パリに死す「3人の街角」
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そして、画家や彫刻家は無論、文化人ともなれば有名無名を問わず、多くの日本人がパリをめざし・・・
1884年(明治17年)に黒田 清輝が、1900年(明治33年)に浅井 忠、同じ年に夏目漱石はロンドン留学の途上にパリ万博を見て、1907年(明治40年)には永井荷風や安井曾太郎が、翌年にはロダンに傾倒する高村光太郎や、ルノワールの指導を受ける梅原龍三郎、そして川島理一郎や島崎藤村に金子光晴、フランス社交界で東洋の貴公子「バロン薩摩」ともてはやされた薩摩治郎八と、その数は計り知れず、その後もファッションに香水や料理にパティシエなど、多種にわたり多くの人々が渡仏し文明や文化は融合され今日に至っている・・・
その頃の1913年(大正2年)、藤田 嗣治が森鴎外の薦めで東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、船旅でマルセーユを経過してパリにたどり着いた頃、この街はヨーロッパの総てを網羅した華やかな街に発展していた・・・
「ノートルダム」 "Le quai aux fleurs, Notre-Dame" 藤田嗣治:Foujita Tsugouharu 38.0 x 46.0cm/油彩画/1950年 ポンピドゥー・センター蔵:Centre national d'art et de culture Georges-Pompidou |
翌年の1914年に第一次世界大戦が勃発し、大戦終結の1922年、藤田の乳白色と云われる独特の白で描かれた「寝室の裸婦キキ:Nu couché à la toile de Jouy」を発表し、パリの街に一大センセーションを巻き起こしスターダムにのし上がる。帰国後の第二次世界大戦中に戦争画を手がけ、敗戦後の1949年この戦争協力による批判やGHQからも追われながら、パリから南西に約30キロ離れた郊外のヴィリエ・ル・バークルの寒村にアトリエを構える。往年のパトロン、ランスのシャンパンメーカーG.H.Mumm(マム)社・社長ルネ・ラルーが後見人となり、1959年カトリックの洗礼を受け、名前もレオナール・ フジタ:Léonard Foujita に改め、ランス郊外のマム社の敷地に建てられた「チャペル・フジタ」で82年の生涯を終える。藤田がパリで描いた絵はほとんどが人物画で、風景画、特に街角の絵は第二次世界大戦後に描かれたものがほとんどで、主にカラーエッチング(銅版画)として販売されている・・・
パリの街の一コマを切り取った名画として、カフェで見かけたパリジェンヌの眼差し、そしてその後ろの街角。そこからは、彼が生きたパリが見える・・・
「カフェにて」 "Au Café" 藤田嗣治:Foujita Tsugouharu 74.0 x 62.5cm/油彩画/1949年 ポンピドゥー・センター蔵:Centre national d'art et de culture Georges-Pompidou (注)この絵はいくつかのヴァージョンがあり3枚制作されているいる様です。詳しくは以下↓・・・ (対象に迫った画面の構成、描かれた女性の姿勢や表情などが違います・・・) http://www.magictrain.biz/blogpage/artpage.html |
藤田が1913年(大正2年)にモンパルナスに居を構えた頃のパリは、ベル・エポック(Belle Époque・良き時代)と呼ばれ、そのパリが一番華やかだった時代も陰りを見せはじめ、第一次世界大戦(1914年〜1918年)とともに終焉する。そして、美の中心地もモンマルトルの丘からモンパルナスに移り、アンリ・マティスやジョルジュ・ルオー、ドラン、ヴラマンクなどのフォーヴィスム(Fauvisme 野獣派)が生まれ、その後「パリ派」と云われるモディリアーニやユトリロ、マリー・ローランサンやモイズ・キスリングのエコール・ド・パリ:École de Parisへと美の時代は動いていた・・・
「場末の街:魅せられし河」 "Outskirts" 藤田嗣治:Foujita Tsugouharu カラーエッチング/1951年 |
そして、パリの街を描く元祖風景画家・モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo/1883年〜1955年)は29~30才・・・
若いうちからアルコール中毒で、飲酒治療の一環として絵を描きはじめ、作品はほとんどが風景画で、階段のある通りや坂道、小路、教会などの身近なパリの風景を描いたもので、モンマルトル界隈の街並みや建物を、絵の具に漆喰を練り混ぜた白色系で描き、アルコール中毒で精神病院への入院を繰り返しながら年間600枚もの作品を生み出し、彼の作品の評価がもっとも高い [白の時代 :1909年〜1914年頃] から、黒い線で仕切られ、絵はがき的な作品が多い [クロワゾンの時代:1915年頃〜1920年頃] にさしかかっていた。
[印象主義の時代]
1903〜1908年頃・・・
[白の時代 ]
1909年〜1914年頃・・・
モンマルトル界隈の街並みや建物の壁を、漆喰を練り混ぜたり白やクリーム系で描き、年間600枚もの作品を生み出している。そしてこの時代の作品の評価がもっとも高い。
[クロワゾンの時代]
1915年頃〜1920年頃・・・
[色彩の時代]
1920年〜1955年頃・・・
←モンマルトルのテルトル広場
(Pl.du Tertre)の晩年のユトリロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/モーリス・ユトリロ
1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終決し、モンパルナスでは劇場やミュージックホールが多数ひしめき、毎晩、華やかな祝祭と酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返される「狂乱の時代:レ・ザネ・フォル/Les Années Folles」を迎えていた。そんなパリの街に、佐伯 祐三は1924年(大正13年) 1月から1926年1月まで滞在し数多くの作品を残している・・・
「アンドレ ドリュード シャトー」 "Drew André du Chateau" 佐伯 祐三:Saeki Yuzo 油彩カンヴァス/72.7 x 59.2cm/1925年(大正14年) ポーラ美術館蔵:Pola Museum of Art |
佐伯 祐三は東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学、藤島武二に師事し、1923年(大正12年)に同校を卒業後に学生結婚の池田米子と長女彌智子(やちこ)を伴いパリに滞在している。1925年ユトリロを見て感動しパリの街景を描き続ける。2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯は持病の結核が悪化し、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院後、ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、フォーヴィスム(Fauvisme 野獣派)のブラマンクに支持し、代表作の多くは2度目のパリ滞在で描かれている・・・
「レストラン:オテル・デュ・マルシェ」 "Restaurant ( Hôtel du Marché )" 佐伯 祐三:Saeki Yuzo 油彩カンヴァス/54.5×65.4cm/1927年(昭和2年) 大阪市立美術館蔵(大阪新美術館建設準備室):Osaka City Museum of Fine Arts |
パリの街角や店先など、独特の荒々しいタッチで描き、その風景画にはモチーフとして街角のポスター、看板などの文字が魂の叫びの様に描かれている・・・
「カフェ・レストラン」 "Cafe Restaurant" 佐伯 祐三:Saeki Yuzo 油彩カンヴァス/59. 9×73. 0cm/1928年(昭和3年) 大阪市立美術館蔵(大阪新美術館建設準備室):Osaka City Museum of Fine Arts |
壁面に貼られた店先や広告の燃え尽きる様なポスター、重くのしかかる暗いパリの裏街・・・
「ラ・クロッシュ」(時を告げる鐘) "La Cloche, Paris" 佐伯 祐三:Saeki Yuzo 油彩カンヴァス/52.5×64.0cm/1927年(昭和2年) 静岡県立美術館蔵:Shizuoka Prefectural Museum of Art. |
一時帰国期をあわせてもパリでは4年余りの短い制作期間であり、命を刻むかのように描かれた作品は、いずれも踊るような繊細な線描で激しい情熱を強く感じさせ、今日もなお多くの人々を魅了し続け、現在も彼の住まいは新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館として公開されている・・・
「広告“ヴェルダン"」 Poater " Verdun" 佐伯 祐三:Saeki Yuzo 油彩カンヴァス/54.0×65.4cm/1927年(昭和2年) 大原美術館蔵:Ohara Museum of Art. |
繊細な藤田 嗣治と激しいタッチの佐伯 祐三と、色使いなどが良く似たイメージの絵を並べてみると、二人の街角の違いが見える・・・
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←「テルヌ広場」
"Place des Ternes"
藤田嗣治:Foujita Tsugouharu
40 x 30cm/カラーエッチング/1951年
"Cafe TABAC"
佐伯 祐三:Saeki Yuzo
油彩カンヴァス/54. 5×65. 1cm/1927年(昭和2年)
個人蔵(大阪新美術館建設準備室寄託)
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そして、藤田 嗣治が渡仏した1913年(大正2年)のパリや、佐伯 祐三の1924年(大正13年) や2度目の渡仏にあたる1927年(昭和2年)頃、当時は世界一の街としての繁栄の中にあっても、今の街並からは想像出来ないくらい、当時の写真を見ていると非常に薄汚く暗い印象をうける・・・
荻須 高徳(おぎす たかのり)がパリに来たのは、佐伯 祐三が2度目の渡仏にあたる、1927年(昭和2年)であり、当時のモンパルナスからカルチェ・ラタンにかけて日本人が点在して居を構え、気の合うもの同士が助け合いながら日本人村?の様なコミュニティー?が出来上がり、パリでの生活をしていた様だ・・・
荻須 高徳は愛知県稲沢市に生まれ。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、小磯良平とは同期生であり、1927年(昭和2年)に同校を卒業後の9月に渡仏し、翌年の1928年(昭和3年)にサロン・ドートンヌに入選する。
しかし、1929年のニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した世界金融恐慌をきっかけに大不況は世界中を席巻し、ついに1939年から1945年にかけて第二次世界大戦へと突入する。そして、1940年のドイツによるフランスの侵攻が始まるとモンパルナスの灯は完全に消え「狂乱と祝祭の時代:Les Années Folles」 は幕を閉じた。
荻須は1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国し、終戦後の1948年(昭和23年)日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏する。以後死去するまでパリで制作活動を行い、1986年(昭和61年)に84年の生涯を終え、モンマルトル墓地に眠る・・・
「サン=タンドレ・デ・ザール広場」 "Pl. St André des arts" 荻須 高徳:Ogisu Takanori 油彩カンヴァス/1936年 ポンピドゥー・センター蔵:Centre national d'art et de culture Georges-Pompidou |
初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクやユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かった・・・
「オー・ボン・ヴィヴァン」 "Au bon vivant" 荻須 高徳:Ogisu Takanori 油彩カンヴァス/1972年 稲沢市荻須記念美術館蔵:Inazawa City Oguiss Memorial Art Museum |
その後は穏やかなタッチで造形性に富んだ構成で、庶民の暮らす裏町を中心に描き続けた・・・
「カンカンポワ通り」 "Rue Quincampoix,Paris" 荻須 高徳:Ogisu Takanori リトグラフ(石版画)・紙/1976年 稲沢市荻須記念美術館蔵:Inazawa City Oguiss Memorial Art Museum |
それらは、日本でグラビアや雑誌の表紙となり、その街角の絵から我々は西欧の何かを垣間みた。
藤田 嗣治が渡仏してから、はや一世紀が通り過ぎ・・・
そして今や地球規模で、あらゆる垣根を跳び越え、文明や文化は融合され今日に至っている・・・
(以下・参考サイト)
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo/1883年〜1955年)
ユトリロは、近代のフランスの画家。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンも画家でモデルで、生活環境に恵まれず、若いうちからアルコール中毒で、飲酒治療の一環として絵を描きはじめる。
作品はほとんどが風景画で、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたもので、ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。第二次世界大戦後まで余命を保つが、作品は、後に「白の時代」といわれる、アルコールに溺れていた初期のものの方が一般に評価が高い。またモンマルトルにある墓には献花が絶えない・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/モーリス・ユトリロ
フォーヴィスム(仏: Fauvisme、野獣派)
1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された一群の作品の、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセル(仏: Louis Vauxcelles、英: Louis Vauxcelles)が「あたかも野獣の檻(フォーヴ、fauverie)の中にいるようだ」と評したことから命名された・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/フォーヴィスム
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ・マティス
http://art.pro.tok2.com/T/Twenty/Fauvism.htm
エコール・ド・パリ(フランス語: École de Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/エコール・ド・パリ
http://ja.wikipedia.org/wiki/モンパルナス
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベル・エポック
http://kotobank.jp/word/レザネ・フォール
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、レオナール・フジタ、Léonard Foujita またはFujita、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/藤田嗣治
佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正~昭和初期の洋画家。大阪市生まれ。
佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごし、フランスで客死した。作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯祐三
荻須 高徳(おぎす たかのり、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県稲沢市生まれ。小磯良平は東京美術学校(現・東京藝術大学)の同期生。新制作協会会員。パリのアトリエで制作中に倒れ死去、墓はパリのモンマルトル墓地にある・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/荻須高徳
モーリス・ユトリロ「ラパン・アジル」 - KIRIN~美の巨人たち
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/050924/
ユトリロ|白の時代
http://www.kismotk.com/~moulin/utliro/utliro7.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュザンヌ・ヴァラドン
テルトル広場(Pl.du Tertre)
http://ja.wikipedia.org/wiki/テルトル広場
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次世界大戦
佐伯祐三に出会える美術館 | ぶらり美術館
http://www.burari-club.com/pages/deauj/deauj_saeki.html
新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館にて
http://blogs.yahoo.co.jp/mm33paramita/53999196.html
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