感性の時代屋 Vol.1
2020-12-25T11:16:14+09:00
gpo-higuchi
・・自然と楽しく暮らす・・
Excite Blog
Walk神戸-19 [北野坂から Merry Christmas]
http://guchini.exblog.jp/24784892/
2015-12-20T15:05:00+09:00
2018-12-14T14:52:38+09:00
2015-12-20T09:17:10+09:00
gpo-higuchi
未分類
今年の「元気NO1」は、ラグビーの五郎丸のルーティン・・・
北野坂を山まで登り詰めた「うろこの家」から五郎丸のルーティン・サンタとともに神戸の街並みを眺めてみる・・・
北野坂|うろこの家|三ノ宮|神戸市|Googleマップ
(2015年12月19日撮影)
「うろこの家・うろこ美術館」
神戸市中央区の北野町にある歴史的建造物。 美術館「うろこ美術館」を併設する。神戸で最初に公開された異人館である。外壁に貼られた天然スレートの形状が魚鱗のように見えることが館名の由来である・・・
明治38年(1905年)頃、神戸旧居留地に外国人向けの高級借家として建設され、大正年間に北野町に移建された西洋館で、後にドイツ人R.ハリヤーの住居となった。そのため旧ハリヤー邸とも呼ばれるが、「うろこの家」という通称の方が一般的である。館内には、時代の経た家具・調度品とともにマイセンをはじめとする陶磁器、エミール・ガレやティファニーなどのガラス工芸品が展示されている。国の登録有形文化財、兵庫住宅百選の一つである。
Windowsゲーム『Fate/stay night』でロケハンに使用された・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/うろこの家・うろこ美術館
そして、神戸・・・
震災から20年ほどが経ち、世界や日本に羽ばたく際立った産業も生まれず、100万ドルの夜景も東南アジア群に追い越され、街を支えていた港も元気無く、観光産業も世界遺産ほどのものも持たず一時期の輝きは薄れ、近年は都市生活としてベッドタウン化している。
しかも神戸市の人口減少は、2015年9月時点の人口推計で神戸市は153万5454人、6番目の福岡市が153万1919人と辛うじて第5位を保っているものの、来年2月には年間1万人ほどが増加している6番目の福岡市に抜かれることが確実となっている・・・「どうすんねん神戸」
しかし街の進化発展は、行政や政治家では到底及ばない街の人々のマグマの様な底から湧き出る様な時代の力学めいたものが動いているように思える・・・
もともと世界の舶来を積み上げてきた街、そんな老舗神戸で1948年創業の北野坂横の「にしむら珈琲・中山手本店」で喉を潤し、舶来の積み上げ?を北野坂周辺で散策する・・・
にしむら珈琲・中山手本店
「神戸にしむら珈琲店」
1948年に、現在の中山手本店の敷地の一部にあたる場所で雑貨店として創業。京都から仕入れた菓子の売れ行きが良かったことからテーブル3セットを据えて喫茶店として創業し、日本で初めて自家焙煎のコーヒー豆を使ったストレート・コーヒーを提供した。また、カプチーノ、コーヒーゼリーなども、日本では先駆的に導入していた・・・
コーヒーが、市民権を得たのは戦後間もない時期であった。太平洋戦争中や戦後しばらくは、「代用コーヒー」といって大豆をコーヒー豆に見立てたものが流通していたが、にしむら珈琲店はそんな時期から三宮中山手のハンター坂近くに店を構え、
ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカといったブランドのコーヒー豆を使い淹れたコーヒーを提供する女主人が経営する小さな喫茶店として、地元では評判になっていた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸にしむら珈琲店
神戸にしむら珈琲店 |公式サイト
http://www.kobe-nishimura.jp
---------------------- < お知らせ> ----------------------
何時もブログをご覧いただきありがとうございます。
ブログの画像容量(最大1GB)が一杯となり、
2019年1月1日より新たに「感性の時代屋 Vol.3」として3冊目でスタートします・・・
以前からのブログは整理の為にタイトルを変更し、
以前の感性の時代屋は、左のサイドナビにリンク致しました・・・(以下)↓
感性の時代屋 Vol.1 →https://guchini.exblog.jp
2007年~2015年 総件数:445 件
感性の時代屋Vol.2→https://guchini2.exblog.jp
2016年~2018年 総件数:197 件
感性の時代屋 Vol.3→https://guchini3.exblog.jp
2019年~ 総件数:~件
ブログを始めて約10年余の歳月が流れ、
いろんな方々に支えられながら今日に到りました。
紙面をお借り致しまして厚く御礼申し上げます・・・
未熟ながら、これからも「感性を両手に時代を駆け抜けた人々」を探す旅にお付き合い下さい。
尚、記載の「感性の時代屋」Vol.1 Vol.2 は、少し時間をかけて、
加筆や写真の修正、レイアウト等の変更など補足修正する予定です。
悪しからずご了承ねがいます・・・
・・・皆さん良いお年をお迎えください・・・
・・・・・・・・<免責事項>・・・・・・・・
掲載する情報に関しては正しいものを提供するよう務めておりますが、
当サイトが提供する情報及びリンク先を利用したことにより発生した、
いかなる損失・損害について当サイトは一切の責任を負いませんので当サイトのご利用は、
自己責任でご使用ください・・・
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(以下・参考サイト)
↓(画面をクリックすると、820 x 566pixに拡大します)
北野 観光ガイドマップ
http://www.feel-kobe.jp/guidemap/
神戸新聞NEXT|世相サンタに五郎丸選手 神戸・北野異人館に登場
2015/11/20 - ラグビー・ワールドカップ(W杯)イングランド大会で南アフリカを破り、国内外を興奮の渦に巻き込んだ日本代表。立役者の一人、五郎丸歩選手を模したサンタクロース人形が20日、神戸・北野の異人館「うろこの家」に登場した。 2004年から ...
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008581695.shtml
ラグビー五郎丸選手の『例のポーズ』が話題沸騰中!
http://matome.naver.jp/odai/2144283432790820401
ソネ (RESTAURANT & LIVE SONE)
神戸ジャズに出会える店「SONE」 ソフトでお洒落な、とっておきのジャズ. Live Schedule · Topic & News · Foods · Drinks · Contact. Collection; 昼下がりのジャズライブ. Q&A. Copyright(C)2013 Restaurant & JazzliveSone All Rights Reserved.
http://kobe-sone.com
神戸ジャズストリート 公式サイト (KOBE JAZZ STREET)
http://www.kobejazzstreet.gr.jp
ジャズの街~神戸 [ JAZZ TOWN KOBE ]
http://www8.kobe-np.co.jp/jazz/
KOBEjazz.jp | ジャズの街 神戸からお届けする音楽情報サイト
http://kobejazz.jp
神戸北野異人館街
http://www.kobeijinkan.com
神戸エリアガイド 北野/新神戸|神戸公式観光サイト FeelKOBE
http://feel-kobe.jp/area_guide/kitano/index.html
北野坂 - uchiyama.info
http://www.uchiyama.info/oriori/insho/saka/kinki/kitano/
神戸市の人口減少と福岡市
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20151215/DailyNews_1057671.html
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ぶらり京都-102 [鞍馬の天狗]
http://guchini.exblog.jp/24747993/
2015-12-13T10:08:00+09:00
2020-12-25T11:16:14+09:00
2015-12-08T12:23:33+09:00
gpo-higuchi
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鞍馬|京都市|Googleマップ
(2015年11月20日撮影)
「散らねども かねてそ惜しき もみぢ葉は 今は限りの 色と見つれば」
詠み人知らず(古今和歌集)
(この紅葉の葉は散っているわけではないけれど、その前から惜しいと思う、
それを秋の極みの色と思えば…)
↑(線路の左右に夜間照明用のライトが設置されている・・・)
鞍馬駅前から見える鞍馬寺の仁王門をくぐり・・・ 天狗の出そうな鞍馬山に登る・・・ 登り口に、鞍馬の火祭りで有名な由岐神社(ゆきじんじゃ)で足を止め、 樹齢約800年の見事な杉の神木が三本、石の階段の左右にそびえ立つ・・・
「由岐神社」(ゆきじんじゃ)
大己貴命と少彦名命を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。
祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。
「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中の五条天神社は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五條天神社は祭神が同じである・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/由岐神社
http://www.yukijinjya.jp 九十九折参道の坂道を息を切らして登り、鞍馬寺の中門を経て本殿金堂に至る・・・
「鞍馬寺」(くらまでら)
鞍馬弘教総本山、山号は鞍馬山。開基は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。本尊は寺では「尊天」と称している。「尊天」とは毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊であるという・・・
京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する。鞍馬は牛若丸(源義経)が修行をした地として著名であり、能の『鞍馬天狗』でも知られる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍馬寺
http://www.kuramadera.or.jp 本殿金堂から天狗が住む鞍馬山の奥へと・・・ 牛若丸が兵法の稽古をした木の根道・・・鞍馬山には鞍馬天狗が住むという鞍馬伝説・・・
有名な「鞍馬の火祭」以外に、天狗と云うキャラクターとともに、
鞍馬には「天狗の物語」が時代と共に生まれていく・・・
平安時代末期、彗星のように現れた源 義経は、河内源氏の「源 義朝」の九男として、九条院の雑仕女の「常盤御前」との間に生まれ「牛若丸」と名付けられる・・・
1159年(平治元年)平治の乱で平氏に敗れ、父の源義朝は敗死。数え年2歳の牛若丸は母、常盤御前の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡。その後、常盤は都に戻り公家の一条長成と再嫁、今若と乙若は出家し、牛若丸は11歳の時にこの鞍馬寺に預けられ遮那王(しゃなおう)と名乗った・・・
深山幽谷の鞍馬山で天狗から兵法・剣術を授かり修行に励み・・・
その後、僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、五条の橋で弁慶と出会い、奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って平泉に下り、時代は源平と云う大きなうねりのなかで武士の時代を迎える・・・義経16歳
義経が歴史に登場するのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間で、平氏から源氏へ、武士の世も鎌倉時代へと時は移った・・・
そしてこの鞍馬に伝説の様に木の根の道や、僧正ガ谷不動堂、護法魔王尊を祀る魔王殿、義経堂などが残っている・・・
大佛次郎原作の時代劇シリーズ・・・
1924年(大正13年)の第1作「鬼面の老女」から1965年(昭和40年)の「地獄太平記」まで、長編・短編計47作が発表され、46本にのぼる嵐寛寿郎主演のチャンバラ活劇が登場する・・・
時は幕末・・・
「鞍馬天狗」を名乗る神出鬼没の勤王志士が、幕藩方の新撰組の行く手を阻んで縦横に活躍をするさまを描いた、戦前戦後の大衆小説・・・
【監督】大曾根辰夫/1951年/91分/松竹/
【キャスト】嵐寛寿郎、美空ひばり、月形龍之介、山田五十鈴
「トントン、とんまの、テーングさん・・・」決め台詞は「姓はオロナイン、名は軟膏」・・・
花登 筺作の時代劇「鞍馬天狗」のパロディ版、主人公の名前はダジャレで「尾呂内南公(オロナイン軟膏)」・・・
大塚製薬の大村崑主演の鞍馬天狗のパロディー版「頓馬天狗(とんまてんぐ)」は、行く先々で敵役である「珍選組」 の近藤、土方が現れては、コント的要素を加え最後はあっけなく頓馬天狗に斬られるお笑いの生中継時代劇白黒TVドラマ。TVが普及した1959年(昭和34年)〜1960年(昭和35年)によみうりテレビ制作・日本テレビ系列で大塚製薬一社提供で放送。出演者は大村崑に芦屋雁之助、芦屋小雁、に鞍馬天狗の父に三木のり平など・・・
「鞍馬天狗」の物語は、源平の歴史や活劇の映画やドラマ、
果てはパロデイもくっ付いて、紆余曲折しながら我々に語り継がれ遠い物語となっていく・・・
そして秋は、鮮やかな色も山から風に吹かれて、静かな冬へと舞台を変える・・・
「吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ」
文屋康秀(古今和歌集249番・百人一首)
(山から秋風が吹くと、たちまち秋の草木がしおれはじめる。
なるほど、だから山風のことを「嵐(荒らし)」と言うのだな〜)
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(以下・参考サイト)
←(画面をクリックすると、820 x 600pixに拡大します)
https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍馬寺
http://www.kuramadera.or.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/由岐神社
http://www.yukijinjya.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍馬の火祭
https://ja.wikipedia.org/wiki/源義経
https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵坊弁慶
叡山電鉄の鞍馬線|路線図
https://eizandensha.co.jp/densya/
station/station-top.html
鞍馬寺から貴船神社までのハイキングコース
http://kyoto-design.jp/plan/3257
少年・義経が駆け抜けた貴船から鞍馬を行く
http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/kurama.htm
牛若丸伝説を追って、京都洛北の山中の道を行く
http://kazenotabi-kyoto.com/courseguide/yoshitune.html
【ご当地グルメ】
............................................................................
京都・鞍馬「渡辺木の芽煮本舗」
遠い昔、ここ鞍馬の村人は、山の恵みである、あけびの蔓、山椒の芽、山ぶきなどを塩漬けにした「木の芽漬」を常食し...この木の芽漬をもとに、先代が、保存に適するよう昆布と醤油、山椒の実と葉を用いてしぐれ煮風に・・・〒601-1111 京都市左京区鞍馬本町248
【電話】075-741-2025(代表)
【営業時間】午前9時~午後4時 不定休
京都・鞍馬|渡辺木の芽煮本舗|Googleマップ
....................................................
鞍馬天狗 「角兵衛獅子」
http://www.jackandbetty.net/cinema/detail/69/
https://ja.wikipedia.org/wiki/鞍馬天狗_(小説)
http://kari-kari.net/manmonth/2013/12/post-21.html
http://www.jackandbetty.net/cinema/detail/69/
【映画】鞍馬天狗 角兵衛獅子-1951/1:31:04
https://www.youtube.com/watch?v=Rpo4E-pRRWM
大村崑扮する『頓馬天狗』
https://ja.wikipedia.org/wiki/頓馬天狗
とんとんとんまの天狗さん(大村崑&かなりや子供会) 歌唱:亀太郎
https://www.youtube.com/watch?v=Z9cEicQQ46I
とんま天狗 & 1978 オロナインH軟膏/ 1:11
https://www.youtube.com/watch?v=-V4no4_M9Ow
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ぶらり京都-101 [貴船神社]
http://guchini.exblog.jp/24735168/
2015-12-06T11:25:00+09:00
2017-03-13T16:45:59+09:00
2015-12-04T11:21:52+09:00
gpo-higuchi
未分類
今年の京都の紅葉、日にちも色づきもまばらで誠に美しくない。でも昨今の気候に左右される自然の姿は、おそらく全て人間が悪い。「COP 21 Paris」がどうであろうと、お隣の国のスモッグの空をニュースで見るにつけ、地球上でCO2の1/4を排出しながら、後進国だからどうの?のごまかし議論より、そもそも人間の命の問題であり、おそらく近年お隣の人民はバッタバッタと倒れるだろう、そんなレベルの低い基準で国や世界を動かすことをやめないと、この京の街の様に美しくも1200年余を積み重ねることは難しい・・・
その京都、至って爽やかな貴船神社周辺。
川のせせらぎが耳に心地よく、その側を流れる貴船川に沿って上流へぶらりと歩く・・・
貴船神社|京都市|Googleマップ
(2015年11月20日撮影)
「貴船神社」(きふねじんじゃ)
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから濁らず「きふね」という。
創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える・・・
水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/貴船神社 社殿は川下から順に本宮・中宮(結社)・奥宮の3箇所に分かれて建っている・・・ 貴船神社のおみくじは、一見真っ白に見える紙の中から一枚を選び、 境内の霊泉に浮かべると吉凶が解る「水占おみくじ」になっていて、
絵馬は紅葉の葉っぱが人気ですぐ売れ切れるらしい・・・
本宮を出て中宮(結社)へ歩き出す・・・ 途中、シーズンオフで川床は無いが、貴船名物の川床料理店が軒を並べている・・・
貴船神社周辺には料理旅館が数十件あり宿泊も可能で、夏季は貴船川の上に木組みによる川床が設置され、「川床料理」の鮎料理などが供されている・・・
貴船の川床(かわどこ)のはじまりは、暑さしのぎに茶店が、川へ床机を置いたことが始まりで、昭和5年に叡山電鉄が鞍馬まで開通すると貴船を訪れる人が増加し、川床を出すお店も徐々に数が増え、京料理を川床で季節を味わいながら食するようになり、いつしか貴船は「京の奥座敷」と言われるようになった・・・
京都・貴船のお店
http://kibune.jp/omise/
中宮の石段を登る・・・ 中宮(結社)に参拝後、再び上流の奥宮へと歩き出す・・・ 奥宮の入り口にたどり着き、杉木立ちの長い参道を歩く・・・ 奥宮から叡山電鉄の貴船口駅へのバス停まで、川沿いのなだらかな坂を下る・・・
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(以下・参考サイト)
←(画面をクリックすると、600 x 980pixに拡大します)
貴船の川床の歴史・・・
京都・貴船のお店
http://kibune.jp/omise/
貴船の盛衰とともに|貴船 喜らく
貴船の川床のはじまりは、鴨川より新しく大正時代に入ってから。暑さしのぎに茶店が、川へ床机を置いたことが起こりです。今のように料理を楽しむ形式はまだなく、川に足をつけて涼むための場所でした。昭和5年に叡山電鉄が鞍馬まで開通すると、以前に比べて貴船を訪れる人も増加。それからしばらく後、鞍馬山から降りてくる人々に向けて、川床を出すお店は徐々に数を増やしていきます・・・
http://www.kibune-kiraku.jp/introduction/rize_fall.html
KYOTOdesign|貴船の夏 川床
「貴船の川床」は桃山時代に京都のほぼ真ん中を流れる鴨川に桟敷を設け、客をもてなしたのが始まりといわれています。貴船の川床は「かわどこ」と読みます。貴船は「京の奥座敷」と言われることから「床(とこ)の間」と同じ感覚で「川床(かわどこ)」と呼ばれるようになり ...
http://kyoto-design.jp/special/kibune
貴船ふじや|貴船神社鳥居前
http://www.kyotokanko.co.jp/kyoto/kurama/
shop/fujiya.html
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ぶらり京都-100 [大原・寂光院] -建礼門院の秋-
http://guchini.exblog.jp/24687550/
2015-11-28T14:29:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-11-19T14:49:49+09:00
gpo-higuchi
未分類
山深い大原の里に秋が訪れ、琵琶法師が「平家物語」を奏でるように時は静かに過ぎ行く・・・
大原の里|三千院|寂光院...|京都市|Googleマップ
(2015年11月16日撮影)
長い石段の上が寂光院の入り口・・・
「寂光院」(じゃっこういん)
寂光院の草創について、明確なことはわかっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父・用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという・・・
建礼門院徳子は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/寂光院 2000年(平成12年)に放火で焼失した本堂あとと宝物殿の「松智鳳殿」 寂光院の石段を下り、隣の大原西陵(おおはらにし の みささぎ)へ・・・↑ 大原西陵(おおはらにし の みささぎ)入り口の石段
建礼門院(けんれいもんいん/平 徳子:たいら の とくし)は、高倉天皇(第80代天皇)の中宮(妻)として、父は平清盛、母は平時子、子供は安徳天皇(第81代天皇)・・・
平安時代末期、貴族から武士へと時は流れ「平家にあらずんば人にあらず」と云われた時代も、平 清盛と高倉天皇とが相次いで没し、木曾義仲の攻撃とその後、源 義経により都を追われ・・・
西国に落ちた平氏は1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが救助され、その年の9月に大原の「寂光院」に入り、院号が建礼門院(けんれいもんいん)となる・・・(平 徳子・30才)
その後、我が子安徳天皇と平家一門の菩提を弔い、1214年(建保元年)に59年の生涯を閉じ、寂光院隣接地の大原西陵(おおはらにし の みささぎ)に眠っている・・・
それは、琵琶法師が奏でる「平家物語」のように・・・ ↑ 大原西陵(おおはらにし の みささぎ)と入り口の石段 ↓
建礼門院は栄枯盛衰の時の中に何を見たのだろう・・・
「平家物語」諸本、大原御幸(おおはらごこう)の説話集「閑居友/かんきょのとも」では、
出家後の年が明けた1186年(文治2年)春に後白河法皇が秘かに訪問し、
建礼門院は自らの人生を振り返り仏教の世界観である「六道語り」を述べる。
そしてその後、彼女は何を思い生きたのだろうか?
季節は一巡してこの山深い大原の里に雪に埋もれるかのように彼女の時は過ぎ行く・・・
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(以下・参考サイト)
琵琶法師が「平家物語」を奏でる・・・
後白河法王が、寂光院に建礼門院を尋ねる「大原御幸」・・・
大原御幸(おおはらごこう)とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院(平徳子) を後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事。御幸の真偽については不明だが、『平家物語』諸本、説話集『閑居友』に記述がある。『閑居友』は「かの院の御あたりの事を記 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原御幸
筑前琵琶|琵琶奏者
片山 旭星(Katayama Kyokusei)
http://artist.musicinfo.co.jp/~kyokusei/
1955年愛媛県生まれ。1977年より筑前琵琶を人間国宝山崎旭率、山下旭瑞、菅旭香に師事。'88~ '89年、新内を人間国宝岡本文弥に師事。'90~'96年、肥後座頭琵琶を、最後の琵琶法師と言われた山鹿良之に師事…
'09より上田秋成の『雨月物語』などを琵琶曲にして顕彰している。現在学習院大学非常勤講師・・・
琵琶法師・片山旭星「琵琶本語りの御案内」<冬編>
http://osakaomoro.exblog.jp
kabhi kabhi Odissi vol.13~琵琶とインド舞踊
http://odissi.exblog.jp/17832780 『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。 保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、 源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/平家物語
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原御幸
「大原御幸」あらすじ・・・
平家滅亡の際、入水したが源氏の武士に助けられた建礼門院は、仏門に入り大原の寂光院で、安徳天皇はじめ平家一門の冥福を祈って日々を送っている。初夏のある日、後白河法皇が訪ねてくる。法皇の尋ねに従って建礼門院は平家が滅亡した苦しみを六道の有様にたとえて語り、平家一門の人々の最期の様子を述べる。やがて名残もつきぬままに法皇が還幸され建礼門院は心寂しく見送る・・・
http://www.noh-kyogen.com/story/a/oharagokou.html
http://roudoku-heike.seesaa.net/article/84209440.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/閑居友
平家物語 『祇園精舎』|現代語訳と解説
http://manapedia.jp/text/2321
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike.html
平家物語のあらすじと登場人物
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/heike/
https://ja.wikipedia.org/wiki/琵琶法師
←(画面をクリックすると、900 x 1252pixに拡大します)
建礼門院|平徳子
院号は建礼門院(けんれいもんいん)。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/平徳子
https://ja.wikipedia.org/wiki/高倉天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/安徳天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/平清盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/平時子
建礼門院大原西陵 | 平清盛の京を歩く
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/kiyomori/detail/045.html
http://takaoka.zening.info/Kyoto/Ohara/
Kenreimonin_ooharanishi_no_misasagi.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/源義仲
https://ja.wikipedia.org/wiki/源義経
大原(おおはら/おはら)は、京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地の名称・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原_(京都市)
大原(三千院)の紅葉情報 | 紅葉名所2015
http://koyo.walkerplus.com/detail/ar0726e13166/
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/100.html
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ぶらり京都-99 [大原・宝泉院...etc周辺]
http://guchini.exblog.jp/24687431/
2015-11-21T15:04:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-11-19T14:03:52+09:00
gpo-higuchi
未分類
土産物屋や食べ物屋で賑わう参道を通り、実光院、順徳天皇陵(大原陵:おおはらのみささぎ)、勝林院を経て宝泉院にたどり着く・・・
大原の里|三千院|寂光院...|京都市|Googleマップ
(2015年11月16日撮影)
「実光院」(じっこういん)
実光院は勝林院の子院。庭園( 契心園)は、律川の水を取り入れた心字池を中心にした池泉観賞式と茶室(理覚庵)のある池泉廻遊式・・・
↑「順徳天皇陵」大原陵(おおはらのみささぎ)
承久3年(1221年)承久の乱を引き起こし倒幕は失敗。乱後の7月21日、都を離れて佐渡へ配流となっり在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/順徳天皇
←「勝林院」(しょうりんいん)
835年(承和2年)円仁によって開かれたと伝えられ、1013年(長和2年)寂源によって中興されたと伝えられる。古くから来迎院とともに天台声明の道場であった・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/勝林院 ↑「宝泉院」入り口・・・
「宝泉院」(ほうせんいん)
天台宗の三門跡寺院の1つである三千院の参道奥にある。大原寺(勝林院)の僧坊の一つとして、1012年(長和2年)に創建されたものである。庭園として盤桓園、鶴亀庭園をもち、盤桓園には樹齢300年の沙羅双樹の木が茂る。樹齢700年の「五葉の松」も観光客に人気があり、盤桓園・五葉の松の見える座敷で、一服の抹茶と茶菓子を供される・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/宝泉院
額縁庭園で樹齢700年の五葉松や竹林越しの美山を目に茶菓をいただきしばし静寂に浸る・・・↓(樹齢700年の五葉松)
宝泉院を出て、三千院の奥にある山号・魚山(ぎょざん)の・・・ 小野山の中腹から流れ落ちる小さな「音無の滝」まで、清流の脇道を登る・・・
「音無の滝」
三千院の奥にある「音無の滝」は、小野山の中腹から帯状に静かに流れ落ちる幅3~4メートルの美しい滝。聖応大師が「声明」を滝の音で消されないよう呪文を唱え、水音をとめたという伝説からこの名がついた・・・
「来迎院」(らいこういん)
京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号は魚山。本尊は薬師如来。平安時代前期円仁が天台声明の道場として創建したのに始まると伝えられる。1109年(天仁2年)融通念仏の祖とされる良忍がこの寺に入寺して再興された・・・
国宝・伝教大師度縁案並僧綱牒(でんぎょうだいしどえんあん ならびに そうごうちょう)は、最澄(伝教大師)の得度や受戒に関わる文書類3点を一巻としたもので、最澄の伝記資料としてきわめて貴重なもの。東京国立博物館に寄託・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/来迎院_(京都市左京区)
仏典に節をつけた仏教音楽の天台聲明(声明:しょうみょう)の祖となる・・・
良忍が1109年(天仁2年)に創建した「来迎院」で足を休め・・・ 再び土産物屋が立ち並ぶ清流の呂川(りょせん)に沿ってなだらかな坂を下る・・・
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(以下・参考サイト)
←(画面をクリックすると、900 x 1252pixに拡大します)
大原(おおはら/おはら)は、京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地の名称・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原_(京都市)
大原(三千院)の紅葉情報 | 紅葉名所2015
http://koyo.walkerplus.com/
detail/ar0726e13166/
http://www.ogurasansou.co.jp/site/
hyakunin/100.html
大原陵(おおはらのみささぎ)
http://www.weblio.jp/content/順徳天皇
http://www.kunaicho.go.jp/
ryobo/guide/084/
https://ja.wikipedia.org/wiki/宝泉院
http://www.hosenin.net
京都観光Navi:実光院
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000092
実光院 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/spot/10088
魚山 大原 「勝林院 開創 一千年紀」
http://www.unami-a.com/kiho/shorin_in.shtml
https://ja.wikipedia.org/wiki/勝林院
京都観光Navi:勝林院 - 京都観光オフィシャルサイト
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000120
来迎院(らいこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。山号は魚山・・・
平安時代前期円仁が天台声明の道場として創建したのに始まると伝えられる。1109年(天仁2年)融通念仏の祖とされる良忍がこの寺に入寺して再興された。たびたび焼失したが、その度に再建され現在の建物は天文年間(1532年 - 1555年)に再建されたものである。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/来迎院_(京都市左京区)
天台声明(てんだいしょうみょう)
天台宗について. 天台声明(てんだいしょうみょう) 声明とは法要儀式に際し、 経文や真言に旋律抑揚を付けて唱える仏教声楽曲です。 伝教大師最澄が中国(唐)に渡り天台の教えを伝えたおりに、声明も伝えられましたがこれを、体系的に伝えたのは慈覚大師 ...
http://www.tendai.or.jp/shoumyou/
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ぶらり京都-98 [大原・三千院]
http://guchini.exblog.jp/24680522/
2015-11-18T16:20:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-11-17T10:51:09+09:00
gpo-higuchi
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源平の壇ノ浦の戦い後、平氏一門の菩提を弔った建礼門院(平 徳子:たいら の とくし)・・・
或いは、西行や鴨長明などの出家・隠遁の地は、当時は薪炭の生産地として独自のいでたちの大原女が都まで薪炭を売り歩き、後には柴漬や茶、麦粉、野菜などの特産でも知られるようになる・・・
京都の北東山中、市内からバスで約1時間程、かつては宮廷人や念仏修行者たちの隠棲の地として知られた秋の山深い大原の里を「三千院」からぶらりと歩く・・・
大原の里|三千院|寂光院...|京都市|Googleマップ
(2015年11月16日撮影)
(御殿門から入り、宸殿、客殿の薬師如来像などに参拝・・・)
「三千院」(さんぜんいん)
三千院門跡とも称し、山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄である。
京都市街の北東山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている・・・
三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである・・・
正門にあたる境内南側の朱雀門は常時閉じられており、西側の御殿門から入る。城郭を思わせる寺周囲の石垣、白い土塀、門構えなどが門跡寺院の風格を示している。境内北側には宸殿、客殿とそれらを囲む有清園、聚碧園と呼ばれる池泉回遊式庭園がある。南側は、瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に往生極楽院が建つ・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/三千院
三千院|公式サイト
http://www.sanzenin.or.jp ↑(入母屋造の阿弥陀三尊像が安置されている往生極楽院・・・)
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(以下・参考サイト)
←(画面をクリックすると、900 x 1252pixに拡大します)
大原(おおはら/おはら)は、京都市左京区北東部の比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地の名称・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/大原_(京都市)
大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(844年-897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/三千院
天台宗 京都大原三千院|公式ホームページ
http://www.sanzenin.or.jp
http://koyo.walkerplus.com/detail/ar0726e13166/
三千院(魚山三千院門跡)
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?
InforKindCode=1&ManageCode=1000046
京都観光Navi|三千院(魚山三千院門跡)
魚山と号する。天台五箇室門跡の一つ。最澄(伝教大師)が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したのが起こり。宸殿前に広がる苔の密生した杉木立の庭を有清園といい、藤原時代を代表する往生極楽院(重文)が建つ。内陣に珍しい大和座りの両脇侍の阿弥陀三尊像(国宝)を安置・・・
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000046
大原(三千院)の紅葉情報 | 紅葉名所2015 - Walkerplus
http://koyo.walkerplus.com/detail/ar0726e13166/
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叡山・延暦寺「最澄の秋」Vol.2
http://guchini.exblog.jp/24668056/
2015-11-15T15:40:00+09:00
2017-09-13T14:33:02+09:00
2015-11-13T14:13:22+09:00
gpo-higuchi
未分類
その文化軸を覗き見れば、高野山・空海のブータンやチベット的なのに比べ、京都に近いからか、随所に洗練された繊細な京都的な匂いがする・・・
そして、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心として、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など「日本仏教の母山」と言われるほど数々の名僧を輩出し、最澄没後の823年(弘仁14年)、開創時の年号をとって「延暦寺」と名付けられた・・・
比叡山|延暦寺|Googleマップ
(2015年11月11日撮影)
叡山・延暦寺「最澄の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
平安時代から「山法師」と云われる延暦寺の僧兵は、室町幕府六代将軍の足利義教など、時の権力者と対立し、戦国時代に入っても独立国状態を維持し、1571年(元亀2年)に信長の比叡山焼き討ちや、近年では2006年に延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を「これは単なる宗教の行事」として実施し、騒動後、おわびと共に執行局役員全員が責任を取って総辞職している・・・
そして今でも、平安期に始まった「千日回峰行」(せんにちかいほうぎょう)は、行者が途中で行を続けられなくなったときは、自害するという決意で切腹するための両刃の短剣を持ち、頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋履きといういでたちで、回峰行は7年間にわたる行であり、千日回峰行を終え満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となり、京都御所への土足参内を行う。延暦寺の記録では満行者は47人で、この行を2回終えた者が3人となっている・・・
「延暦寺」は日本仏教の聖地として、
全国に数多ある天台宗約4,200の末寺の総本山として、
比叡山の峰々にこだまする読経と共に、
1200年余の歴史に裏打ちされた宗教力の厚いかべの中で生き続ける・・・
↑(比叡山山頂から、大津方面・・・画面をクリックすると1200 x 398pixに拡大します)
↑(比叡山山頂から、上は湖北…下は大原方面)↓・・・↓(叡山ロープウェイから京都市内の北あたり:左の上が宝ヶ池方面・・・)
←「叡山ロープウェイ」
京福電気鉄道(京福)が運営する、京都府京都市左京区の索道路線。
叡山電鉄叡山本線、叡山ケーブルとともに京都市内から比叡山山頂へのルートを形成する・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/叡山ロープウェイ
叡山ケーブル・ロープウェイ | 京福電気鉄道
http://www.keifuku.co.jp/cablecar/
「叡山ケーブル」→
ケーブル八瀬駅からケーブル比叡駅に至る京福電気鉄道のケーブルカー路線。叡山電鉄叡山本線、叡山ロープウェイとともに京都市内から比叡山山頂へのルートを形成する。高低差は561 mあり、ケーブルカーとしては日本最大である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/京福電気鉄道鋼索線
琵琶湖の湖畔、近江坂本から1200年余の昔に開かれた延暦寺周辺を巡り、
比叡山を超えて京都市内の八瀬への「最澄の秋」を訪ねる旅・・・
木々は色とりどりに染まり、山は晩秋の風情を漂わせるかのように落葉が舞い始め、
凛とした冷たい風を頬に比叡山を後に八瀬へと下る・・・
叡山・延暦寺「最澄の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
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(以下・参考サイト)
延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する…
https://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺
↑(画面をクリックすると・・・1500 x 1430pixに拡大します・・・)
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する…
https://ja.wikipedia.org/wiki/最澄
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/比叡山
天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗総本山。「日本仏教の母」としての歴史と現在を紹介…
http://www.hieizan.or.jp
千日回峰行 - 天台宗
http://www.tendai.or.jp/shugyou/
千日回峰行、釜堀師が「堂入り」達成 戦後13人目
http://www.asahi.com/articles/ASHBP2RWSHBPPTJB002.html
酒井雄哉(さかい ゆうさい、1926年(大正15年)9月5日 - 2013年(平成25年)9月23日 ) は天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室不動堂長寿院住職を務めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井雄哉
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叡山・延暦寺「最澄の秋」Vol.1
http://guchini.exblog.jp/24664652/
2015-11-14T11:34:00+09:00
2017-09-13T14:35:22+09:00
2015-11-12T12:56:33+09:00
gpo-higuchi
未分類
阪本駅から山へ真っ直ぐに伸びる坂道の上で「日吉大社」の色づいた木々に足を止め、少し左に折れて「延暦寺駅」からケーブルカーに乗り、琵琶湖を望みながら標高848mの比叡山全域を境内とする「叡山・延暦寺」の秋を歩く・・・
比叡山|延暦寺|Googleマップ
(2015年11月11日撮影)
叡山・延暦寺「最澄の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
(阪本は古い歴史の上にお寺が点在し静かで美しい街並みのようだ・・・) (ケーブルカーで、所々で琵琶湖を望みながら比叡山の延暦寺駅へ・・・)
「比叡山鉄道線」(ひえいざんてつどうせん)
滋賀県大津市のケーブル坂本駅からケーブル延暦寺駅に至る比叡山鉄道のケーブルカー路線である。
比叡山延暦寺への東側のルートで、坂本ケーブルと呼ばれている。年末年始を除く冬期は、西側から比叡山頂を目指す鉄道のルートである叡山ケーブル・叡山ロープウェイ、そして、比叡山ドライブウェイを経由する比叡山ドライブバスのいずれもが運休するため、その期間中は通年営業の当路線が公共交通機関では唯一のルートとなる・・・
延長は2,025 mで、1966年に群馬県の伊香保ケーブル鉄道が廃止されて以来日本最長のケーブルカーとなっており、途中にほうらい丘駅ともたて山駅の2つの駅がある。車両は1993年から1号車の「縁」号と2号車の「福」号という愛称の付いた新車両が運行されている。また、ケーブル延暦寺駅、ケーブル坂本駅の両駅舎は、1927年の開業以来の建物で1997年に国の登録有形文化財に登録された・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/比叡山鉄道比叡山鉄道線
↓(山頂のケーブル延暦寺駅から琵琶湖を望む・・・)
滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れた、俗名、三津首広野(みつのおびとひろの)は、780年(宝亀11年)14歳で得度し名を「最澄」と改める・・・
804年(延暦23年)正規の第18次遣唐使(20回説を採用)として空海や橘逸勢などと入唐し、中国浙江省の天台山で修業後、805年(延暦24年)に帰国し、書は帰朝に当って王羲之の十七帖、王献之、欧陽詢、褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なるに比べて、清澄で品格が高いと云われている・・・
天台宗を開き806年(延暦25年)に正式に許可され、866年(貞観8年)清和天皇より(伝教大師:でんぎょうだいし)の諡号が贈られ、最澄の死後の822年(弘仁13年)に大乗戒壇が設立される・・・
その後の1571(年元亀2年)、織田信長によって比叡山は全山焼き討ちとなり根本中堂や大講堂が焼失し、信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊や三代将軍家光によって根本中堂は再建される・・・
世界遺産「延暦寺」(えんりゃくじ)
滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。寺紋は天台宗菊輪宝・・・
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺
天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
http://www.hieizan.or.jp
←↑「文殊楼」
きつい階段を上がり、二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置された、文殊楼に登る・・・
「東塔」エリアは、延暦寺発祥の地であり、本堂の根本中堂を中心とする区域、根本中堂は 最澄が建立した一乗止観院の後身で、現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたもの・・・
根本中堂から坂を登り、
鐘楼を通り抜け・・・
大講堂/法華総持院東塔や、
戒壇院/灌頂堂/阿弥陀堂/
などが立ち並ぶ・・・
叡山・延暦寺「最澄の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
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(以下・参考サイト)
延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する…
https://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺
↑(画面をクリックすると・・・1500 x 1430pixに拡大します・・・)
最澄(さいちょう)は、平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する…
https://ja.wikipedia.org/wiki/最澄
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/比叡山
天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗総本山。「日本仏教の母」としての歴史と現在を紹介…
http://www.hieizan.or.jp
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高野山「空海の秋」Vol.2
http://guchini.exblog.jp/24641842/
2015-11-08T14:41:00+09:00
2017-09-13T14:41:13+09:00
2015-11-05T12:34:28+09:00
gpo-higuchi
未分類
路線バスに乗り、国宝などの施設「高野山霊宝館」を巡り、奥の院の参道両側に無数の供養塔が立ち並ぶ奥之院参道を通り、空海(弘法大師)「御廟」に詣でる・・・
高野山|真言宗 総本山金剛峯寺|Googleマップ
(2015年11月4日撮影)
高野山「空海の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
「大門」(だいもん)
高野山全体の総門の大門は、開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷にあり、山火事や落雷等で焼失し、1705年に再建された。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートル・・・
左右には金剛力士像が安置され、東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した仏師の運長と康意の作・・・
http://www.koyasan.or.jp/
meguru/sights.html
http://www.reihokan.or.jp/
bunkazai/kenzobutsu/daimon.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
↑(大門/高野山全体の総門)
「高野山霊宝館」(こうやさんれいほうかん)
和歌山県伊都郡高野町高野山にある博物館相当施設。財団法人高野山文化財保存会が運営している。国宝21件(4,686点)重要文化財142件(13,884点)和歌山県指定文化財13件(2,850点)を含む約50,000点が収蔵・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山霊宝館
高野山霊宝館(こうやさんれいほうかん)
http://www.reihokan.or.jp
高野山霊宝館|収蔵品紹介
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html
「四天王立像」快慶作|重文|鎌倉時代(12世紀)「八大童子像」運慶作|国宝|建久9年(1198年)頃
(注:作品は常時展示ではないので要注意/以下参考サイト)
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/myo/hachi.html
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=543
1200年前、空海によって開創された高野山は、8つの峰々に囲まれた盆地であり、人里から離れ、俗世と隔絶された密教の聖地として、多くの人々が暮らしながら祈りと生活が一体となり、現在は真言宗総本山「金剛峯寺」を中心に子院の117か寺が密集しその約半数が宿坊を兼ね、まさに天空の「宗教都市」となっている・・・
そして、高野山内は循環する路線バス(南海りんかんバス)が走り、高野山駅から奥の院口まで乗車時間14分(330円)で巡る事が出来、その周辺は食べ物屋や土産物屋や生活日用品店などが立ち並んでいる・・・
世界遺産 高野山
「奥の院」
国の史跡・世界遺産。空海の御廟と灯籠堂がある。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている・・・
↑(一の橋)
戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
そして、真言密教の・・・
「人聞は肉身のままで究極の悟りを開へば仏になれると...」
空海は835年(承和2年)、即身成仏をもって奥の院の「御廟」で今も祈り続け、
周りには20万基以上あると言われる皇室、公家、大名に、
昨今では、企業家や協会や組合に一般人の墓が多数並んでいる・・・
開創1200年の時空の彼方で、
天才「空海」は、
いかほどの人々の死出の旅路を見守り続けるのだろか・・・
(ケーブルカー高野山駅から南海高野線の極楽橋へ、山を降りる・・・)
高野山「空海の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
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(以下・参考サイト)
高野山真言宗 総本山金剛峯寺
高野山真言宗 総本山金剛峯寺の公式ウェブサイトです。高野山は2015年に開創1200 年の記念すべき年を迎えます・・・
http://www.koyasan.or.jp
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。 「 金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています・・・
http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/
↑(画面をクリックすると・・・1500 x 750pixに拡大します・・・)
高野山開創1200年特設サイト - 和歌山県観光情報
高野山マップ|PDFダウンロード >>
http://www.wakayama-kanko.or.jp/worldheritage/koyasan1200/contents/pdf/map_koyasan.pdf
南海りんかんバス|高野山内を循環する路線バス
http://www.rinkan.co.jp/koyasan/recommend/beginner.html
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/空海
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より空海(弘法大師)が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇場伽藍」と ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
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高野山「空海の秋」Vol.1
http://guchini.exblog.jp/24645358/
2015-11-07T12:00:00+09:00
2017-09-13T14:42:27+09:00
2015-11-06T13:27:54+09:00
gpo-higuchi
未分類
平安時代初期の816年(弘仁7年)修禅の道場として高野山の下賜を請い、819年(弘仁10年)に空海(弘法大師)が修行の場として曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の日本仏教における聖地、根本道場の「壇場伽藍」や総本山「金剛峯寺」を中心とする宗教都市の秋を歩く・・・
高野山|真言宗 総本山金剛峯寺|Googleマップ
(2015年11月4日撮影)
高野山「空海の秋」 ▶|Vol.1|Vol.2|
↑(壇場伽藍/中門)
世界遺産 高野山
「壇場伽藍」(壇上伽藍)
山内は全て「一山(いっさん)境内地」として金剛峯寺の境内となっている。このうち、大門地区、伽藍地区、本山地区、奥院地区、徳川家霊台地区、金剛三昧院地区の6地区が国の史跡に指定され、世界遺産の構成要素となっている・・・
多数の寺院建築が立ち並ぶ、一般寺院でいう本堂の区画。国の史跡・世界遺産。空海(弘法大師)が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが立ち並び、不動堂は国宝に指定されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
高野山を巡る | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺
http://www.koyasan.or.jp/meguru/
↑(壇場伽藍/根本大塔)
↑(壇場伽藍/金堂の横から・・・) 壇場伽藍/(西塔)↑(六角経蔵)↓
日本仏教における真言宗の開祖・空海(弘法大師)は、佐伯 眞魚(さえき の まお)として、774年(宝亀5年)讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)に生まれ、幾多の修行から高知県室戸市室戸岬町の御厨人窟(みくろど)で悟りを開き、洞窟の中で目にしたのが空と海だけであったため「空海」と名乗る・・・
当時、無名の一沙門だった「空海」は、804年(延暦23年)正規の第18次遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定/20回説を採用)として最澄や橘逸勢などと唐の都「長安」に渡り、2年後の806年(大同元年)に帰国する・・・空海32歳
空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、闕期(けつご)の罪で入京は許されず、入京の許しを待って、2年ほどは大宰府・観世音寺に止住し、809年(大同4年)和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入り、中国より経典などを学び収集し真言密教をもたらし、祈りやまじないによって、病気を治したり災いを除き、中国語はもとより梵字・悉曇などを解し、文化人として能書家としても知られ、筆の作り方や温泉の発見、池などの土木技術や薬学をはじめ多分野にその業績を残す・・・
816年(弘仁7年)修禅の道場として高野山の下賜を請い、密教伽藍の日本仏教における聖地として根本道場の「壇場伽藍」や総本山「金剛峯寺」が創建される・・・空海42歳
835年(承和2年)に即身成仏をもって奥の院の「御廟」で今も祈り続けている・・・空海61歳
https://ja.wikipedia.org/wiki/空海 ↑(壇場伽藍/東塔) 蛇腹路(じゃばらみち)を抜け総本山の「金剛峯寺」へ・・・ ↑(総本山「金剛峯寺」入り口)
世界遺産 高野山
総本山「金剛峯寺」(こんごうぶじ)
国の史跡・世界遺産。主殿等の建物は和歌山県指定有形文化財。高野山真言宗の総本山で座主の住寺。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に青巌寺と興山寺の2つの寺院が合併したもの。旧青巖寺(剃髪寺)は文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/金剛峯寺
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高野山真言宗 総本山金剛峯寺
高野山真言宗 総本山金剛峯寺の公式ウェブサイトです。高野山は2015年に開創1200 年の記念すべき年を迎えます・・・
http://www.koyasan.or.jp
高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。 「 金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています・・・
http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/
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高野山開創1200年特設サイト - 和歌山県観光情報
高野山マップ|PDFダウンロード >>
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南海りんかんバス|高野山内を循環する路線バス
http://www.rinkan.co.jp/koyasan/recommend/beginner.html
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄 ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/空海
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より空海(弘法大師)が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇場伽藍」と ...
https://ja.wikipedia.org/wiki/高野山
https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
https://ja.wikipedia.org/wiki/橘逸勢
https://ja.wikipedia.org/wiki/真言
https://ja.wikipedia.org/wiki/密教
https://ja.wikipedia.org/wiki/真言宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/最澄
https://ja.wikipedia.org/wiki/天台宗
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ぶらり京都-97 [大徳寺・利休の三門] -金毛閣-
http://guchini.exblog.jp/24628207/
2015-11-03T11:39:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-11-01T11:29:12+09:00
gpo-higuchi
未分類
大徳寺|京都市北区|Googleマップ
(2015年10月28日撮影)
寺は利休の恩に報いるために、三門上層に雪駄(せった)を履いた利休の木像を安置、このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが当時の天下人豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと云われ、利休は1591年(天正19年)に切腹の命を受け70歳の生涯を閉じる。
死後、利休の首は一条戻橋で、自身の木像に踏ませる形で梟首されたと伝えられている・・・
「千利休」(せん の りきゅう)
大永2年(1522年)〜天正19年2月28日(1591年4月21日)
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱え、子孫は茶道の三千家として続いている...
天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり定まっていない...
利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70歳...
死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという...
https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
...............................................
「千利休像」 長谷川等伯 筆 →
絹本著色|縦80.6・横36.7
桃山時代/1595年(文禄4年)
京都・表千家不審菴蔵
...............................................
(雪駄を履いた利休の実際の立像は捨てられるが、その後利休を慕う人によって何体かが創られた)
禅僧の大学キャンバスのように「大徳寺」の広大な敷地内には22の塔頭(多くは祖師や高僧の墓塔や庵などの小院)の寺院が立ち並ぶ・・・
総門から勅使門の奥、上記の「金毛閣」を通り、仏殿、法殿、本堂へと進み・・・
←(地図はクリックすると700 x 560pixに拡大します)
「大徳寺」(だいとくじ)
臨済宗大徳寺派大本山で、本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い...
室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/大徳寺
少し色付き出した紅葉の参道をぶらりと散策する・・・
本堂から左に折れて「信長のお墓がある場所」の「総見院」へ・・・
本能寺の変で没した信長の100日後、大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務め、秀吉は天下人の階段を登る。その後、本能寺の変から信長の一周忌法要のため「総見院」は秀吉によって1583年(天正11年)に建立された・・・
「総見院」(そうけんいん)
大徳寺の塔頭寺院。織田信長の菩提寺である。通常は非公開だが、春秋などに特別公開されることがある。
本能寺の変の100日後、10月10日に大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として有名な大葬礼が執り行われ、喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。その後の織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が建立した寺院で大徳寺22塔頭寺院の一つである。
本堂と織田信長一族供養塔(信長、信忠、信雄、徳姫、秀勝、信高、信好、秀雄、信貞、お鍋、高重、養華院、等)と鐘楼や茶室・・・
開祖は大徳寺117世の古渓宗陳。創建当時は寺勢大いに隆盛し広大な境内に豪壮な堂塔が立ち並んでいたという。創建当時から残る建物は正門、土塀、鐘、鐘楼。江戸期には200石の寺院であったが、明治初年の廃仏毀釈により堂塔伽藍や多くの宝物が灰燼と化し、大正年間に再興される。1961年(昭和36年)に本山に安置されていた信長木像を再び迎え、380年忌を行った・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/総見院_(京都市)
↓(鐘楼・・・)大徳寺は22の塔頭(多くは祖師や高僧の墓塔や庵などの小院)の寺院が立ち並び・・・大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い...また、大徳寺は茶の湯の世界でも、侘び茶を創始した村田珠光や武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ、今も多くの茶人とのつながりがあり・・・
今日も「聚光院」で茶会がおこなわれているらしい・・・
入り口から奥の本堂へと続く美しい参道の「高桐院」へ・・・
室町幕府に使え戦国時代を生き抜いた細川藤孝(幽斎)の為に忠興が1602年(慶長7年)建立した「高桐院」は、本堂西側庭園奥には忠興とガラシャ夫人の墓塔があり、以後細川家の菩提寺となっている・・・
「高桐院」(こうとういん)
京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院。大本山大徳寺の塔頭のひとつである。開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)である。
戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。創建については慶長6年(1601年)とも言うが、創建に際して春屋宗園が与えた偈(げ)に「寅十月十七日」とあり、干支の関係から慶長7年の創建とみられる。
正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護される・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/高桐院
そしてもうすぐ、
このお寺にも静かに秋が訪れるのだろう・・・
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(以下・参考サイト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
https://ja.wikipedia.org/wiki/大徳寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/三門
大徳寺 : 臨済・黄檗 禅の公式サイト - 臨黄ネット
http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗長
https://ja.wikipedia.org/wiki/応仁の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/塔頭
高桐院 | 京都の観光スポット | 京都観光情報 KYOTOdesign
http://kyoto-design.jp/spot/2732
↓(以下サイトは非常に詳しい・・・)
大徳寺Ⅰ(京都) 真央GPファイナル好発進[寺院]
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-08-1
大徳寺Ⅱ(興臨院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-09-3
大徳寺Ⅲ(総見院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-10-4
大徳寺Ⅳ(黄梅院・芳春院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-11-2
大徳寺Ⅴ(瑞峯院・大仙院・高桐院・龍源院)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-12-1
大徳寺Ⅵ(その他非公開塔頭)
http://iwasky.blog.so-net.ne.jp/2012-12-13-1
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ぶらり京都-96 [琳派の風神雷神図屏風]-琳派400年記念-
http://guchini.exblog.jp/24618525/
2015-11-01T09:39:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-10-29T11:59:41+09:00
gpo-higuchi
未分類
それから遥か100年後の江戸時代は元禄の終わり頃、尾形光琳に受け継がれ・・・
その又100年後の文化文政の頃に酒井抱一や鈴木基一へと伝承された「琳派:Rinpa」を京都国立博物館で垣間見る・・・
京都国立博物館|京都市東山区|Googleマップ (2015年10月28日撮影)
「琳派 京(みやこ)を彩る」 -琳派400年記念-
..................................................................
特に模写として有名な、75年ぶり(10/27〜11/8の期間のみ)に関西で一同に展示された、
三人三様の「風神雷神図屏風」を観る・・・
http://rinpa.exhn.jp
琳派誕生400年記念
「琳派 京(みやこ)を彩る」
会期:2015年10月10日(土)~11月23日(月・祝)
会場:京都国立博物館 平成知新館
交通:JR、近鉄、京阪電車、阪急電車、市バス
休館日:月曜日
※月曜日が祝日の場合は開館し、翌火曜日休館
開館時間:午前9時30分から午後6時まで
(入館は午後5時30分まで)
※ただし会期中の毎週金曜日は午後8時まで
(入館は午後7時30分まで)
観覧料
一般:1,500円(1,300円)
大学生:1,200円(1,000円)
高校生:900円(700円)
中学生以下:無料
http://www.kyohaku.go.jp/jp/special/
「風神雷神図屏風」は、当時の京(みやこ)で豪商で歌人でもあった打它公軌(うだ きんのり)?〜正保4年(1647年)が、寛永14年(1637年)からの京都・妙光寺再興の際に製作を依頼したとされるが、元和末期(1624年)頃の作だとも云われ、それを示す直接の文書はなく、それ以外に制作事情や伝来についての史料は見つかっておらず、後年の1818年から1829年頃に建仁寺に渡たり、現在は建仁寺から京都国立博物館に寄託され、建仁寺には現在、陶板焼きとレプリカが展示されている・・・
本阿弥光悦と俵屋宗達に始まった「琳派:RIMPA」は、戦国時代が終わり桃山時代へ、そして江戸時代へと激動の時代をくぐり抜け、光悦は1615年(元和元年)に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し、洛北鷹峯に芸術村を築き、1637年(寛永14年)に79年の時を終え、宗達は「風神雷神図」を完成させ、1642年前後(寛永19年)におおよそ72年の生涯を終えた・・・二人の死から約100年ほどの歳月が流れ・・・
尾形光琳の曽祖父の尾形道柏・夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあり、光琳は宗達を慕い妙光寺にあった「風神雷神図」を模写し、幕府御用絵師の狩野派とは別の、京の富裕な公家、豪商、お寺などを顧客とし、弟の乾山と共に「光琳模様」と云われる簡略した明快で装飾的な様式に凛とした気品を漂わせ「琳派」として時代に登場し、1716年(正徳6年、享保元年)京の新町通り二条下ルで58年の生涯を終える・・・
そして、光琳の死後100年の歳月が流れ・・・
光琳の模本「風神雷神」は、江戸の将軍の父親が所有しその絵を観る事が出来た姫路城藩主の次男の酒井抱一は、宗達の屏風があることなど夢にも思わず、その作品を光琳オリジナルの作品と誤解、かつての光琳と同じように「風神雷神図」を模写する。そして時代は幕末の文化・文政期の1815年(文化12年)、抱一は光琳の模写はおろか、自宅の庵(雨華庵)で光琳百回忌法要を行い、弟子の鈴木其一と共に、光琳からより優雅で明快な装飾的な様式を進化させ「江戸琳派」として再び時代に登場する・・・
それは、狩野派や円山派といった他の江戸時代の流派や北斎漫画の様にマニアルの写本を通じたり、師から直接に画技を学んだのに対し、琳派は受け継がれて行く時代差が約100年程であったり、場所や身分や遠く離れた人々によって受け継がれた事は、他の流派には類を見ない特色であり、同じ題材や独特の技法を意識的に選択・踏襲することで流派のアイデンティティを保持し、絵師独自の発見と解釈を加え再構成し・・・
光琳は「紅白梅図屏風」で、袍一は「風雨草花図」で、歴代の琳派の師を超えて行く。それは、単なるコピーではなく、模写する事によって「琳派」が持つ王朝時代の古典の神髄と、明快で装飾的な意匠感覚をもって「琳派」のもつ「美」の精神(esprit)を継承し、次の時代の中に新たな芸術を生み出してきた・・・
特に、創始の光悦とのコラボに見る宗達の絵は成るにまかせる勢いと子供心の無邪気さや、そして見飽き無いのは人間の視線と思考に呼吸に近い自然なリズムを持っているように感じる・・・
俵屋宗達
Tawaraya Sōtatsu(生没年不詳?1570年(永禄13年)〜1642年(寛永19年)国宝|2曲1双・紙本金地着色|(各)154.5×169.8cm
元和末期(1624年)頃の作|建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
(画面をクリックすると1200 x 533pixに拡大します)
尾形光琳
Ogata Kōrin(1658年:万治元年〜1716年:享保元年)重要文化財|2曲1双・紙本金地着色|(各)166.0×183.0cm
宝永末年(1710年)頃の作|東京国立博物館蔵
(画面をクリックすると1200 x 533pixに拡大します)
酒井抱一
Sakai Hōitsu(1761年:宝暦11年〜1829年:文政11年)2曲1双・紙本金地着色|(各)170.7×170.2cm
文政4年(1821年)頃の作|出光美術館蔵
(画面をクリックすると1200 x 590pixに拡大します)
↓ 以下は、琳派を継承する鈴木其一の模写「風神雷神図襖」です・・・
鈴木其一「風神雷神図襖」
Suzuki Kiitsu(1796年:寛政8年〜1858年: 安政5年)絹本着色|全8面(屏風4枚)|(各)168.0×115.5cm
江戸時代後期|東京富士美術館蔵
(画面をクリックすると1200 x 217pixに拡大します)
http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3557
私的に「琳派」の流れは、和歌、俳諧の流れに良く似ているように思う・・・
光悦や宗達の「万葉集」のように大らかな世界から、定家の「古今和歌集」のような計算された一分の隙もないような光琳の世界へ、総てを削ぎ落とし感じたそのものの、芭蕉や子規の「俳句」の世界へと変化していく和歌や俳諧の流れに符合しているように映る。
それは、流派や様式が完成していく過程とはそうゆうものかも知れない・・・
そして、三者の時代背景も光悦や宗達は南蛮文化の影響を持ち、上方の元禄文化を背景にした光琳や、一連の浮世絵が風靡する化政文化の抱一と、三者三様の時代背景を背負いながら生まれ出ている・・・
それらが、三者三様の作品の僅かな部分に、例えそれが模写であっても三者三様に時代を感じるのか、色や形やそれら一連の動きの中で不思議と時代が微妙に見え隠れする・・・
そして、この三者の時代を通して継承し作り上げた「琳派」の「美の方程式」は非常に重い・・
もともと、京で「俵屋」の絵屋を営んでいた宗達は、京の街人にその時々の時代の息吹を吹き込み、今で云うところの団扇や着物などの生活に密着したデザイン屋さんと云える・・・
今でこそデザインも経済的な地盤を持ち、あらゆる人々やあらゆる所に浸透し「美しい」と云う満ち溢れた恩恵の中で暮らし、進化するデジタルの時代にも欠かせないものとして今日を生きているが、
当時、特に宗達の時代に経済性をも含め、どれ程の価値を有していたかを想像するに、それは先のない細い切れそうな糸の様にも映る。作品の美しいと云う感動以上に、そんな「美」を模写しながら必死に学び取る姿を思えば、何か心にジンと来るものがある・・・
そしておそらく...「琳派」は、古きローマやスペイン、パリなどの街の「美」のかおりのように、
街に住む人々が創り出し、よりすぐり、選び抜き、長い年月を磨き抜く、
それはきっと、その街を愛し何千年も住み続けた人々の、美の精神(esprit)の遺産なのだろう・・・
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(以下・参考サイト)
産経フォト|写真で深読み、見るニュース
宗達、光琳の風神雷神図 琳派巨匠が競演
京都国立博物館(京都市東山区)で10日から始まる琳派誕生400年を記念した特別展「琳派 京を彩る」の報道向け内覧会が9日行われ、目玉となる俵屋宗達と尾形光琳の「風神雷神図屏風」(国宝と重要文化財)がお披露目された。会期中の10月27日~11月8日には、宗達、光琳に加えて、酒井抱一の「風神雷神図屏風」も同時に鑑賞できる。普段は別々の場所にある3作品がそろうのは関西では75年ぶり・・・
http://www.sankei.com/photo/story/
news/151009/sty1510090005-n1.html国宝「風神雷神図屏風」俵屋宗達筆 =9日午前、京都市東山区の京都国立博物館(志儀駒貴撮影)
琳派(りんぱ)とは、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称である。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/琳派
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、 その書流は光悦流の祖と仰がれる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/本阿弥光悦
俵屋 宗達(たわらや そうたつ、生没年不詳 - 慶長から寛永年間に活動)は、江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」ほか。宗達は尾形光琳と並び称せられる、近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、その伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/俵屋宗達
尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家。工芸家。後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/尾形光琳
尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。六歳年上の兄は尾形光琳である・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/尾形乾山
酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日( 1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、 幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/酒井抱一
鈴木 其一(すずき きいつ、寛政8年(1796年)4月 - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師だと位置づけられる・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木其一
仁王門のある頂妙寺
頂妙寺のお墓には、風神雷神図屏風で知られる俵屋宗達(たわらや そうたつ)も眠っています。宗達の墓は石川県にも残されていて、実は晩年も出自も詳しくは分かっていない人物です。しかし、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれるほどの才能持った芸術家、本阿弥光悦に見出され、その個性あふれる作風は当時から高い評価を得ていました。頂妙寺には「牛図」が伝わり、京都国立博物館に寄託されています。
http://kyoto-tabiya.com/blog_higashiyama/仁王門のある頂妙寺/
俵屋宗達 Tawaraya Sotatsu
江戸時代前期 | 日本 | 琳派・絵師
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sotatsu.html
俵屋 宗達(たわらや そうたつ)の代表作品・経歴・解説
http://lempicka7art.blog.fc2.com/blog-entry-149.html
養源院 金地着色松図(養源院 白象図 唐獅子図杉戸絵)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=1000108
養源院(桃山御殿 血天井、宗達筆襖、杉戸絵)
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000229
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
(部分)
俵屋宗達 画
本阿弥光悦書
巻物
(高さ34.0×長さ1356.0cm)
京都国立博物館蔵
重要文化財[ブログ内関連記事]
琳派の「鶴」‧ ‧ ‧
"Gunkaku zu Byōbu"
http://guchini.exblog.jp/
22363087/
本阿弥 光悦
ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年〜寛永14年2月3日:1637年2月27日)江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる・・・
←舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)
本阿弥光悦 作
木製漆塗
縦24.2 横22.9 高11.8
江戸時代(17世紀)/国宝
東京国立博物館蔵
←八橋蒔絵螺鈿硯箱
(やつはしまきえらでんすずりばこ)
尾形光琳 作
1合/木製漆塗
縦27.3 x 横19.7 x 高14.2cm
江戸時代(18世紀)/国宝
東京国立博物館蔵
美術雑誌『聚美』の公式サイト|俵屋宗達
http://www.seigetsusha.co.jp/shubi/archives/pg36.html
←唐獅子図杉戸|白象図杉戸|京都・養源院
http://www.seigetsusha.co.jp/
shubi/_src/sc372/shubi07_P024-25.jpg
松図襖|京都・養源院→
http://www.seigetsusha.co.jp/
shubi/_src/sc375/shubi07_P028-29.jpg
俵屋宗達「舞楽図屏風」
桃山-江戸時代・17世紀頃|各155.5×170cm | 2曲1双・紙本金地著色 | 醍醐寺蔵
(奈良時代あたりにアジア大陸諸国から伝来した舞と音楽の融合芸能文化で、公家や神道寺院とも縁の深い「舞楽」で、右隻が「採桑老」「納曽利」、左隻が「羅陵王」「還白楽」「崑崙八仙」の五種類の有名な舞楽演目を描いた作品)
http://www.kyotodeasobo.com/art/houmotsukan/daigoji-temple/04daigoji-3.html#.VRdU2CgubCo
http://www.salvastyle.com/menu_japanese/sotatsu.html
(上の写真は画面をクリックすると1000×448ピクセルに拡大します)
「養源院:ようげんいん」は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。もと天台宗・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/養源院
京都「養源院」で俵屋宗達の絵を見る
http://blogs.yahoo.co.jp/genkikidx/22408872.html
京都散歩ナビ|養源院
http://kyoto-sampo.jp/kanko/yogenin.html
http://kyoto.wakasa.jp/detail/25/861/
http://kofuntonekosukoshi.blogspot.jp/2013/05/blog-post_14.html
慶長(けいちょう)は、日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。http://ja.wikipedia.org/wiki/慶長
寛永(かんえい)は、日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。http://ja.wikipedia.org/wiki/寛永
http://kotobank.jp/word/永禄
東京国立博物館-トーハク-の公式サイト
尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」
※2008年10月28日(火)~11月16日(日)まで、4つの「風神雷神図」を同時にご覧いただけます・・・
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=559
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あるく奈良-26 [中宮寺と法輪寺...etc]
http://guchini.exblog.jp/24606172/
2015-10-27T16:18:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-10-25T17:31:21+09:00
gpo-higuchi
未分類
中宮寺や法輪寺、斑鳩神社に藤ノ木古墳、法起寺に法隆寺などと、
田んぼの畦道を秋風と共に、7世紀頃の古代寺院が点在するこの地を、時代に累々と重なり合う時の断片をなぞりながら散策する・・・
斑鳩の里|奈良県|Googleマップ
(2015年10月15日撮影)
「中宮寺」(ちゅうぐうじ)
奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの寺院である。宗派は聖徳宗に属す。山号を法興山と称し、本尊は如意輪観音、開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/中宮寺
←本尊「木造菩薩半跏像」
飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。
寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。50円普通切手の意匠になった・・・
「天寿国繍帳残闕」(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)
染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存がむずかしい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重なもの。現在、奈良国立博物館に寄託・・・
「中宮寺」を出て、長い階段を登り斑鳩神社に立ち寄ってみる・・・
「斑鳩神社」(いかるがじんじゃ)
奈良県生駒郡の神社。法隆寺の北東の天満山に位置し、菅原道真を祀る。法隆寺鎮守4社の1つ[要出典]で寺の鬼門の守護神とされ、現在も関係が深い。当初は天満山の西麓に位置し境内に如法経堂という堂があったが、寛文年間に火災で全焼した。寛文8年(1668年)に神殿が再建された後、水害のため享保10年(1725年)に現在と同じ山上に移ったと伝えられる。1869年(明治2年)には、法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が遷祀された。
総社明神:かつては法隆寺の北西にあり、仁平3年(1153年)に社殿を建立した。
五所明神:建保6年(1218年)の創祀とされる[2]法隆寺東院の総鎮守で、住吉神・春日神4座を祀る。『延喜式神名帳』にある平群郡の平群神社五座に比定する説もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/斑鳩神社
貸し自転車は坂道を駆け抜けると、秋桜や柿畑の向こうに「法輪寺」の三重塔が見える・・・
「法輪寺」(ほうりんじ)
奈良県生駒郡斑鳩町にある仏教の寺院。三井寺(みいでら)とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも書く。宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像。
法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/法輪寺_(斑鳩町)
帰路「藤ノ木古墳」に立ち寄る・・・ ↓(上の写真のベンチの左上に入り口があり、その内部です・・・)
「藤ノ木古墳」(ふじのきこふん)
奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳(円墳)。「藤ノ木」の名称は所在地の字名に由来するが、法隆寺関係の古文書・古記録によれば、かつては「ミササキ」「陵山」(みささぎやま)などと呼ばれていた。 玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。この時期に畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。
古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350メートルに位置する。現在は周辺が公園として整備され、説明板なども多数設置されており、法隆寺周辺の観光スポットとなっている。また、古墳から南へ200メートルほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤ノ木古墳
遥か遠い昔々の、頭の中でかすかに浮かぶ歴史教科書をなぞりながら、
静かな秋の気配が漂う「斑鳩の里」を後にする・・・
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(以下・参考サイト)
奈良|法隆寺観光|いかるがの里観光案内所
法隆寺iセンター
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/map.pdf
←(画面をクリックすると、600 x 857pixに拡大します)
中宮寺オフィシャルサイト|中宮寺の歴史
http://www.chuguji.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/中宮寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/弥勒菩薩半跏思惟像
https://ja.wikipedia.org/wiki/弥勒菩薩
法輪寺ホームページ|オフィシャルサイト
奈良・斑鳩の里にある法輪寺は、聖徳太子の御子・山背大兄王創建とも伝えられています。二体の飛鳥時代の仏像と昭和五十年に飛鳥様式で再建された三重塔で知られています・・・
http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/
法林寺(法輪寺)
斑鳩の法輪寺らしいです。大和法輪寺の三重塔は、現代に伝えられた三重塔中で最古の塔でしたが、昭和19年に落雷で焼失してしまいましたが、現在は再建されています。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_horinji.htm
斑鳩神社へようこそ
http://fishaqua.gozaru.jp/nara/ikaruga/ikaruga/text.htm
常設展示案内/古墳時代 - 奈良県立橿原考古学研究所
古 墳 時 代. ジャンプするときは、メニューまたは配置図の下線の引いてあるところをクリックしてください。 Ⅰ.ヤマト王権の成立. Ⅱ.倭の五王の時代. Ⅲ.古墳のまつり 埴輪と木製品. Ⅳ.ヤマト王権の展開. Ⅴ.藤ノ木古墳の時代 ...
http://www.kashikoken.jp/museum/permanent/kofun/kofun.html
藤ノ木古墳
法隆寺の西350mの所に、法隆寺の中世文書で「陵山」と呼ばれ、江戸時代には崇峻天皇陵と考えられた古墳がある。藤ノ木古墳である。橿原考遺古学研究所は1985年( 昭和60)から1988年(昭和63)にかけて三回発掘調査を実施し、ほぼその全容を解明 ...
http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/kofun/fujinoki_kofun.htm
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あるく奈良-25 [法隆寺の神無月]
http://guchini.exblog.jp/24576730/
2015-10-21T10:34:00+09:00
2016-12-30T21:12:04+09:00
2015-10-16T15:56:00+09:00
gpo-higuchi
未分類
ここは、世界遺産「法隆寺」・・・
創建は聖徳太子の飛鳥時代、仏教文化の華を開かせた607年(推古15年)、金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍、境内の広さは約18万7千平方メートル、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群・・・
法隆寺|斑鳩|奈良県|Googleマップ
(2015年10月15日撮影)
世界遺産「法隆寺」(ほうりゅうじ)
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺
↑(中門と金剛力士像・塑造-飛鳥時代) ↑(五重塔-飛鳥時代) ↑(エンタシスの柱の廻廊-飛鳥時代) (西院回廊と大講堂-平安時代)
推古天皇と聖徳太子は601年(推古9年)飛鳥からこの地に移り、用明天皇の遺願を継いで、607年(推古15年)に斑鳩寺として建立。670年(天智9年)に火災で一度失われその後再建され、711年(和銅4年)に五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像、五重塔や中門を含む西院伽藍全体が完成したと云われている。その1,400年に及ぶ歴史から国宝・重文に指定されたものは約190件、点数にして2,300余点に及んでいる・・・法隆寺献納宝物/釈迦三尊像/観音菩薩像/百済観音像/救世観音像/「西方阿弥陀浄土図」などの金堂壁画/玉虫厨子...etc
↓(金堂-飛鳥時代)
秋となれば・・・
生涯に20万を超える句を詠んだ正岡子規は、1895年(明治28年)5月に記者として日清戦争に従軍中に喀血し、神戸に入院後、故郷松山で養生し、当時書かれた「坊ちゃん」の英語の先生だった夏目漱石の下宿で50日ほど仮寓、その後病状がよくなり10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在し、誰もがご存知の句が生まれている・・・
法隆寺の茶店に憩ひて...
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 正岡子規
1895年(明治28年)11月8日号「海南新聞」
そして、この斑鳩の里は、法隆寺を中心に中宮寺、法輪寺、法起寺など、7世紀頃に古代寺院が多く建立され、今も仏教文化が栄えた姿を止めている・・・
で、いにしえの斑鳩は秋、特に秋深まる「神無月」(旧暦10月)だと、
明治から大正の浪漫派詩人「薄田 泣菫」は詠う・・・
薄田 泣菫
(詩集「白羊宮」1906年/明治39年)
ああ、大和(やまと)にしあらましかば、
いま神無月(かみなづき)、
うは葉(は)散り透(す)く
神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて
往(ゆ)きこそかよへ、
斑鳩(いかるが)へ。
平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金(こがね)の海とゆらゆる日、
塵居(ちりゐ)の窓のうは白(じら)み、
日ざしの淡(あは)に、
いにし代の
珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金文字、
百済緒琴(くだらをごと)に、
斎(いは)ひ瓮(べ)に、
彩画(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす芸の宮、
斎殿(いみどの)深(ふか)に、
焚(た)きくゆる香(か)ぞ、
さながらの八塩折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそ酔(ゑ)はめ。
新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘(たちばな)葉がくれに、
ほのめく日なか、
そことも知らぬ靜歌(しづうた)の
美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、
黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、
矮人(ちひさご)の樂人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。
尾羽身(をばみ)がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木(こ)の間(ま)に、
これやまた、
野の法子兒(ほふしご)の化(け)のものか、
夕寺深(ゆふでらふか)に聲(こわ)ぶりの、
讀經(どきやう)や、今か、靜こころ、
そぞろありきの在り人の
魂(たましひ)にしも泌み入らめ。
日は木(こ)がくれて、諸(もろ)とびら
ゆるにきしめく夢殿の
夕庭寒(ゆふにはさむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、
名こそあれ、葉廣(はびろ)菩提樹、
道ゆきのさざめき、
諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、
振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、
九輪の錆(さび)に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾(すそ)ながに
地に曳きはへし、
そのかみの學生(がくじやう)めきし
浮歩(うけあゆ)み、
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫(しば)しをも、
知らましを、身に。
↑(東大門から、東院伽藍の夢殿を見る-奈良時代) (以下、東院伽藍の夢殿-奈良時代)
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(以下・参考サイト)
ご当地グルメ「柿の葉寿司」&三輪素麺・・・
..............................................................
柿の葉寿司「平宗」
http://www.hiraso.jp
店舗のご案内|路面店|法隆寺店
http://www.hiraso.jp/store/road/houryuji.html
柿の葉すし本舗「たなか」
https://www.kakinohasushi.co.jp
..............................................................
一口大の酢飯に鯖や鮭などの切り身と合わせ、柿の葉で包んで押しをかけたすし。柿の葉は剥がして食べる・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/柿の葉寿司
奈良県三輪素麺工業協同組合
http://www.miwasoumen-kumiai.com
https://ja.wikipedia.org/wiki/三輪素麺
法隆寺オフィシャルサイト|聖徳宗総本山
交通案内 - 境内図 - 法隆寺略縁起 - 法隆寺の四季
http://www.horyuji.or.jp
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など
https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺献納宝物
https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺地域の仏教建造物
https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
夢殿 - 法隆寺
http://www.horyuji.or.jp/yumedono.htm
法隆寺の歴史法隆寺のことが全てわかるサイト
http://www.horyuji.asia/entry5.html
奈良 法隆寺観光|いかるがの里観光案内所
法隆寺iセンター
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/
(画面をクリックすると、600 x 857pixに拡大します)→
https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年(明治10年)5月19日 - 1945年(昭和20年)10 月9日)は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原 ...
1917年、パーキンソン病に罹患。1919年、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し西宮市に在住、自邸を「雑草園」と名づけた。芥川龍之介を社員として招聘して多くの文章の発表場所を与えたが、1923年、病気が悪化したため、休職。晩年は口述したものを夫人が筆記していた。1945年10月4日、意識不明となり疎開先から連島に戻ったが、9日に尿毒症で死去した。68歳没...
https://ja.wikipedia.org/wiki/薄田泣菫
木村真理子の文学|ああ大和にしあらましかば 訳
http://blog.goo.ne.jp/mariko_kimura/e/0b26b73bc79344cea9dc808d294aa022
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あるく奈良-24 [法起寺の秋桜]
http://guchini.exblog.jp/24576050/
2015-10-17T16:20:00+09:00
2018-10-20T17:42:21+09:00
2015-10-16T11:33:57+09:00
gpo-higuchi
未分類
満開の秋桜が咲く畦道から「法起寺」の三重塔を望み、たわわに実った稲穂や、刈り取られた稲わら、
秋はこの斑鳩の里を静かに包み込んでいた・・・
法起寺|斑鳩町|奈良県|Googleマップ
(2015年10月15日撮影)
たわわに実る稲穂の畦道を歩き「法起寺」の三重塔を望みながら入り口へ・・・
聖徳太子建立七大寺の一つに数えられ、寺は太子が没して数十年後に完成する・・・
現在は「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている・・・
「法起寺」(ほうきじ、ほっきじ)
(法隆寺地域の仏教建造物・世界遺産)
奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院。古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれた。寺名は20世紀末頃までの文献では「ほっきじ」と読んでいたが、現在、寺側では「ほうきじ」を正式の読みとしている。山号は「岡本山」(ただし、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである)。本尊は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことである。「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている・・・
世界遺産・法隆寺が所在する斑鳩(いかるが)の里には、法起寺のほか、法輪寺、中宮寺など、創建年代が7世紀にさかのぼる古代寺院が存在し、この地が早くから仏教文化の栄えた地であったことがわかる。
法起寺は法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区に位置する。この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられている・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/法起寺
http://www.horyuji.or.jp/hokiji.htm
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(以下・参考サイト)
奈良|法隆寺観光|いかるがの里観光案内所
法隆寺iセンター
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/
←(画面をクリックすると、600 x 857pixに拡大します)
法起寺は、太子の岡本宮を太子の遺言により、その子山背大兄皇子が寺に変えた
もので、地名から岡本宮、池のそばにあったので池尻寺ともいわれる。
三重塔は、706年に完成したとされ、高さ24mの塔は最古のもので、法隆寺伽藍と
共に世界文化遺産に登録されている。創建当時のものは、三重塔だけで、三重塔と
しては、最古最大であり飛鳥時代の建築様式を伝えている。
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/spot2/houkizi.html
http://www4.kcn.ne.jp/~ikaru-i/map.pdf
法起寺|春日野奈良観光
http://www.kasugano.com/kankou/hokiji/
法起寺へようこそ
http://fishaqua.gozaru.jp/nara/ikaruga/hokiji/text.htm
聖徳太子と七大寺
聖徳太子は七つの寺の建立に関わったとされていて、七大寺と呼ばれています。この七大寺には、それぞれ国宝や国の重要文化財などがたくさんあります。聖徳太子が直接建立に関わった寺、指示をして建てさせた寺などがあります。
法隆寺/四天王寺(大阪)/広隆寺(京都の太秦)/橘寺/中宮寺/法起寺/葛木寺(現存しない)/
http://www.shoto9taishi.com/buddhism/nana.html
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