緑の歳月 [ スイカの食べ方 ]
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茨木カントリー倶楽部・西コース・・・(その当時)
(大阪府茨木市・梅田から東へ、JRまたは阪急電車茨木駅から北へ車で約15分ぐらい。コースを回ると、或ホールから万博の太陽の塔が見え、キャーディさんに記念写真を撮ってもらったりした)
そして・・・
かってプレーした事が或る緑のフェアーウェから、一人の人物の顔が思い出された。
加賀 高之氏だ・・・
関西では名門ゴルフ場、ぜひともコースを回ってみてみたいと・・・
とある人(鈴木さん)の紹介で、私より9つ程年上の小太りで穏やかなその人は、名門「茨木カントリー倶楽部」の終身会員、かつ役員をされていたと思うが、(当時はメンバー紹介が無いとプレーは出来なかった・・・)
小生、ゴルフは好きだがスコアーは、へたのへたで、加賀さん曰く「あんたへたやな〜・・・」
私はスコアーより、木漏れ日の緑のグラデーションや、フェアーウエーのアンジュレーションの色の変化、芝生や緑の臭い、木々や風の音、小鳥の囀りなどで、仕事に疲れ果てた日々から、イメージを新たに脳に仕舞い込んだり、精神的な安らぎを得る為の方が大きかった。
プレーが終わり緑を目の奥に焼き付け、ゴルフ場を後にする言葉は「ええ1日やつた〜」だった・・・
プレー中ゴルフ話はもちろん、いろんな世間話や身の上話が出てくる。
加賀さんは・・・・
「あんたデザイナーか、僕は親類が証券会社やってて、ま〜株で・・・」
(今風デイトレーダーか?なあ〜)
「不動産屋とか、ま〜何個か会社経営してたは〜、
今はもう売りはろうたんやけどなあ〜・・・」
(資産家らしい)
後日お礼にと、洋菓子を届けた。
お礼の電話は奥さんからで「ちょっと時間かかりますけど、主人呼びますネ〜」
なかなか出ない、15分ほど経って「おおきに、又やろ〜な、ちょっとはうまなりや!」
元気そうな声が受話器の向こうで弾んでいた。
(迷惑を掛けてはいなかったか?ま〜へたなもんで・・・スンマセン)
15分ほど経って電話に出た彼の家は、
「大山崎山荘(現・アサヒビール大山崎山荘美術館)云ぅて、近所では加賀山荘や、ま〜山荘やから、あっちゃから、こっちゃまでけっこうあるねんけど、その下の横に住んどる。そんでも、広いから・・・」
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/アサヒビール大山崎山荘美術館
(そら、ありすぎやはわ・・・上のURLで・・・)
戦国の世、信長死後秀吉の中国大返しの山崎の戦い、その天王山の中腹にそれは聳え建っている。
(大阪から京都方面へ向かうと、車窓から北方の山の中程に顔を覗かせる)
何時の日だったか、加賀さんから事務所にFaxが届いた。
(確か関西経営者列伝?だったか、記憶は薄れている・・・)
加賀正太郎氏の甥御さんか!・・・下記URLで・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニッカウヰスキー
http://oyamazaki.kyoto-fsci.or.jp/rannomachi.html
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/niwa/31.html
http://www.nier.go.jp/jissen/syakaikyouikuka/080117/asahi.pdf
そう言えば・・・
「ニッカの創始者・竹鶴政孝がよう来てたらしい、情熱に惚れたみたいやで、余市へ行けみたいに」
「年いってからかな〜、グリーンキーパーとこのゴルフ場を改良しよってん・・・」
「なんか背中の匂いがするは・・・」
「蘭の栽培では、日本一や・・・」など・・・
「なんか、おそれおおいわ〜!」
「なに言うてんねん、同じ人間や、あんた楽しいゴルフするな〜・・・」
プレーが終わりレストランで、支配人が4つ、中ジョッキーのビールを持って来た。
「加賀さん、僕の方に付けといてぇ〜な!」
「アホ、あいつ(支配人)のおごりや!」
デザートは、洋風のお皿に三日月形のスイカ、何故かナイフとフォーク?が付いている。
「guchiゃん、このほうがベトベト、口につかへんねん!」
ナイフで好きな大きさに切り、フォークで種を取ったり、口にほおばる。
かっての加賀山荘では、スイカはこの様にして食べていたのか?
まいった!! なあ〜、まさか縁側からペッペはないはナ〜
その後、小生も、スイカはナイフとフォークで食べることにした・・・
古びたスコアーカードには、1987/5/22と記され、
早、20年余の歳月が流れていた・・・
(以下・参考サイト)
加賀 正太郎(かが しょうたろう、1888年1月17日 - 1954年8月8日)は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した日本の実業家。
1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。ヨーロッパに渡り、日英博覧会やキューガーデンの見学、アルプス山脈ユングフラウ登頂を行った。
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭業などで成功した。
1923年の茨木カンツリー倶楽部設立に参画し、理事などを務めた。また1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を構成して同社の筆頭株主となり、社内では「ご主人様」と呼ばれた。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。同年喉頭癌のため大阪赤十字病院で死去
https://ja.wikipedia.org/wiki/加賀正太郎
寿屋(サントリーホールディングスやサントリースピリッツの前身)でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝が、よりスコットランドに近い気候の北海道で、よりよいウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まりである。最初期の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎。加賀は社内では「御主人様」と呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/ニッカウヰスキー
探訪 京滋の庭|大山崎山荘美術館庭園(京都府大山崎町)
天王山からの眺望を絶賛した大阪出身の実業家、故加賀正太郎が1912年から造成に着手した。「一木一石に至るまで、余独自の考案設計」と記している。春と秋に一枚の絵になるように植樹し、噴水のある池や小川をめぐらしたほか、芝のゴルフ場も設けた。週末ごとに財界人や文化人を招いて宴会を催した。
だが、長引く戦争で物資が乏しくなり、ゴルフ場などは野菜畑に変わった。山荘に疎開していた正太郎のおいの加賀高之氏=大山崎町大山崎=は「タンポポの葉を吸い物に入れるなど厳しい生活だった」と振り返る・・・
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/niwa/31.html
http://www.nier.go.jp/jissen/syakaikyouikuka/080117/asahi.pdf
茨木カンツリー倶楽部
http://www.ibarakicc.com
茨木カンツリー倶楽部|当倶楽部について|倶楽部の歴史
http://www.ibarakicc.com/about/history.html
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