あるく奈良-20 [飛鳥寺]
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そして、この国に初めて本格的伽藍配置の「飛鳥寺」が創建され、律令制と共に国衙(こくが)・国分寺など、仏教風の思想や文化がこの国の隅々まで浸透していった・・・
飛鳥寺|明日香村|奈良県|Googleマップ
(2015年9月26日撮影)
自転車は「岡寺」から右に折れ、
こんもりとした
甘樫丘(あまかしのおか)を望み、
石畳の旧道を進み、
明日香村の
古い町並みを抜けると、
日本で最初に創建された寺院、
「飛鳥寺」が左に見える・・・
その「飛鳥寺」は、権勢を誇った蘇我氏の氏寺として、蘇我馬子によって588年(崇峻1年)から造営が始まり596年(推古4年)に本格的伽藍配置の日本で最初の寺院として創建される。
本尊は釈迦如来で、通称「飛鳥大仏」と呼ばれ、推古天皇によって、止利仏師(とりぶっし/百済からの渡来人)の鞍作止利/鞍作鳥(くらつくりのとり)らによって605年に造り始め1年後の606年に完成する。高さは約4.85mの日本で最古の木造の仏像・・・
「飛鳥寺」(あすかでら)
奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である・・・
飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日本最古の本格的仏教寺院である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥寺
「鞍作止利」(くらつくり の とり、生没年不詳)
飛鳥時代の渡来系の仏師。名は鳥とも記される。姓は村主。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとする系図がある・・・
法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年)が代表作。安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)も止利作とされているが、後世の補修が甚だしく、当初の部分は頭部の上半分、左耳、左手の指の一部のみとされている。しかし近年、2012年7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが詳しく調査を行った所、現存像の大部分は造立当初のものである可能性が高いとの結論を得ている・・・
その他、法隆寺等には「止利式」と呼ばれる同系統の仏像が現存する。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、古式の微笑(アルカイックスマイル)などに止利および止利式の仏像の特色がある・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍作止利
645年(大化元年)、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが、蘇我一族を滅ぼす「乙巳の変」(いっしのへん)で、お寺の前方に見える甘樫丘(あまかしのおか)で自害した蘇我蝦夷。そしてその子の蘇我入鹿の首塚が、寺を出てすぐ西に、丘を背にひっそりと佇んでいる・・・
その後この「飛鳥寺」は平城京遷都とともに移転し、建築材や瓦などが運ばれ再利用され、世界遺産「元興寺」(がんごうじ)として現在の奈良市内に移っている・・・
(ブログ内参考サイト)
あるく奈良-15 [元興寺]
http://guchini.exblog.jp/23988779/
(以下・参考サイト)
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている(詳細は仏教公伝を参照)・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の仏教
仏教公伝(ぶっきょうこうでん)は、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指す。上代の日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/仏教公伝
乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子、中臣 鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件の ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/乙巳の変
蘇我 馬子(そが の うまこ)は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く...
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我馬子
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我蝦夷
https://ja.wikipedia.org/wiki/蘇我入鹿
https://ja.wikipedia.org/wiki/天智天皇
中臣 鎌足・藤原鎌足
元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名...
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原鎌足
日本の律令制は、概して7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施された。そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。
『日本書紀』によれば推古11年12月5日(604年1月11日)に始めて冠位十二階の制定などの国制改革が日本で行われ、官に12等があると『隋書』倭国伝に記されていることからも、身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るものであった。
646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された・・・
律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/律令制
蘇我馬子が建設!こちらが日本最古の仏像・飛鳥大仏を擁する飛鳥寺
http://masayan-ei.sakuraweb.com/blog/2015/05/01/asukadera/
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