大橋は無く「六条河原」を少し避けて、この「正面橋」が六条大橋にあたるようだ・・・



そして、その時代を見事に描いた絵が残っている・・・「舟木本・洛中洛外図屏風」
右に豊臣氏の方広寺大仏殿を、左に徳川氏の二条城を対比させ、街には各種の階層の人々、特に庶民が中心に描かれ、その数はおよそ2,500人に及ぶ。
その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家は岩佐又兵衛と云われる、通称「吃の又平(どものまたへい)」は摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・1579年(天正7年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護され一命をとりとめる・・・

東京国立博物館 |名品ギャラリー| 洛中洛外図屏風(舟木本)らくちゅうらくがいずびょうぶ/ふなきぼん|拡大表示
http://www.emuseum.jp/detail/100318/001/044?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion%3D®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=289&num=4&mode=detail¢ury=
右隻(洛。中洛外図屏風)右京/豊臣氏の方広寺大仏殿
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0021423.X1.jpg
左隻(洛中洛外図屏風)左京/徳川氏の二条城
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0021426.X1.jpg
館蔵品詳細|画像一覧|洛中洛外図屏風(舟木本)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A11168&t=
↓ (舟木本-左隻/左すみの真ん中の三楼の建物が二条城)画像クリックで東京国立博物館の大きな絵が見れます。



↑(出典:http://www.yamada-kj2.com/renaissance/japan_beau/rakuchu_rakugai/funaki/funaki.html)
そして「正面通」は・・・
平安時代の藤原道長の頃から君主に代わって「政を摂る」役職、摂政(英:Regent)もしくは関白が常置の官となり、鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、摂政・関白は明治維新まで続いた。例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀吉と豊臣秀次の2名で有り、他に平安時代から江戸時代までには存在しない。
この「君主に代わって・・・の摂政」の神格化を恐れ・・・
徳川家康はその摂政(英:Regent)である関白・豊臣秀吉の神格化をふせぐために、秀吉死後の翌年の1598年(慶長3年)に建立された豊国廟、豊国神社を壊滅させ、神号は廃され社殿は朽ちるまま社領は没収、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせて神体をひそかに移す。遺愛の息子 鶴松を祀った祥雲寺を、智積院に与え、方広寺は、妙法院に与え、さらに、方広寺と本願寺の間には、本願寺を分裂させて、東本願寺を創建し、東向きに阿弥陀堂を建てさせ、さらにその間に、東本願寺の住職に土地を与え、渉成苑を建てさせ、豊国廟から本願寺の直線「正面通」を、ことごとく分断し消し去っていった・・・


その後、尊王攘夷を経て明治維新1868年(明治元年)に徳川幕府から大政奉還させた明治天皇が、
「秀吉は天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣である」(摂政:Regentである関白・豊臣秀吉)
として、豊国神社の再興を布告し明治13年(1880年)に現在の姿に再建し、その正面は現在「正面通」と地図上に記されている・・・
京都千年余の街の「正面通」は・・・
もともと無かった通りが豊臣の世で「正面通」が出来、徳川の世で寸断され、民衆の手で再び蘇り、宮家の摂政(英:Regent)と云う深い歴史から新たな時を得る。それは、この街が持つ時代を握る奥深い得体の知れない権力の力学で変化した・・・
そして、1798年(寛政10年)、落雷による火災で焼失してから200年余、梵鐘の音は今も時を刻む・・・

(追記)
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉は伏見桃山城で没し、遺命により、秀吉が建てた方広寺大仏殿の近くにある小さな山「阿弥陀ヶ峰」に葬られ、当時は山麓には壮大な本殿・舞殿・神宝殿・護摩堂・鐘櫓・太鼓櫓などの社殿が整然と立ち並んでいたらしい。しかしそれらは豊臣家滅亡後、徳川の手によって破却され、現在は豊国廟(ほうこくびょう)として、1898年(明治31年)秀吉没300年祭で、一対の石灯籠と門が造営され、そして今、豊臣秀吉は京都を見下ろす山頂に至る565段の階段の上に佇む豊国廟で静かに眠っている様だ・・・
豊国廟(ほうこくびょう)|京都女子大学の上|Googleマップ
(以下・参考サイト)
方広寺(ほうこうじ)
方広寺は天台宗山門派の寺で豊臣秀吉により建立された。大日如来、大黒天を祀る。天正14年(1586年)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年( 1595年)に完成した。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺
京の大仏さん -方広寺大仏殿跡の調査-|(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
大仏といえば奈良東大寺のもの が有名ですが、京都にも豊臣秀吉 が創建した方広寺に大仏が安置さ れていました。
江戸時代の洛中洛外図などを見 ると、大仏殿は三十三間堂の隣に 堂々と描かれています。また、門 前には大仏餅を売る店があり、大 勢の人で賑わっていたようすがう かがわれます(図3)。
そ の 大 仏 殿 は 寛 政 十 年 ( 1 7 9 8 )に焼失し、その後同じ様な規模の 建物や大仏が再建されることはあ りませんでした。しかし、現在で も方広寺の巨大な石垣や、梵鐘な どが残っています。
1 9 9 8年の 京 都 国 立 博 物 館 内 の 発 掘調査では、南門跡・回廊跡や石 垣などを検出し、方広寺境内のよ うすが少しずつわかってきました(リーフレット京都No.135)。
http://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/151.pdf
正面通(しょうめんどおり)は京都市の東西の通りの一つ。大和大路通の方広寺から千本通まで。渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断する。渉成園と不明門通(この付近では烏丸通と一体)の間では中珠数屋町通とも呼ばれる。正面通の名称は、方広寺の大仏の正面につながる通りであることに由来する・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/正面通
京都正面橋
http://www.kyototsuu.jp/Geography/StreetSyoumenDoori.html
正面通りは、現在の豊国神社前から西に向かって伸びている道で、その名前の由来は豊国神社の地にかつて方広寺の大仏があり、その正面につながる通りであることに由来するものと伝えられています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamaibaaosainaikyo/65266178.html
正 面 橋 (下京区-東山区)
http://everkyoto.web.fc2.com/report25.html
五 条 大 橋 (下京区-東山区)
http://everkyoto.web.fc2.com/report13.html
六条通(ろくじょうどおり)は京都市の東西の通りの一つ。東は河原町通から西は堀川通まで、楊梅通や的場通の南で花屋町通の北にある。平安京の六条大路にあたる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/六条通
白川夜船-消えた六条大路-
http://onsen-man.cocolog-nifty.com/daisuki/2007/09/post_14e3.html
京都まにあ|六 条 源 氏 通
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/u2me2/kyo/no.6/01.html
六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/六条河原
国家安康君臣豊楽
http://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺
方広寺鐘銘事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/大坂の役#.E6.96.B9.E5.BA.83.E5.AF.BA.E9.90.98.E9.8A.98.E4.BA.8B.E4.BB.B6
紫宸殿(ししんでん・ししいでん)とは、内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。 ... の皇居である里内裏で再建され、現在の京都御所(これも元は里内裏である)にも安政2年(1855年)に古式に則って再建されたものが伝わっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/紫宸殿
弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。転じて、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われる。後者で女御の場合は「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」とも呼ぶ。 清涼殿に近く、後宮で最も格の高い殿舎であり、皇后・中宮・女御などが ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/弘徽殿
天正の地割(てんしょうのじわり)または天正地割とは、天正年間に豊臣秀吉によって行なわれた、京都における新たな通りの建設、およびそれにともなう町割の変更である。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉は南北方向の通りの中間に新たに通りを建設し、これまで空き地だったところを新たな「町」にした。これは聚楽第や御土居の建設、寺院の寺町への移動などと並ぶ秀吉の京都改造事業の一貫である。これにより京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/天正の地割
http://ja.wikipedia.org/wiki/聚楽第
http://ja.wikipedia.org/wiki/御土居
寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であった。東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担が大変であったことがフロイスの『日本史』に書かれている・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/寺町通
聚楽第(じゅらくだい、-てい)は、安土桃山時代、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区)に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/聚楽第
聚楽第跡
豊臣秀吉が1587年(天正15)京都に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅。東西600メートル、南北700メートルという。二条城より一回り大きい規模で、周囲に堀をめぐらす。1595年(文禄4)秀次を謀反の疑いで追放し聚楽第も破却。大徳寺唐門・妙覚寺表門は遺講。旧敷地中央付近に駒札・石碑。市バス千本出水300メートル。
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000024
http://ja.wikipedia.org/wiki/大坂城
東寺南大門(なんだいもん)
http://www.kyotok.net/tera711.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/東寺
三十三間堂南にある太閤秀吉遺蹟の「太閤塀(たいこうべい)」と「南大門 ...
http://kioto-syokai.at.webry.info/201103/article_24.html
三十三間堂(蓮華王院)南大門
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000006
京都を歩く不思議辞典|三十三間堂とその周辺
http://www.eonet.ne.jp/~kyoto-fushigi/sub12.html
京の通り名 わらべ唄
京都市内の通りは、唐の都であった長安にならって条坊制を採用し、東西南北に碁盤の目になっています・・・
http://www.kotomeguri.com/k_mame/toori_song.html
平安京の大路小路
http://ja.wikipedia.org/wiki/京都市内の通り
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Heiankyo_map.png
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を取る国家において、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/摂政
http://ja.wikipedia.org/wiki/君主制
http://ja.wikipedia.org/wiki/共和制
洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)は、室町時代から江戸時代にかけて描かれた風俗画で、京都の市街(洛中)・郊外(洛外)を俯瞰して描いたもの。多くは狩野派の手になり、ほとんどは屏風絵である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/洛中洛外図
狩野永徳筆 国宝の上杉本が有名・・・
19世紀まで数多くの「洛中洛外図」が描かれており、約100点の作品があるという・・・
「舟木本/洛中洛外図屏風」
京都の市中と郊外を描く洛中洛外図の一つ。右端に豊臣氏の象徴である方広寺大仏殿,左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させる。鴨川の流れが左右の2隻を連繋し,密集する京の町が四方に広がる。各層各種の人物が生き生きと活写され,その数は2500人に及ぶ。もと滋賀の舟木家に伝来し,舟木本の名で親しまれている ・・・
洛中洛外図屏風(舟木本)重要文化財
指定名称:紙本金地著色洛中風俗図
6曲1双(洛中洛外図屏風(舟木本)のうち)紙本金地着色
各162.7×342.4 江戸時代・17世紀 東京国立博物館
http://www.emuseum.jp/detail/100318?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=289&num=4&mode=detail¢ury=
東京国立博物館-トーハク-の公式サイト
東京国立博物館 - コレクション|名品ギャラリー| 洛中洛外図屏風(舟木本)らくちゅうらくがいずびょうぶ/ふなきぼん
右隻(洛中洛外図屏風)右京/豊臣氏の方広寺大仏殿
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0021423.X1.jpg
左隻(洛中洛外図屏風)左京/徳川氏の二条城
http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0021426.X1.jpg
館蔵品詳細|画像一覧|洛中洛外図屏風(舟木本)
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A11168&t=
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年)~慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/岩佐又兵衛
鴨川に架かる橋の名前
http://everkyoto.web.fc2.com/bridge.html
正面橋(下京区-東山区)
http://everkyoto.web.fc2.com/report25.html
五条大橋 (下京区-東山区)
http://everkyoto.web.fc2.com/report13.html
大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/太田垣蓮月
基礎データ平安京は、延暦13年(794)に桓武天皇によってつくられた都です。 南北1753丈(約5.2km)、東西1508丈(約4.5km)。 南北・東西に走る大路・小路によって、碁盤の目のように区画されていました・・・
http://homepage1.nifty.com/shiun-sai/sub5_01.html
平安京条坊図
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/hojoki/heiankyo.PDF
豊国廟(ほうこくびょう)
豊臣秀吉(1537年~1598年)公のお墓で、京都東山の阿弥陀ヶ峰にある。伏見城で亡くなった秀吉公は、遺命により、秀吉公が建てた方広寺大仏殿の近くにある小さな山、阿弥陀ヶ峰に葬られ・・・本殿・舞殿・神宝殿・護摩堂・鐘櫓・太鼓櫓などの社殿が整然と立ち並び壮麗だったという・・・豊臣家滅亡後、徳川氏の手によって豊国社は破却され、250年もの間、庶民の参拝もままならなかった。江戸幕府崩壊後、明治天皇のご沙汰で方広寺大仏殿跡地に豊国神社が再興され、豊国廟も明治31年(1898年)、秀吉公300年祭にあたって、豊国会の手によって全国から浄財を集めて造営された。
山頂に至る565段の階段を上ると、高さ約10メートルの五輪塔にたどり着く。ここに秀吉公が眠っている。登っていくと、ちょうど真ん中ぐらいに門があって、広場がある。ここが太閤坦(たいこうだいら)で、豊国社の権現造による社殿が作られた場所である。今は一対の石灯籠と門があるだけである・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/nypky810/63438794.html
http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/11f2b408742aecd4d70632acbb125638
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